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2016年10月

2016年10月12日 (水曜日)

「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年10月~

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10月8日(日)
第87回「神道」を考える~『この国のかたち(五)』から(卓話:斉藤弘昭)

11月6日(日)第88回歴史シンポジウム「敗者たちの明治維新」(パネリスト:小名泰裕氏、栗岡健治氏、堀江幸夫氏)161106_612_2

12月24日(土)第89回女子高等教育の開拓者「津田梅子」(卓話:大澤有信氏)


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≪栗岡健治の談話室Ⅲ≫ 『街道をゆく』の初代挿絵画家・須田剋太氏のこと

須田剋太氏 そして吹上、熊谷、浦和
1971年(昭和46年)から始まった司馬遼太郎の『街道をゆく』は、全43巻72街道25年間の膨大な紀行文集である。
最初の挿絵画家として、約20年間、司馬遼太郎とともに街道を辿ったのが須田剋太氏である。Photo (写真右)
43巻の『街道をゆく』のうち第35巻「オランダ紀行」までを須田剋太氏が担当した。
第30巻「愛蘭土紀行Ⅰ」、第31巻「愛蘭土紀行Ⅱ」は、司馬遼太郎が、厳しい気象を考慮し須田剋太氏の健康を気遣ったため、現地取材に参加することなく写真から挿画を描いたようだ。
また、第35巻「オランダ紀行」は、連載途中で、病気入院した須田剋太氏の代役や後任の画家を求めず司馬自身がスケッチしている。
私が、最初に馴染んだ司馬作品は『街道をゆく』であり歴史小説よりも先であった。
須田剋太氏のことも『街道をゆく』によって初めて知った。
おかっぱ頭とつなぎのジーンズ。胸のポケットには大きな手帳、眼鏡が何種類も入っていたという。
ユニークな画伯に驚いた。そしてその言動にも。

近江が大好きな司馬が最初に選んだ街道は「湖西のみち」(第1巻)で、日帰りの旅であった。
須田画伯の初出は、この中である。北小松という琵琶湖西岸の漁港の街で、水を流す溝のことを話題にしている。
司馬は「須田剋太画伯は、私が家々の戸外の厠をのぞきつつ村のにおいを嗅ぎまわっている後姿を、厳格な風貌でスケッチしていた」と自らが描かれる様子を書く。(右写真:湖西のみち)822
ここで、溝の石組みに活かされた技術は、土木技術で有名な穴太衆のものとしており、穴太も琵琶湖西岸にある。
(この街道で須田画伯の初めての発声)「いい石組みですな」と、須田剋太氏は溝をのぞきこんでしばらくうごかなかった。
司馬の母親の里を歩いた「竹内街道」(第1巻)で、「画伯は、二十数年前、奈良の東大寺の南大門に惚れこんで上方に住みついた人だから、痛恨はひとしおなのであろう」と須田画伯の関西転入事情に触れているが、どこから来たか、どこの出身か書いていない。
なお、痛恨を簡単に説明すれば、〈ブルドーザーが赤松林を根こそぎに均し、古墳をこそげとった~〉という当時の経済社会現象に須田画伯が「大和ももうだめですね」と嘆いたのを受けた記述である。この感懐は司馬と共有するものである。

