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2017年5月

2017年5月28日 (日曜日)

《大澤有信の談話室》 「『応仁の乱』(呉座勇一著)を読む」

「応仁の乱」(中公新書:呉座勇一著)、堅忍を以て読み終えました。
30万部、話題の本ということで、ミーハーな私はすぐに飛びつきました。Photo

しかし、専ら「小説」愛読を常としている私にとって、学術書に近い本書の通読は、正直辛抱の連続でした。
(それにしても、登場人物のなんと多かったことか…約300人)
京都人にとって「先の戦争とは、第一次・第二次でもなく、応仁の乱」という都市伝説があるそうです。
分かっているようで、よく分からない。

「細川勝元」(写真右)と「山名宗全」(写真右下)の東西対決くらいしか知らない応仁の乱。
そもそも発端は、管領家である「畠山氏」、「斯波氏」の家督争いであり、それに足利将軍家の御家騒動、南北朝問題、その他諸々が絡み、泥沼のような戦乱が広がっていきました。Photo_2
そのかなりの部分は、興福寺の僧である「経覚」による「経覚私要しょう(金偏に少)」及び同じく「尋尊」による「大乗院寺社雑事記」を参考として、様々なことが詳細にわたり、意欲的に書かれています。

そういえば、正規兵ではない「足軽」の出現、それまでの城の攻防戦を一変させたといわれる「井楼」(せいろう)の考案も応仁の乱だったそうです。
「内藤湖南」の「現在の日本と関係があるのは、応仁の乱以降であり、それ以前の歴史は、外国の歴史と同じである」という過激な一節も紹介されています。

そんな折、5/13日の日経新聞「文化欄」に
【室町の混乱、現代の鏡に】 【新たな視点の歴史小説相次ぐ】Photo_3
というタイトルの記事がありました。
一部紹介させてもらいますと、本書著者呉座勇一氏は、
「室町には現代同様、金融業の突出現象、バブル経済があった。
貨幣流通量が急増し、信用取引が加熱した当時の経済は、投機的で、金融業だけが儲かっていた。
やがて、ひずみが生じてバブルは崩壊。幕府も弱体化して、応仁の乱に突入し、戦国時代へと向かう…」と述べています。
格差・バブル等、正に【現代の鏡】かもしれませんね。
いい加減で、支離滅裂な室町時代。

私はあまり興味が持てませんでしたが、反面、司馬遼太郎も述べているように、農・工業生産の向上が余裕と好奇心を生み、礼儀・作法、文化芸術に興隆が見られた室町時代。
【新たな視点】の歴史小説…読んでみましょうかね。

5月16日は旧暦の3月27日に当たり、元禄2年「松尾芭蕉」は弟子の「河合曽良」と共に「おくの細道」の旅に出発しました。160930

「いにしえの、旅立つ朝に、別れ霜」…遊雲
                (右写真:投稿者大澤有信)

2017年5月 6日 (土曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅳ≫ 「長宗我部元親を四国に訪ねて」

今年2月に『長宗我部元親の英雄事業四国統一と挫折・長宗我部盛親の悲運の生涯』と題して卓話をした。750
以前、『韃靼疾風録』について卓話する直前に長崎県平戸市を訪ねて、作品の背景イメージが湧いたので、長宗我部を語る前に四国を再訪したかったが、寒い季節なので二の足を踏んだ。
いま新緑の時期を迎え、これを好機と旅に出た。4月23日(日)―4月28日(金)5泊6日
今回の旅は、長宗我部を主軸にしつつも『街道をゆく』四国編の3街道や『空海の風景』、『花神』などに登場するところなど少々欲張ってしまったが、この《談話室Ⅳ》には、長宗我部に関係したことについてのみ書くことにする。
なお旅は、松山空港で四国入りし、レンタカーで時計の針と反対方向に四国を周り高松空港から帰宅した。訪ねた順に記したい。
ついでながら四国編の3街道とは、『南伊予・西土佐の道』、『檮原街道(脱藩のみち)』、『阿波紀行』のことで、自然に旅のコースの基本をかたどっている。ここでは、訪問したところの解説やエピソードを紹介する形としたい。


