2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト

« 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年4月~6月) | トップページ | 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年7月~9月) »

2016年7月31日 (日曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅱ》私が実見した司馬遼太郎にかかる石碑や案内板のこと

せっかく開設いただいたこのBlogCafe『歴史に好奇心』である。
開設の意図・動機に叶うような話題を見つけて賑やかにしたいと考えるものである。
上野彦馬が撮影した「フルベッキ写真」の話題を提供していただいた。614
私も「日本史におけるwineなど」を書いてみたが、深堀りや展開するには限界があった。

新たな試みとして、私が『街道をゆく』をなぞる旅などで見つけた表記の石碑・案内板のことを紹介し、呼び水となって皆さんからの投稿が続けばいいなと考えている。

『花神』の文学碑

 山口市鋳銭司の大村益次郎を祭る大村神社の境内に建立された。
大村益次郎と彼の出身地鋳銭司を全国区にしてくれた司馬遼太郎に感謝をしたものだという。

司馬遼太郎から取材を受けたことがある鋳銭司の郷土史家で、市歴史民俗資料館名誉館長の内田伸氏と、司馬遼太郎の戦友であり現場近くに住む森重寅雄氏が中心になって建てた。

碑の文は、
『花神』周防鋳銭司の人 村田蔵六を偲び 司馬遼太郎 と読め
「防長の山河の美しさは天下に比類がない。
萩の海辺の島々は夢の国のようであるし、山々をめぐる丘のたたずまいの優しさはどの土地にもない。
<防長の山河は優しいのです>蔵六はいう。
蔵六のおかしさは、その優美ななかでも第一等の地は、<この鋳銭司村です>と、おのれの生れ在所を誇ったあたり、お琴がきいていても滑稽であった。」(司馬遼太郎『花神』)(右写真:花神の碑)160729_514_2

四境戦争の石州口の戦いを指導し戦勝した凱旋であるが全く気負わない。
妻のお琴の待つ鋳銭司村に戻ったときの蔵六のふるさと自慢である。
建立した関係者もよほど嬉しい郷土愛に溢れた一節なのであろう。

 山口市の瑠璃光寺五重塔の傍らに建てられた碑

「(長州はいい塔をもっている)と、惚れぼれするおもいであった。
長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする。」(司馬遼太郎『街道をゆく1』長州路より)(写真右:瑠璃光寺にある碑)

 これに先立つ記述がある。
「陶晴賢の反乱で、弘世以来二百余年のこの小京都は火のなかでほろんだ。160729_486_2

いまは大内文化の遺構というのは、ほとんどない。
わずかにいまからいく瑠璃光寺の五重塔ぐらいのものであろうか。」(写真右:瑠璃光寺の五重塔)

有限会社 渡辺酒造店前の杜氏の「酛摺り(もとすり)」像についた司馬の短歌

 飛騨・古川を散策しているときに偶然見つけた。
おそらく依頼を受けて“書き下ろした”短歌だろう。
同社のホームページには、
≪平成元年3月、創業120年を記念し、併せて杜氏達のこれまでの労に感謝の 意を表するため、酒造りの象徴とも云うべき「酛摺り(もとすり)」のブロンズ像を建立しました。≫とある。

肝心の司馬の短歌は、
「杜氏殿の 心澄みゆき 魂きはる いのちの酛は 生まれ始めけり」(写真右:蓬莱酒造杜氏の像と司馬遼太郎の言葉)

 国宝西院 御影堂 司馬遼太郎 (東寺)

「私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす習慣をもっている。123
訪ねてくるひとに京都のどこかの寺をそのときの思いつきのままに案内するのだが、たいてい電話での約束のときに、― 東寺の御影堂の前で待ちましょう。ということにしている。
京の寺々を歩くには、やはり平安京の最古の遺構であるこの境内を出発点とするのがふさわしく、また京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移ってゆくのが、なんとなく京都への礼儀のような気がして、そういうぐあいに自分をなじませてしまっている。
空海に対する私の中の何事かも、こういう御影堂へのなじみと無縁でないかもしれない。」(『古寺巡礼 京都1東寺』、『古往今来』等のほか『司馬遼太郎が考えたこと8』に再録)(写真右:東寺御影堂 司馬遼太郎の言葉)490

『峠』の碑

 新潟県長岡市と小千谷市との境に信濃川が流れている。
両市を通る国道17号に「越の大橋」がかかる。小千谷市側の橋のたもとにこの文学碑がある。(写真右下:峠の碑、表側)