「甲州街道」(第1巻)で初めて「画伯は武蔵国熊谷の人である」とあり、私はひどく驚いたことを記憶している。そののち須田画伯が私の高校の先輩にあたることも知り、この画家に親近感を持つようになった。
手もとに、平成27年9月刊の埼玉県立熊谷高等学校同窓会の創立120周年記念 同窓会会員名簿がある。
ページを繰るとあった。須田剋太(中28)(勝三郎)逝去とある。中28とは、第28回(昭和2年(1927年)卒業)生で大先輩だ。
「陸奥のみち」(第3巻)では、飛行機が八戸空港に近づく際、無数のオレンジ色の灯火、漁火に司馬が驚くのに対して「そうです、漁火ですね」と発した須田画伯のことを変に落ち着いていると書く。
次いで須田画伯が発した「ハハァ、こんな所にもイカが居るのですか」を聞いて、司馬はいつもの須田さんに戻ったと書く。
八戸は、イカの水揚げ高日本一だというではないか。須田画伯の言動はユニーク過ぎる。
宿の夕食に海鞘が出たが、動物性食物について冒険心を持たない司馬が箸をつけない。
須田画伯は「私もよく似ています。ですから遠慮します」と言いつつ大輪の菊の花を箸でつまみあげて食べた。
「須田さん、それは菊じゃありませんか」と司馬は裏切られたような思いで目をむくと、須田さんのほうが驚き、「あなたは菊を食べないのですか」と逆襲してきた。
須田さんは埼玉県熊谷の人だから大いに好んでいるが、上方にはそういう現象はなさそうである。Photo
関西に‟帰化“したとはいえ武州の人須田剋太と文化的背景を異にする司馬の二人の掛け合いは面白い。
須田画伯の故郷をより正確に書いたのはどの街道からであっただろうか。
「堺・紀州街道」(第4巻)でも「須田さんの故郷は埼玉県の熊谷からちょっと離れた在で、村に、明治時代の帳場のある店もある」と、いまだピンポイントではない。
「信州佐久平みち」(第9巻)でも「須田剋太画伯が、熊谷からよほど入った在のうまれであることは、幾度かふれてきた。父上は小学校の校長さんだった~」となおも吹上がでてこない。

隈なく調べたわけではないが、須田画伯の故郷である「吹上」が初めて出てくるのは「越前の諸道」(第18巻)ではないだろうか。
なお合併で旧吹上町は現在、鴻巣市となっている。
ずっと後の世代の私にもどうにか理解が可能な情景であるので引用する。
「須田画伯が、武州熊谷付近の吹上の在で成人されたころは、関東の土俗がなお濃厚にのこっていた。
中山道は、なお細い未舗装の道で、馬に荷車を曳かせたひとたちが往来していた。
その馬方たちが、街道ぞいの茶店の外に馬をとめ、黒く煮しめあげたようなうどんを、立ち食いで食っていた。
それが大正期のそのあたりでの唯一の外食風景だったという」
「黒く煮しめあげたようなうどん」には、関西人司馬の「あれがうどんか?」の評価が透けて見えるように思う。
一方の須田画伯は、黒く煮しめあげたようなうどんかどうか知らないが、郷里で食べたうどん「煮込み」が懐かしかったようだ。
内弟子の関西人の女性に、何度も作り直させてやっと満足のいくうどんが出来るようになって楽しんでいたらしい。
私事であるが、私の義父(故人)は、吹上の生まれで同地に眠っている。
上級学校進学はやはり熊谷中学からであった。吹上は私もよく知る地域である。(写真右:豊後・日田街道を旅する栗岡・咸宜園にて)


須田剋太氏が『街道をゆく』挿絵画家に起用された事情
『街道をゆく』の最初の担当者「編集部のH氏」とは橋本申一氏である。
あとに続いた担当者は本名で書かれているが、橋本氏だけなぜか「編集部のH氏」である。
当初『街道をゆく』の画家を誰にするか司馬に心当たりはなく、橋本氏が須田剋太の名を挙げたようだ。橋本氏は日本画の大家・橋本関雪の息子だった。
須田剋太は抽象絵画の世界で知られていたが、かつて具象画家で評価され活躍をしたことは忘れられていた。
こうして司馬と一緒に旅をする画家に決定し、須田画伯は再び具象の世界に戻った。
司馬も「須田さんを起用したことは、橋本さんの不滅の功績だね」と後の担当者によく言っていたようだ。
須田剋太自身も『街道をゆく』の仕事が大いに気に入っていたようで、「司馬さん、この仕事は健康にいいから続けましょう」と言っていたという。
病気になってもやめたくないといい、当時連載中の「オランダ紀行」では司馬がそんな須田剋太を気遣い、自ら挿絵を描いている。


『街道をゆく』のなかの須田剋太氏  滑稽譚など
『街道をゆく』には、須田画伯のユニークを超えた言動が多く描かれている。
それを揶揄した司馬の言葉があったりする。
こういう個所を集大成したらきっと一日中笑えるだろうと思う。
5傑を探してみた。実は5つに絞るのは難しいのだが。
滑稽譚だけでなく画伯の驚異的な記憶力にあきれた記述もある。