伊予豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)(椿神社)(松山市居相)

これは、長宗我部を主軸にした旅の訪問先として挙げるにはやや毛色が違う。ご説明しよう。
「街道をゆく」の『南伊予・西土佐の道』の最初の訪問地である。司馬遼太郎一行がこれを訪ねたのも偶然のようである。
焼物の砥部を目指して走っていると、「道路の左手に、大庄屋の屋敷のような、豪壮としか言いようのない長屋門と塀があらわれた。
運転手さんに停めてほしい、というと・・・」で始まる。
私も『南伊予・西土佐の道』を読んで、長宗我部氏を訪ねる旅の本筋ではないと思いつつも訪ねてみた。920
司馬は書く。伊予豆比古命神社であるから、むかし伊予国造が国魂(くにたま)として祭祀していた神社なのであろうと推察している。
社務所で司馬が若い巫女さんに尋ねると、長屋門は宮司の屋敷であった。
つい古い郵便物の宛名が見えたが、宮司の姓が長曾我部(「曾」は司馬流の表記)であるらしい。宮司が様子に気づき上にあげてくれた。
司馬の(栗岡;ずいぶんぶしつけだと思うが・・)「伊予にはふさわしくない姓ですね」この点を司馬は解説して書く。(写真右:椿神社)

長曾我部氏の四国征服のときに、伊予人は家や寺を焼かれたり、殺されたりしたからである。
司馬の推理は、『あるいはその土佐兵が戦いのあとで土着し、明治後、長曾我部と名乗ったのではないかと思ったが、宮司さんの話ではそうではなく、江戸初期に土佐からきて土着したという。
この付近の農村にかつての大庄屋以下七軒長曾我部姓があり、この宮司さんの家もそのうちの一軒であるらしい。
宮司『江戸時代には、御城下の侍も騎乗して参詣にきたそうです』
司馬「あの長屋門は、社家としての門ですか」
宮司『いいえ、医者としての門です。神主であって医者を兼ねていました。私の曾祖父の代までそうでした。漢方ですが』
「藩の医者ですか」
『いいえ、町医でした』
封建のしきたり・身分、医者に該博な知識をもつ司馬には、この事例が理解できなかったらしい。
「すると、このあたりの庄屋でしたか」
『いいえ、このへんの村では庄屋の次の家でした』
いよいよわからなくなったと書く。
それはともかく『辞去して路上に出、神社に隣りあわせている門と塀をもういちどながめると、そこだけが景観として江戸時代があるような感じがした。』
なお、別称の「椿神社」は、旧正月七日から三日間にわたっておこなわれる椿祭という祭礼が昔から大変賑わったことによる。
なおHPの「ご挨拶」は署名が、宮司 長曾我部延昭となっている。

一条神社(=中村御所跡)と中村城跡(四万十市中村)

土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。700
鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。
教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。
また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。中村御所の跡地が現在の一条神社である。(写真右:一条神社)
中村城は、元々この地にいた豪族の為松氏が一条氏に家老として取り立てられ、築城したのが始まりと考えられている。
二の丸跡に模擬天守の四万十市立郷土資料館があるが、現在修築のため閉館していた。
司馬の『夏草の賦』では、
『土佐の一條家は、歴とした公家で、土佐にいっても京の宮廷に籍があるという異例の家柄である。このため、土地の者は、「御所さま」という。』
また長宗我部元親の室・菜々が一条家へ外交使節として派遣されるエンターテインメント色濃い場面があるが、
『(これは、京ではないか)と菜々が目をみはったほど、京の町並に似ていた。東山と称する山なみもあり、鴨川にあたる四万十川もある。もっとも河容はあくまでも大きく水はあらあらしく、鴨川のような京さびた味は持っていない。しかしそれにしても、京をすてた公家が、この地を故郷に模倣させようとつとめたかなしみのようなものが、風景のそこここにこびりついている。』と書く。
5月3日の藤祭り「土佐一條公家行列」が目前に迫り案内ポスターがあった。一條教房が中村に来た時の様子を再現する「土佐一條公家行列」が行われるようで、京都の葵祭の公家行列に倣い、室町時代の衣装を纏った延べ150人の行列が市内を練り歩くという。
一條家と長宗我部氏は、因縁深く、16代長宗我部文兼は、一條教房を土佐に迎えて接待した。
そこで吉良氏、大平氏、本山氏らに元親の祖父の兼序が滅ぼされたとき、子の千雄丸(長じて国親)を亡国の嗣子として保護し、10年後に国親に領地を戻すように本山氏らに働きかけたのは一条房家である。
17代現当主の長宗我部友親氏は、歴史家の磯田道史氏との対談で語っている。
15代の元親は、「一條家のご恩は決して忘れてはいけない。その志は子孫の代まで引き継ぐべきもので、もし背くことがあれば、家に難儀が降りかかる」と諭していたという。
しかし21代の元親(誤りではない。15代21代ともに元親。)は、一條家5代の兼定を滅ぼす。
兼定は、女と遊戯が好きなこと無類で、譜代の老臣たちの望みを失わせたというが、21代元親は、15代元親の言い残した戒めを守らなかった。
長宗我部友親氏「次の盛親が、京都六条河原で斬首され、国を失い長宗我部の家名が幕末まで消えることになったことを、ほんとうに不思議に感じられる流れだ」と述懐している。
なお、前記の伊予豆比古命神社(椿神社)のくだりのように、司馬遼太郎は【長宗我部氏の家名復活の闘い】は知らなかったのであろう。