裏表に文が刻まれている。長くなるが引用しよう。まず表の文章。
「主力は十日町を発し、六日町、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。
坂の右手は、大地が信濃川へ落ちこんでいる。
川をへだてて対岸に三仏生村がある。
そこには薩長の兵が駐屯している。
その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばしてきた。
この川越えの弾丸が、この方面の戦争の第一弾になった」546

 北越戊申戦争の激戦の火ぶたが切られたのが榎峠であるが、碑は川を挟んで榎峠をのぞんでいる。(写真右下:峠の碑、裏側)

次いで碑の裏の文章である。<『峠』のこと>と題する。

「江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。
17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。
この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。
かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。
継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。
ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。
にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。535
長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。
といって屈従は倫理として出来ることではなかった。
となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。
かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。
武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。
運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。
書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。 」(平成511月 司馬遼太郎)

なお、この碑が出来た経緯は多少知られている。
担当者が、面識のない司馬家に、直接電話し、小千谷市に予算が全くないことを打ち明けて建設計画もない、碑の石も用意してない、除幕式も予定できないが場所だけはある。
それでも『峠』の文学碑が欲しいと。
電話を受けた司馬夫人が司馬に相談し二つ返事で了解を得たという。
「主人も忙しいし、山本さん(担当者)も忙しいしでしょうから、おいでいただく必要はありません。
すべてを宅配便でやりとりしましょう。
お金の心配も要りません。お話をお引き受けいたします」となったということだ。

 自作ながら、司馬の『峠』や河井継之助に対する思いを感じさせはしまいか?

トップページへ

 

« 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年4月~6月) | トップページ | 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年7月~9月) »

コメント

司馬遼太郎記念館会誌【遼】によれば『峠』の小千谷談判の現場慈眼寺に、司馬の記念碑が建ったという。
碑文は「河井継之助の風姿を知らむがため慈眼寺に来る 山内の蝉声を聞きつつ」という短いもの。
そして信濃川・越の大橋のたもとにある司馬の文学碑もリニューアルされたと報じている。
そして「峠」が映画化され2020年に公開されるが、楽しみにしている河井継之助ファンは多かろう。私もそうだ。継之助を役所広司が、夫人おすがを松たか子が演じるようだ。映画は『峠 最後のサムライ』

栗岡です。代理投稿します。

「高野山奥の院の司馬遼太郎文学碑」

2015年3月29日に「二十一世紀の空海」のテーマで卓話をされた小牧完次氏から連絡がありました。小牧さんは、隔年に高野山に参拝しておられ、高野山奥の院の一の橋に司馬遼太郎の文学碑があるのを何度も見ています。平成20年9月に建立され、式典には、総本山金剛峯寺の松永有慶管長や司馬遼太郎記念館の上村洋行館長らが参加したといいます。碑文は、高野山管見(『古寺巡礼 高野山金剛峯寺』)(司馬遼太郎が考えたこと10)から、『高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。山上は、ふしぎなほどに平坦である。そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせひさしを深くし、練塀をつらねている。(中略)まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか』と416字を刻み司馬さんの署名が入っている。
司馬は昭和18年、学徒出陣前に友人と奈良の吉野から和歌山・潮岬を目指したが、夜道を歩いているうちに道に迷って高野山にたどリ着いた。電光がキラキラ光り、深山幽谷にきて、こんな高い山の上になぜ都会があるのか実に驚いた。「異次元空間に入ったような感覚」を覚えたと書いています。「空海の風景」余話(司馬遼太郎が考えたこと9)

関係する文芸作品としては、白眉といえる『空海の風景』があります。なお、碑の写真は
前記小牧さんの卓話のレポートのなかにあります。
http://wakokujyoou.cocolog-nifty.com/shibaryo/2015/03/post-fd1e.html 

これらの碑や案内板は、あらかじめその存在を知っていて訪ねた≪『峠』の碑≫以外は、偶然に出会ったもので、「ああ、こんなところに」と感激はひとしおであった。のちに作品の当該箇所を確認したことは言うまでもない。

作品に縁のある自治体なりが“誘致”の感覚で、司馬遼太郎(今は記念財団)の承諾を得て建てるのであろう。

司馬遼太郎記念館が、だいぶ前に記事にしたところでは、奈良県葛城市(竹ノ内街道「鶯の関跡」)、高知県梼原町(「石水の池」碑)、長崎県西海市(「肥前の諸街道」)、姫路市(「歴史と小説」から)、同(『播磨灘物語』)下関市(『長州路』から)、熊本市八代市(宮崎八郎戦没の碑)、島根県浜田市(浜田藩追懐の碑)栃木県佐野市(『この国のかたち』から)、長崎市(『竜馬がゆく』から)、静岡県三島市(『箱根八里記念碑』)等があるらしい。