「越前の諸道」の<越前陶芸村>で、司馬、須田がともに旧知の心斎橋筋の老舗めがねやさんにつとめていたS氏に、偶然再会するエピソードが挿入される。
「もう古い話になるがS氏が、知り合いの画家たちに頼んで、フレームのデザインをしてもらった。
この企画はうまく行って評判がよかったらしいが、須田画伯のデザインのものだけは、あまりに奇抜で、一点も売れなかった。
わくは、須田画伯の描線のように亀甲型の変形で、たれがこのフレームをかけても須田画伯の顔になってしまうほどに強烈であった。
やむなく、画伯は以後、自分だけがこのフレームをつかっている」

「嵯峨散歩」の<千鳥ケ淵>、「ところで、平床几にすわっている須田画伯が、ぶつぶつと諳んじはじめたのである。
『虞美人草』の中で、舟が急流をくだりつつ、空舟に出会うくだりだった。
空舟は、船頭が曳いてのぼる。船頭は、岸から曳き、あるいは岩頭にとび乗って曳く」
須田画伯の暗唱部分は長いのでごく一部を記すと「急灘を落ち尽すと向から空舟が上ってくる。竿も使はねば、櫂は無論の事である。~ ~ ~」
(同行する週刊朝日の写真家と記者のことだが)佐久間氏も藤谷氏も小声でお経のように唱えている須田さんの頑健な記憶力にあきれかえっている。
大正時代、埼玉県の旧制熊谷中学の読本に出ていたそうである。
「池本先生が」と、須田さんは、私どもが周知の人名のようにいった。
「国語の先生で、漱石の大のファンでした。これは、ただの文章じゃない、みな襟をただして読め、というから、みな憶えてしまったんです」

「沖縄・先島への道」の<石垣島>
(司馬)「大丈夫ですか」タクシーの中で、須田さんに疲労のぐあいをきいてみた。
目がくぼんで見えた。
「ええ、わっちは大丈夫です」、須田さんがいうと、中年の運転手が、関東の方ですね、ときいてきた。
あとでだんだんわかるのだが、この運転手さんはきっすいの石垣島うまれなのに、相当な方言通なのである。
べつにほうぼう歩いたわけではなく、那覇へ行ったのが外界へ出た唯一の経験だという。
うまれつき言葉の才能がある人のようだった。
「埼玉の熊谷の在のうまれです」須田さんはばかにくわしく答えてしまった。
「ああ、熊谷ですか」運転手さんは、客商売だからそのへんはいいかげんに、つまり知ったふりでうなずいた。
しかしおどろいたのは須田さんのほうで、運転席へ乗り出すように、「アナタ、熊谷ですか」といった。
しかし考えてみれば、埼玉県熊谷の人が八重山諸島でタクシーをやっている可能性は薄い。
「いいえ、私は石垣です」

「大和・壺阪みち」(第7巻)の<今井の環濠集落>
この巻に直接関わるエピソードではないが、須田画伯は、絵を売りたがらない画家であったと司馬が書いている。
「絵を売りたがらないということでも、激しい。
5年ばかり前、須田さんの友人が、須田さんの個展をみにきて、ぜひこの絵を売ってほしい、というと、須田さんは金魚が空気をのみこんだように狼狽し、その友人を控室につれてゆき、あなたと私とは金銭の関係ではないのです、と泣くように訴えて、とうとう商談はうやむやになった。」
それでいて惜しげもなく寄贈・贈呈をしている。
東大阪のお好み焼き屋の店主夫妻が、店の壁に絵を飾って小さな美術館にすることを計画。
須田画伯の絵が一点でも欲しいと司馬に相談すると、須田画伯から26点もの絵が届いた。
お礼にありったけのお金を持参して、あとは何年かかろうと感謝の気持ちを届けようと西宮の須田画伯を訪ねると、画伯は大いに怒って「私はお金を貰おうと思ってあの絵をあげたんじゃない、だからどうしてもそのお金を置いていくと言うんなら、絵はみんな引き上げる。
アタシはあんたら夫婦を気に入ったからあげたんだ。会ってみて変なヤツだったら描かないつもりだった」といわれる。
相談を受けた司馬は「須田さんらしいね。あの人はもともと金銭感覚をどこかへ置き忘れてきたような人で、お金の計算も損とか得とかも考えたことがないの。
そんなことより、たとえどんなことでもやりたいことに夢中になっている人間が好きなんだよ。
だから、君をそういう人間だと思ったから絵をくれたんだから、須田さんの好意に甘えるしかないな」
司馬の提案で店の定休日にお好み焼き、キツネうどんの材料持参で須田宅に出張ケイタリングし、夕食を一緒するようになったという。
絵の方は拡張されたお好み焼き屋と喫茶店≪喫茶・美術館≫に飾られることになった。
後段の話は、加藤 勉著『画狂 剋太曼荼羅』―須田剋太伝―より