いの町紙の博物館(高知県吾川郡 いの町幸町)

伝統的工芸品「土佐和紙」の振興を図るため、1985年に開館。
常設展は、和紙の歴史と文化、原料・用具などを展示している。
ここを訪ねたのは理由がある。高知県出身の作家山本一力が蘇我玄蕃頭清宗(波川玄蕃)のことを五編の短編(総合して『朝の霧』)に書いたきっかけが、主人公の波川玄蕃とその室で、元親の実の妹、美人の誉れ高い養甫のことをここで聞いたからだという。
もともと戦をした元親・波川玄蕃だが和議を結び、元親は玄蕃を一門にする。
ただし養甫は、政略結婚というより玄蕃とはお互い魅かれあって、理解しあっての結婚だったらしい。
長宗我部一門になった玄蕃の活躍は、元親の土佐統一に大いに与ったが、元親は玄蕃の戦や統治の巧みさを嫉妬し彼を最も恐れた。
伊予戦線での玄蕃の不手際を「土佐内乱」とする謀叛として、元親は失脚の罠を仕掛け、玄蕃に死を賜う。
養甫は家族の悲劇のあと、兄の元親から岡豊に来るように誘われるがこれを断る。
元親ファンの私にとって困ったことに『朝の霧』を読むと元親という人間が小さく見えてくることだ。
博物館と併せて訪ねたかった波川玄蕃城(葛木城)跡は、驟雨に見舞われ訪ねることを断念した。
仁淀川を挟む位置にあり、養甫は尼となり家族と暮らした城が眺められるこの地で過ごした。
エピソードがある。養甫尼は紙つくりに関わり、それを伊予の日向谷村の新之丞と、皮肉にも元親が滅ぼした安芸国虎の二男、安芸三郎左衛門家友が支援する。
新之丞は四国行脚の途次病に倒れて養甫尼に助けられ、紙の漉き方を養甫尼、家友に伝えた。
染色に詳しい養甫尼との共同研究で土佐の七色和紙を編み出した。
しかし伊予への帰国の際、技術の流出を恐れた家友が峠で新之丞を亡き者にするという話もある。
愛媛県から高知県に入る前に道路脇に「紙漉き 新之丞生誕の地」の大きな横断幕の案内があった。
調べてみると、新之丞翁四百年供養のため建立した慰霊碑があるそうだ。

