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2017年9月

2017年9月26日 (火曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅴ》「シャンソンのこと」

このコーナーは、歴史それもできれば司馬遼太郎に関係づけて語ることになっているが『司馬遼太郎とシャンソン』などあろう筈もない。それでも、歴史に絡めた話は、成功するかともかくとして後段に書いてみるつもり。

150208_803 そう、シャンソンについて個人的な想いを書いてみたい。この「司馬遼太郎を語る会」には、私の兄姉世代の方が多いので、きっとシャンソン好きの方もいると思う。(写真左:卓話中の栗岡氏)


シャンソンとの出合い

私が、シャンソンに眼が開かれたのは、高校3年か大学1年生の頃(19701971年)だったが、NHKラジオ第一で毎週日曜日の午後から放送していた「午後のシャンソン」と言う番組によってである。Photo
蘆原英了氏(写真右)のトークと選曲と解説で、アズナブール、ベコー、グレコ、ピアフ、モンタン、バルバラ、ダミア、ムスタキ、エンリコ・マシアスそしてマチューやポルナレフなど多くの歌手のシャンソンを聴かせてもらって、音楽とフランス語歌詞の美しさに牽き込まれた。残念ながら、その後あのような番組はなかった。

蘆原英了氏は、Wikiによれば、1907年生まれ。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒。1932年、フランスに留学し、バレエ、シャンソン、演劇を学び、帰国後、評論家となる。華やかな閨閥の人だが、一つだけ挙げると、母方の叔父が画家の藤田嗣治である。

加藤登紀子が二十歳で、アマチュア・シャンソン・コンクールに初めて出場した時、ピアフの『メア・キュルパ(七つの大罪)』を歌ったが「恋する女は、どんな罪だって犯してしまうのよ」というのが曲のテーマである。

審査委員長だった蘆原英了氏が言った「あなたのような子供のような顔でこんな歌を歌ったって駄目ですよ。自分に似合う歌を選んで、来年またいらっしゃい」は、加藤に相当衝撃を与え、ボディブローのようにきいて、意識的にエディット・ピアフを避けたということを本人が言っていた。翌年加藤登紀子は別の曲を歌って優勝している。Photo_2
(加藤登紀子は、1970年「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。写真右)


秋保温泉で聴いたシャンソン

さて、歌詞Parolesだが、やはり日本語ではシャンソンにならないと私は思う。 

最近あるきっかけで、久しぶりにシャンソンを聴くことに夢中になった。

仙台の秋保温泉「佐勘」に泊まった。伊達家の湯守りの伝承がある宿だが、朝食会場は豪華な洋風のホールであったが、意外にもBGMにフランス語の曲が流れている。
「ムーラン・ルージュの唄」「パリの空の下」「バラ色の人生」等々お馴染みだが、ややハスキーな女性のヴォーカルで、ジュリエット・グレコの声に似ていると思った。うち一曲は「見上げてごらん夜の星を」をフランス語で歌ったものであった。

すぐスマホからAmazonCDを注文した。声の主は、クレール・エルジエールというフランスで最も注目のシンガーということだ。
CDの宣伝文句は、

「ジュリエット・グレコから絶賛された、注目の女性シンガーが歌うシャンソンの名曲集。素直でまっすぐなクレールの歌唱は、エヴァーグリーンでさわやかな風をそれぞれの曲に吹き込んでいます。とてもフレッシュなシャンソンが楽しめる。坂本九「見上げてごらん夜の星を」のフランス語カヴァーも収録」

やはりジュリエット・グレコが評価していたのだ。


「サン・ジャンの私の恋人」

さて、エピソードはこれで終わりではなく、この歌集の中の「サン・ジャンの私の恋人」(Mon amant de Sain-Jean)を知ってとても感慨深いものがあったという話である。古いシャンソンでありクレール・エルジエールによるカヴァーであるが、元の曲は、リュシエンヌ・ドゥリルが1942年に歌ったものである。 Saintjean