「壱岐・対馬の道」(第13巻)の<風濤>
道路は、普請中であった。いま作業の休憩中であるらしく、ブルドーザーが無人のまま路傍にとまっていた。
赤黒いような土が機械力で掘りかえされ、無限軌道の跡が大きな縄目のようにふかぶかと刻まれている。
「李進煕(=考古学者)さん」と須田画伯は顔色を変えていた。
「ごらんなさい。これが縄文遺跡です」、「・・・はい」この考古学者は、当惑しているようであった。
ブルドーザーの跡ではないか。が、かれは年長者に対する礼の厚い人で、須田画伯を敬愛してもいたから、むげにはさからえなかった。
「そうでしょうか」と、くびだけはひねった。なかなかできない礼節の所作である。「これがわからンければ、造形はわかりません」
須田画伯の視線が赤土の道の遠く近くを往来しており、そのつど目が細くなったり丸くなったりした。
無限軌道の跡は、縦横についている。地形に高低があり、かつ土がやわらかいために、軌道跡の彫りの深浅や形、縁の盛りあがりようもさまざまで、素焼のオブジェ彫刻をみるような感じがしないでもない。須田画伯はこういう人である。
つまりここは滑稽譚ではなかった。
考古学者にブルドーザーの轍の跡を縄文遺跡だと言って困惑させるのはおかしいが、須田画伯の造形論であった。
ただ須田画伯によくある、表現が極端に短縮されている。
須田画伯との交わりが長くなり、新聞社で美術評論もやった司馬には見当がついた。
かつて一緒に旅をし、新潟からの飛行機がハバロフスクに着陸すべく高度を下げるあいだじゅう窓に額を押し付け下界を見続けていた須田画伯が「光琳でも、このカタチは考えられやしない」とつぶやいた。
司馬は、須田剋太の“縄文遺跡”もこれと似た話であると解説する。
少し違うかもしれないが、須田画伯の感動は、モンゴル・南ゴビの草原でも「パリよりも凄い」、蘇州の運河に沿う家並みの壁も「パリの壁よりすばらしいです」とやはり極端に省略した感動表現であった。(写真右:モンゴル紀行)985


画家としての変遷・転機
須田剋太のことを書いた司馬の短いエッセイ「善財童子(「須田剋太 一九八七展」)」は、「須田画伯の半生は、三段階にわかれている」で始まる。
このエッセイから抜き書きさせてもらう。

第一段階は、戦前の官展時代 牛肉の巨塊の図からはじまり、名作「十二神将」をもって最頂点とする。
官展の特選を三度受賞。一度の受賞で非常な名誉とされ、二度とれば画商がつくといわれた時代である。三度の受賞はあまり例を聞かない。

その後それらの名誉を古わらじのように捨てた。
官展を脱退して、在野の人になる。
具象画さえも捨てたのは、造形についての深刻な苦悩があったらしい。
「道元をみよ、あれこそ抽象ではないか」と説く長谷川三郎の鉄槌が、「華厳経」の「入法界品」にいう善財童子のようなこの人の脳天に響いたらしい。
以後、在野団体である国画会に入り、つぎつぎに骨格堅牢な抽象画を発表して、戦後抽象画の流れのなかに、ほろびざる足跡をのこされた。

第三期は、抽象画を展覧会制作として描く一方、あたらしい具象画を再展開された時期である。
このことは、十六、七年前からはじまった「週刊朝日」の「街道をゆく」の連載と不離の事情がある、と同画伯はいわれている。