高知県立歴史民俗資料館(岡豊城跡)と元親像

住所は、高知県南国市岡豊町八幡1099 -1である。857
長宗我部元親の拠点であった岡豊城があった場所である。97メートルの小山である。(写真右:岡豊城石碑と城跡)
さらに「志国高知 幕末維新博」の開催にあわせて、岡豊城跡の詰(岡豊山の最上部)に模擬櫓が立ち上げられたばかりで登ってみると、国分川が流れる田園を見晴るかすことができた。田植えがほぼ終わったころではなかったかと思う。
眼下に水を張った水田が見渡す限り広がっていた。
岡豊城跡は、詰(岡豊城の中心となる曲輪)、詰下段(詰の東の一段低いところに付随する曲輪)、三ノ段(詰の南から西にかけて造られた曲輪)、四ノ段(三ノ段の西部を囲むように造られた曲輪)、伝厩跡曲輪(詰の西南方向にある出城)、伝家老屋敷曲輪(詰の南に位置している)などがあった。
資料館は近代的建物だが、望んでいた岡豊城訪問で、嫁入りする菜々が、山かごにななめに腰を入れて、かつがれて登ったのはここか。禁酒を布告した元親が、自らが飲む酒樽を城に運ばせているのを目撃した福留隼人が大石で酒樽を打ち砕いたのはここか。などと感慨に耽ってしまった。
一方、高知県立歴史民俗資料館の二階には、長宗我部氏や国史跡・岡豊城跡に関する資料が展示されているが、興味深いのは、中央に阿波・中富川合戦時の長宗我部軍の本陣を再現している。
これは、長宗我部勢と勝瑞城を本陣とするとする十河存保(そごう まさやす/ながやす)以下の三好氏諸将との戦いのこと。872
このあと徳島市の勝瑞城跡を訪ねた。

長宗我部元親像
四国全図を前に立つもので四国をほぼ統一した元親にふさわしい雄姿である。かなりイケメンである。

若宮八幡宮と元親初陣像(高知市長浜)

戦国時代の永禄3年(1560年)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。(写真右:若宮八幡宮参道)
互いに3代にわたる怨恨の相手の本山氏を降した戦いである。
この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。参道の両側に、長宗我部家の家紋七つ酢漿草をあしらった青い地の幟が風にはためいていた。947
1999年に《長宗我部元親公初陣之像》を建てた際には、山内家18代の当主、山内豊秋氏がぽんと300万円寄付したことが寄付者名の筆頭に刻まれている。(写真右下:元親初陣之像)
『山内家は進駐軍ですから』長く気にかけていたらしく、像の建立を好機ととらえたのであろう。

土居廓中(安芸城跡・毒井戸)

土居廓中(どいかちゅう)というのは、高知県安芸市にある伝統的な武家屋敷を中心とした一帯で、住所も安芸市土居廓中である。
次のようなものがある。
・野良時計;大地主であった畠中源馬は時計に興味を持ち、独学で全てのパーツを一人で作製したといわれる。周囲の田園で農作業に従事するが時計を持たない人々が時間を知るのに役立っていたと言われる。
・武家屋敷;土佐藩の家老であった五藤家安芸屋敷などの武家屋敷がある。
・岩崎弥太郎生家;言わずと知れた三菱グループの創始者の生家である。地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。そういえばNHK大河ドラマでは、香川照之演じる岩崎弥太郎の身なり風采がひどく三菱グループがNHKに苦情を申し入れたと聞くが、ここには立派な銅像と庭に日本列島を模してつくられたという石組みがある。996 872_3
・弘田龍太郎歌碑;この地で生まれた作曲家。『鯉のぼり』、『浜千鳥』、『叱られて』、『金魚の昼寝』、『雨』、『雀の学校』、『春よこい』、『靴が鳴る』など作品多数
・浄貞寺;安芸国虎の菩提寺。安芸城陥落の際部下の命と引き換えにここで自刃したとされる。(写真左:安芸城土塁・堀)
・安芸城跡;この地を支配した安芸国虎の居城。1569年長宗我部元親により滅ぼされる。長宗我部元親が調略を用いて井戸に毒を入れたという言い伝えがある。その毒井戸の遺構が残っている。(写真右下:安芸城毒井戸)

那佐神社(徳島県海部郡海陽町宍喰浦那佐)