これは、不実な男に捨てられた女の歌。ある人の評価;彼女の声の魅力と相まって、ヴァルス・ミュゼットというアコーデオンの伴奏による音楽が気持ちを引き立てるようでいてなにか郷愁を誘う不思議な魅力を持っている。ぜひYoutubeで聴いてみてください。

三木原浩史著「シャンソンの風景」(2012年、彩流社)に、サン=ジャンSaint-Jeanが地名なのか、聖ヨハネ祭のことなのかについて詳しく考察されている。そしてSaint-Jean-aux-Boisというフランス北部の寒村だと結論づけている。三木原浩史もここを訪ねている。

実は、私も1985年秋に、無論このシャンソンのことはつゆ知らず、村を訪ねて唯一のAubergeに泊まったことがある。

地名の-aux-Boisというのは「森の」という意味で、本当に深いコンピエーニュの森の中にある。パリの北北東約80キロにある。歴史学者木村尚三郎氏(故人)の随筆に『かねがね航空写真でだけ知っていた、森に囲まれた中世の小村サン・ジャン・オー・ボア(人口二百二十一人)に出会ったときは、感激であった。
国王ルイ六世亡きあと、
1152年に王妃が同地にベネディクト派修道院を建て、そこから村が起こったという。みごとに静かで美しく、それなりのホテル兼レストランもあり、十三世紀のまったく簡素な教会堂とともに、旅人の心を打つ。』とありこれに誘われて、当時パリに住んでいた私はこの村を訪ね泊まった。日本からの観光客はまず行かないだろう。

いま宿には、この曲の作曲者「エミール・カララが、1937年にここで、この有名な歌を作曲した」とのプレートがあるという。


フロックコートの男、村田新八のこと

さて最後に、歴史のなかのシャンソンを探してみた。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』を初めて読んだとき、村田新八(写真右)が西南戦争をシルクハットにフロックコートという格好で戦っていたとあり驚いたことがある。

彼は、岩倉使節団の随行者でパリでオペラ座にも通っていたらしい。Photo_3

美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(コンサーティーナというようだ)を携え、容易に手離さなかった。西南戦争従軍中も常に持ち歩いていたという。

明治6年の政変後に帰国し、大久保につかず西郷を慕って帰郷した。洋行帰りとしては、ただ一人西郷軍の幹部になり戦死する。

伊東潤の『武士の碑(いしぶみ)』は村田新八を描いた小説であるが、妻が、村田が弾く曲のことを尋ねる。
「旦那さん、そん曲は何ちいうのですか」「こいはな、『ル・タン・デ・スリーズ』ちゅうフランスの歌だ」「歌ちゅうことは、歌詞があっとですか」「はい」「歌えますのか」「歌えもはん」「そいでは、どげなことを歌とるのですか」「確か、さくらんぼのことを歌とると思うたが」

有名なシャンソン『さくらんぼの実る頃』だ。
これも
Wikiから 

「銅工職人でパリ・コミューンの一員であったジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)が作詞し、それにテノール歌手のアントワーヌ・ルナール(Antoine Renard)が曲を付け、1866年に発表された。

歌詞はタイトルの通りサクランボの実る頃の儚い恋と失恋の悲しみを歌った曲であるが、パリ・コミューンの崩壊後の1875年前後からコミューンへの弾圧、特に参加者が多数虐殺された「血の一週間」を悼む思いを込めて、第三共和政に批判的なパリ市民がしきりに歌ったことから有名になった」

村田の洋行は1871-74年(当初は米国)であり、上記Wikiの後段はともかく、1866年発表である。仮に伊東潤の創作だとしても、村田はこの歌を仕入れて帰国できたことになる。

栗岡氏がコメンテーターとして出演するレコード鑑賞会です。(チラシ左)

10月5日付の栗岡氏のコメントを参照ください。

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LPレコード鑑賞会(番外編)に栗岡氏がガイド役として出演します。(チラシ右)

3月3日(土)13:30~、アートギャラリー884にて。

(東京都文京区本郷3-4-3ヒルズ884お茶の水ビル1F)

2月6日付の栗岡氏のコメントを参照下さい。 

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