画家の浦和時代
司馬が「浦和時代は、何年ほどでしたか」と聞いてみたことがある。
せいぜい三、四年だろうとおもっていた。
「※十九年です」と言われたとき、目の前が暗くなる思いがしたと書いている。
須田も浦和時代は一番暗く苦しい時代だったといいつつ、昔からどんな貧困の底にいても神(霊感、幼な心)へ通じる綱を断ち切る事をせず、今日でも幼な心を失っては居りません。(1978年1月手紙)
美大(東京芸術大学)入試に四度落ちている。川端画学校と独学の日々。
寺内萬次郎が、須田の才能に注目し光風会展、官展への出品を勧める。
昭和14年第3回新文展で「読書する男」が特選、昭和17年第5回新文展で「神将」が特選。
後に昭和22年第3回日展で「ピンクのターバン」が特選。「三度の受賞はあまり例を聞かない」と司馬が書いたのはこのことだ。
(※正しくは十五年であるようだ)
須田剋太自身が挙げる3人の恩人のこと
生涯にわたりいい友人に恵まれて幸せな人だったと言える。
夫人も画家で、新薬師寺を描きに来て須田画伯と知りあった。
若いころ虚弱だった須田画伯を気遣い、絵画のこと以外は全く無頓着な夫を特異児童といい、保護者を任じていた。
「街道をゆく」の旅でも、司馬や担当記者に須田をくれぐれも頼みますと依頼していた。よくこんな伴侶を得たものだ。

須田本人が挙げる以下の3人は、須田の人生の最上級の恩人であろう。
東大寺の上司海雲;須田剋太の精神的な外護者、真理に憧れる“善財童子”のようだと評した。
大仏殿を半裸のすがたで物狂おしく写生していた画伯を見出す。
「狂人須田剋太」とも書いたが、司馬によれば、須田さんにとって最高のほめことばに違いない。
抽象の長谷川三郎;長谷川については前記。自分の絵を根本から変えてくれた人で、造形とは何かということを叩き込んでくれた人。
道元の禅にも目覚めるきっかけを作ってくれた。
司馬遼太郎;長きにわたる“街道”の伴侶。
須田は、『街道をゆく』旅で、丈夫な体になった。いろんなヒントを得たし、絵も変わった。リアル感が出てきたと司馬との出会いに感謝していた。


絵画以外の須田剋太 「道元」「書」「学校・塾での絵画芸術の指導」
『街道をゆく』で、司馬がしばしば書いている。「須田画伯は道元の徒」
「越前の諸道」(第18巻)の<永平寺>、須田画伯は、道元を愛し『正法眼蔵』をよみつづけてきた。
あくまで私淑である。私淑という高雅さを保たねば、道元の近くに居るという気分が保てないと思っているのか、永平寺には行ったことがない。
当初永平寺を割愛するつもりであった司馬が、気を使ったか「須田さん、永平寺に行って見ましょう」、「そうですか」とわずかにうれしそうではあったが、不安気でもあった。
やがて永平寺に近づくと、客を吐き出したバスが多くうずくまっていて、さらにゆくと、団体客で路上も林間も鳴るようであり、おそれをなして門前から退却してしまった。
私どもは、遠く本道上まで逃げて、息を入れた。道元というのは、思想家としてはやはり一個の孤客だったのであろう。
道元好きの画伯は、小石を呑みこんだように、気持の整理のつかない表情のまま、うなずいてくれた。
須田に道元を教えたのは前記の長谷川三郎である。
書については、昭和40年59歳からしきりに制作を始めた。
独特な境地を開いた。
私は、吹上で「須田剋太研究会」(後記する)が主催した須田剋太の展覧会でその書を初めて見た。
その絵画の描線と同様に力強くエネルギーが漲っていた。
いくつかの学校で芸術、絵画指導の講師、自宅やカルチャースクールで絵画指導をした。少年時代の村上春樹も須田剋太の指導を受けた。


膨大な作品の寄贈
死期の遠くないことを知った須田剋太は、膨大な作品を、大阪府、飯田市、埼玉県などに寄贈する。
別に、膨大な作品が、前記のお好み焼き店〈伊古奈〉〈喫茶・美術館〉の店主大島氏に託され、最終的に北海道・美瑛の丘に「新星館」という美術館が建てられ収蔵された。
これには後記の「須田剋太研究会」代表の岩崎利一氏ほかの励ましと支援があったということだ。