これを探し当てるのに大層難儀した。ここは、高知県東部から徳島県に入った沿海である。
那佐湾の奥近くの国道55号(土佐東街道)を離れて更に山に入ったあたりにある。
1571年(元亀2年)元親の末弟の長宗我部親房(島弥九郎親房)が病気療養のため有馬温泉に行くべく主従30名で、嵐にあったため那佐湾の奥で順風を待っていたが、海部城主越前守宗寿の手勢に弓鉄砲をもって打ち取られた。917
海部越前守は、『長宗我部元親の弟の島弥九郎とみたのは間違いか。海部越前守とは我がことなり。宮内少輔元親には宿意がある』と鬨の声を挙げたという。
元親が、土佐東部の安芸城主国虎を滅ぼしたため安芸衆が阿波に越境し海部越前守を頼った経緯がある。
島弥九郎は那佐湾奥の三島に祭られていたが、三島神社を合祀した「吉野神社」に祭られた。
島弥九郎を直接の先祖とする長宗我部家の17代長宗我部友親氏は、長年気になっていた島弥九郎主従の供養を平成14年(2002年)4月に碑を建てて実現している。
この神社を探すのが大変だったのは「吉野神社」も一因で、ともかく現在の地図では、那佐神社となっている。
後に元親は、事件を阿波侵攻の口実とし海部城を攻めて滅ぼす。
なお、高知県・徳島県東部沿岸をこのようにドライブしていると、江藤新平が捕縛された甲浦(かんのうら)や、菜々の元親への輿入れを世話した堺の商人「宍喰屋」の屋号のもとの宍喰など興味尽きなかった。
ただ雨天であったのは残念で、晴天であればこの海岸は美しい海の色であったろう。

勝瑞城跡(徳島県板野郡藍住町勝瑞)

勝瑞城はこれを本陣とする十河存保(そごう まさやす/ながやす)以下の三好氏諸将と長宗我部勢との戦いの舞台となった。(写真右:勝端城跡)724
中富川合戦とも言われ、前記のように高知県立歴史民俗資料館にはその時の長宗我部軍の本陣が再現されている。
難戦であり降り続く雨により長宗我部軍も苦しんだが結局勝瑞城を降している。
司馬遼太郎一行が『街道をゆく』でこの地を訪れたのは、1988年2月であり「勝瑞城跡」の案内を見つけ自治体がつくったらしい標識であると書く。
「いまふうの観光資源ということからみれば、勝瑞城には魅力がないのにちがいない」とも書いている。
現在も基本的に同じ状態にとどまっているが、《勝瑞城跡》の解説では「平城跡と居館跡が2001年に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。」
今後、遺構整備やら建物や庭園復元など期待されるのではないだろうか。
勝瑞城跡とは、四辻を挟んで斜めの位置に見性寺がある。三好氏盛時の菩提寺だった。

雲辺寺(徳島県三好市白地763)

長宗我部元親は、阿波南部の海部城を落とし、勝瑞城を攻略・陥落させて、次は伊予、讃岐攻略を目指して、政戦略上の拠点とすべく、現在の三好市池田町にあった白地を手に入れるべく計略を用いて、三好一族の大西覚養の大西白地城を手に入れ四国戦線の総司令部とした。
『夏草の賦』の【覇者の道】に面白いエピソードがある。Photo_2
四国制覇の戦略基地たるべき白地を得たとき、元親には逸話がある。
元親は里の者をよび、「このあたりでもっとも高い山はどこか」ときくと「雲辺寺山でございます」という。(写真右:雲辺寺とロープウェイ)
なるほど、名をきくだに高そうな山である。その山のいただきに立てば、阿波と讃岐、伊予はひと目でみおろせるのである。
「のぼってみよう」と、このための人数をととのえ、ある朝、登山のために出発した。
私も登ってみた。ただし雲辺寺ロープウェイに乗ってである。
人工雪ながら冬季にはスキーができるそうだ。Photo_3
山頂駅に立つと足元に香川県・徳島県境のプレートがあった。
先のエピソードとは、元親に対して恐れを知らない、胆力ある雲辺寺の住職が、征服者の長宗我部元親に語りかけるところが実に面白く、元親も腹を立てるどころか楽しんでいるところがある。
虚構なのかもしれないが、どっちもどっちの千両役者。
正直、私は、これだけのために雲辺寺を是非訪ねたいと思った。
すこし長いが、『夏草の賦』より両者のやり取りを転記する。