QV10(カシオの初代デジカメ)は発売直後の買ったのに、カメラを持ち歩く習慣がなく、過去に行った観光地などの写真が少ない。
iPadを手に入れ、今年からiPhoneにしたので、今後はデジタルデータとして写真を提供できる様に頑張りたい。
記念碑類についてたまたま昨日、自分のブログに書きました。
栗岡さんの趣旨とは合わないかも知れませんが、最近の悩みです(笑)
以下ブログを転載
↓↓
「顕彰碑を作るので寄付をお願いします!」
この様な依頼が多くなってきた様に感じる。
多少なりとも歴史に首を突っ込んでいるからであろうか・・・
様々な自治体も偉人の銅像や碑を作っているが、それは町興し(つまり観光客目当てか)なのだろう。
上記の寄付依頼は個人や有志が多い様だ。
気持ちは分からないでもないし、少額ではあるが実際に寄付する場合も多くなってきた。
いやらしい話になってしまうかも知れないが、一定以上の寄付をしてくれた人は名前を刻むとか記念誌に名前を載せるという案内も見かけるが、いかがなものであろうか?
例えば3万円以上で名前を載せますとかだが、なけなしの財布から2万円を寄付してくれた人と3万円を寄付した金持ちを、偉人本人は区別するだろうか?
もっとも既に死んでいるから偉人本人に聞くわけにもいかないし、本当に偉人なら「自分の銅像など要らない」と言うに違いない。
実際には個人の情熱で記念碑などを作ろうとしている人の苦労は大変なものであり、私の考えは邪推に過ぎない(笑)
この様な話が最近あった。
ある偉人の子孫が、3代を経て郷土のイベントに参加して記念碑の前に現れたという話だ。
少し説明を要する。その偉人は郷土を離れて東京で暮らしたので、その後3代は故郷とは無縁となってしまった。
郷土の記念碑は当時の有志が集まって作ったもので、交代で掃き清めて100年守ってきた。
偉人を讃えるイベントは毎年開催され、東京の偉人家族には毎年案内されていたが、当の偉人の子も孫も一度も参加する事なく100年が過ぎた。100年の間には戦争もあって、偉人家族は消息不明となり、主催者は連絡が取れなくなってしまう。
そして、100年の記念イベントに曾孫が突然現れたのだ。
曾孫は東京でたまたま友人から100周年記念イベントの話を聞いて参加した。
100年の歳月は主催者も記念碑製作有志の孫か曾孫で運営している。
偉人の曾孫は歓迎ムードでない事に気がつく。
主催者からすれば、素性が知れず何処の馬の骨かも分からなかったからだ。
偉人の曾孫は戸惑った。なぜ歓迎されないのか・・・偉人の子孫なのに・・・
同じ様な話が我が家(故郷五島列島)でもあった。
親戚筋の名家が祖父さんの時代に都会に移り住んだ。最初の数年は墓参りに来ていたが、途切れてしまって管理者がいなくなってしまった。
少し遠いが親戚筋という事で、私の祖父さんが掃除をして、お盆には灯籠を立ててご先祖様の供養をした。
祖父さんが死ぬと、私の父が管理した。
私も物心がつくと我が家の墓と同様に掃除して灯籠を立てるという役割が与えられた。
それは、私が小学高学年のお盆だったと記憶している。
その墓の子孫が島へやってきた。
先祖の墓は湯川家が管理してくれていると寺で聞いてきたようだ。
長崎のお盆は墓で爆竹などやって賑やかなことで有名だ。わが町はお盆の三日間灯籠をたてる。初盆の家などは灯籠を10個も20個も立ててご先祖様にアピールする。
ちょうど私がその親戚筋の墓の灯籠を立てていた。
灯籠立てとは、竹竿で矢倉を作り家紋の入った提灯を吊るす作業をいう。
「なんでウチは3本なの?」「ウチは名家だから、もっと沢山あっても当然だよね」
歳の頃は40才くらいの東京弁の大人が少年に最初に発した言葉だ。
「知らんとです。毎年3本じゃけん」
少年は事情が分からず、こう言うのが精一杯だった。
町の高級旅館に泊まったその遠い親戚は、翌日父を訪ねてきて「これからも墓守をお願いします」と言ったそうだ。(菓子折り一つ持たずに・・・)
しかし父はこう言った。
「親戚ですけん、出来るだけしようと思っちょります。こん後もできるだけの事ばしましょう」
少年は遠い親戚の人を無節操と思い理不尽に感じたが、
その50年後、父が死に、当時少年だった私が故郷の墓守に悩んでいる(笑)
記念碑は管理してくれる人がいてこそ価値がある。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年4月~6月) | トップページ | 「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年7月~9月) »