須田剋太のことを書いた司馬の随筆
司馬は『街道をゆく』のほかにもかなり須田剋太のことを書いている。612
「出離といえるような」司馬遼太郎が考えたこと11
「道元と須田さん」司馬遼太郎が考えたこと12
ふしぎな力学(『私の曼荼羅~須田剋太の世界』)司馬遼太郎が考えたこと12
「善財童子」司馬遼太郎が考えたこと14
「真の自在」司馬遼太郎が考えたこと14
「二十年を共にして」司馬遼太郎が考えたこと14

(写真右:浙江省を旅する司馬・須田氏)

須田剋太の作品(入手が難しく私がてにしたもののみ) 
なにわ塾叢書「私の現代美術」
私の造型―現代美術 (朝日カルチャーVブックス)


展覧会の図録
手もとに司馬遼太郎没後に開かれた展覧会の図録がある。
『司馬遼太郎と歩いた25年「街道をゆく」展』とある。東京では、日本橋三越で1997年4月28日(月)~5月5日(月)の開催。
図版は、須田剋太、桑野博利、安野光雅ら司馬の伴侶であった三代の画家の作品と須田の病気入院で応急対応した司馬自身の絵が収録されている。
このころ私は『街道をゆく』に夢中になっていたのだろう。


須田剋太研究会
須田画伯の郷里吹上で、画家の顕彰を続けている人たちのことを紹介したい。
平成2年7月15日各紙朝刊が、前日の須田剋太の死を報じると、画伯の吹上の町内の有志でかつて画伯に接したことのある者たちが互いに連絡しあい皆で集まり通夜をしたという。
そしていつしか須田画伯の芸術や人物を学び顕彰していこうということになり、「須田剋太研究会」を、平成2年7月20日をもって発足させた。
月に一度の勉強会、須田剋太展を毎年開催、市民・児童生徒への普及活動、向日葵忌の開催、須田作品を所蔵する日本各地の美術館等見学会など多彩で地道な事業を行ってこられた。
事務局を鴻巣市に置いている。
会のメンバーで、須田剋太伝「画狂 剋太曼荼羅」を書かれた加藤勉氏が、平成5年春に、司馬遼太郎に手紙を出したことがある。
旬日をおかずして返事のはがきが届いた。「・・・将来きっと須田画伯を研究しようとする人が出てくると思っていました。
そう考えて『街道をゆく』の一巻から二十巻までの間に、私の知る限りの画伯を書いておきました。じっくり検証してどうか資料に役立ててください・・・・」

(栗岡注;司馬の「一巻から二十巻」は、20年を共にした記憶・意識からくる誤りか?一巻から三十五巻が正しいと考える)
ホームページ[須田剋太の旅] 
須田剋太研究会の理事をされている渡辺恭伸氏が個人で開設されているHPである。
タイトルのように『街道をゆく』の[須田剋太の旅]をご自身が辿って記事を書いておられる。
このHPを知ってからは、私は旅の参考にさせてもらっている。
「南蛮のみちⅠ」に出てきたカルチエ・ラタンの古い建築物のレストランを日本でインターネット予約し、折角だからと司馬や須田画伯が食事をした部屋で同じように食事をされるなど、まさに旅の達人だ。

平成271118日付け日本経済新聞の文化欄に渡辺氏が投稿された記事《「街道をゆく」挿絵の謎追う》がある。
須田剋太や司馬遼太郎の【旅の時期】から既に、古いものでは
40年以上、新しいものでも四半世紀以上経過している。
挿絵の地を精力的に訪ねて、気づいた風景や人の変わりようを確認したり、ときに出てくるわかりにくいこと、疑問を解決しておられる。
それはあたかも「謎解き」であるようだ。
また、画伯と司馬が別々に動くこともあったためか、司馬の文中にはない場所の挿絵もありその風景を訪ねることも楽しそうだ。
これらはすべて
HP[須田剋太の旅] にある。

なお、渡辺氏は、須田剋太の生家の近くに住んでおられ、熊谷高校では、私の2年先輩であられる。


須田剋太 第20回記念展
 須田剋太が(旧制)熊谷中学で美術を教わった大久保喜一との師弟展
2016.10/22(土)-10/29(土) 10-17時 (会期中無休)
鴻巣市吹上生涯学習センター(JR高崎線吹上駅南口徒歩3分) 
  入場無料

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