家臣が庫裡へ走ってこの寺の住僧であるという六十年配のやせた僧をよんできた。五尺に足らぬ小男である。
「拙僧が、この寺の住僧でござる」(と頭をわずかにさげた。)
『これは、どなたの開基か』
「ご存じないとは、おどろき入る。弘法大師の草創にして、嵯峨天皇の勅願寺でござる」
『足もとに三州の山野を従えつつ毎日読経をなさるとはいいお気持ちであろう』(と、これは元親の世辞)
「申されるまでもない。この一山で経をとなえれば声は天を駈けてやがて三州の野にしみわたる。よき気持は拙僧にあらず、朝夕、天より経を降りくだされる三州の民のほうでござろう」(元親;大きいことをいう僧だ)
「貴殿は、ちかごろこのあたりに軍を進めて参られたという土佐の国主長宗曾部宮内少輔どのでござるか」
『左様、身はその名である』
「この山に登られ、めあてはいかに」
『三州を見たいと思い』
「見たいというめあてはいかに」
『いずれわが手に併呑されるであろう山河を、雲の上からながめておきたい』
「申されしものかな」(僧は大いに笑った。この侵略者に好意をもっていないのであろう。)
「三州はひろい。人煙もおびただしい。お国の土佐のように人のわずかにしか住まぬ国とちがい、大いにかまどが賑わっておる。その広大で人の多いこの三州を、わずかな土佐の兵で征服しようとするのはもとより無理でござる。いわば、大いなる釜に、薬缶のふたをもって覆おうとするようなもの。元来ができぬ相談でござる。わるいようには申しませぬ。いまから土佐へ帰られ、土佐一国の民を愛撫することに専念されよ」
『貴僧は土佐に帰れといわれるのか』
「そういうこと」
「まず、茶なりと」(と、僧はいい自ら先に立って庫裡に案内する。)
「これに、讃州の間というのがござるゆえ、それへどうぞ」(茶菓が運ばれてきたころ、かたわらの明り障子をからりとひらいた。讃岐の国が一望に見渡せる。)「讃州十一郡と申すは、大内、寒川、三木、山田、香川、阿野、鵜足、那珂、多度、三野、刈田、これでござる。みられよ、一瞬一望でござろう」
『なるほど』
「して、土佐国は何郡でござる」
『七郡』
「七郡をもって十一郡をとる。それゆえやかんのふたで釜をおおうようなもの、と申すのでござるよ。そのほかなお阿波、伊予に手をのばされること、正気ともおもえず」
『まあごろうじろ』(あと二、三年でみごと四国にふたをしてみせる、それをみてからもうされよ、というのである。)
「なんのためにふたをなさるか。讃岐の者も阿波の者も伊予の者も、ふたをしてくれと望んできたわけでもござるまい」
『天が、それをわしに命じておる』
「天が」(僧は、首をすくめた。)
「わしはこのように仏に仕えて五十年になるが、いまだ仏というもののお声もきかず、お姿も拝したことがござらぬ。宮内少輔どのは、天の声を、その耳にきかれたか」
『笑止なことを申される。神仏の声は心できくもの、天の声は智恵できくもの、耳できくものではないわい』
「負けた」(と僧は菓子をとりおとし、膝をそろえ、ふかぶかと頭をさげた。)
以上、長い引用で恐縮であったが、長宗我部元親を四国に訪ねる旅の最後は、いまだ四国統一の希望盛んなころの元親であり、土佐に戻れという雲辺寺住僧を議論で打ち負かしたともいえるが、元親に攻められる伊予・河野氏は毛利に、阿波・三好、讃岐・十河氏は、信長に泣きついて救援を求め、結果元親、やがては秀吉の四国攻めに遭い土佐一国を安堵されるが、「土佐へ帰られ、土佐一国の民を愛撫することに専念されよ」という雲辺寺住僧の忠告通りの結果になるのは皮肉である。
いずれにせよ四国で元親の行跡を追い少しは彼のことが分かった気がする。


《ブログ管理人より追記》
5月22日付の朝日新聞「天声人語」に関連してコメントが付されました。
右図がその日の「天声人語」です。170522665

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