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2017年9月26日 (火曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅴ》「シャンソンのこと」

このコーナーは、歴史それもできれば司馬遼太郎に関係づけて語ることになっているが『司馬遼太郎とシャンソン』などあろう筈もない。それでも、歴史に絡めた話は、成功するかともかくとして後段に書いてみるつもり。

150208_803 そう、シャンソンについて個人的な想いを書いてみたい。この「司馬遼太郎を語る会」には、私の兄姉世代の方が多いので、きっとシャンソン好きの方もいると思う。(写真左:卓話中の栗岡氏)


シャンソンとの出合い

私が、シャンソンに眼が開かれたのは、高校3年か大学1年生の頃(19701971年)だったが、NHKラジオ第一で毎週日曜日の午後から放送していた「午後のシャンソン」と言う番組によってである。Photo
蘆原英了氏(写真右)のトークと選曲と解説で、アズナブール、ベコー、グレコ、ピアフ、モンタン、バルバラ、ダミア、ムスタキ、エンリコ・マシアスそしてマチューやポルナレフなど多くの歌手のシャンソンを聴かせてもらって、音楽とフランス語歌詞の美しさに牽き込まれた。残念ながら、その後あのような番組はなかった。

蘆原英了氏は、Wikiによれば、1907年生まれ。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒。1932年、フランスに留学し、バレエ、シャンソン、演劇を学び、帰国後、評論家となる。華やかな閨閥の人だが、一つだけ挙げると、母方の叔父が画家の藤田嗣治である。

加藤登紀子が二十歳で、アマチュア・シャンソン・コンクールに初めて出場した時、ピアフの『メア・キュルパ(七つの大罪)』を歌ったが「恋する女は、どんな罪だって犯してしまうのよ」というのが曲のテーマである。

審査委員長だった蘆原英了氏が言った「あなたのような子供のような顔でこんな歌を歌ったって駄目ですよ。自分に似合う歌を選んで、来年またいらっしゃい」は、加藤に相当衝撃を与え、ボディブローのようにきいて、意識的にエディット・ピアフを避けたということを本人が言っていた。翌年加藤登紀子は別の曲を歌って優勝している。Photo_2
(加藤登紀子は、1970年「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。写真右)


秋保温泉で聴いたシャンソン

さて、歌詞Parolesだが、やはり日本語ではシャンソンにならないと私は思う。 

最近あるきっかけで、久しぶりにシャンソンを聴くことに夢中になった。

仙台の秋保温泉「佐勘」に泊まった。伊達家の湯守りの伝承がある宿だが、朝食会場は豪華な洋風のホールであったが、意外にもBGMにフランス語の曲が流れている。
「ムーラン・ルージュの唄」「パリの空の下」「バラ色の人生」等々お馴染みだが、ややハスキーな女性のヴォーカルで、ジュリエット・グレコの声に似ていると思った。うち一曲は「見上げてごらん夜の星を」をフランス語で歌ったものであった。

すぐスマホからAmazonCDを注文した。声の主は、クレール・エルジエールというフランスで最も注目のシンガーということだ。
CDの宣伝文句は、

「ジュリエット・グレコから絶賛された、注目の女性シンガーが歌うシャンソンの名曲集。素直でまっすぐなクレールの歌唱は、エヴァーグリーンでさわやかな風をそれぞれの曲に吹き込んでいます。とてもフレッシュなシャンソンが楽しめる。坂本九「見上げてごらん夜の星を」のフランス語カヴァーも収録」

やはりジュリエット・グレコが評価していたのだ。


「サン・ジャンの私の恋人」

さて、エピソードはこれで終わりではなく、この歌集の中の「サン・ジャンの私の恋人」(Mon amant de Sain-Jean)を知ってとても感慨深いものがあったという話である。古いシャンソンでありクレール・エルジエールによるカヴァーであるが、元の曲は、リュシエンヌ・ドゥリルが1942年に歌ったものである。 Saintjean

これは、不実な男に捨てられた女の歌。ある人の評価;彼女の声の魅力と相まって、ヴァルス・ミュゼットというアコーデオンの伴奏による音楽が気持ちを引き立てるようでいてなにか郷愁を誘う不思議な魅力を持っている。ぜひYoutubeで聴いてみてください。

三木原浩史著「シャンソンの風景」(2012年、彩流社)に、サン=ジャンSaint-Jeanが地名なのか、聖ヨハネ祭のことなのかについて詳しく考察されている。そしてSaint-Jean-aux-Boisというフランス北部の寒村だと結論づけている。三木原浩史もここを訪ねている。

実は、私も1985年秋に、無論このシャンソンのことはつゆ知らず、村を訪ねて唯一のAubergeに泊まったことがある。

地名の-aux-Boisというのは「森の」という意味で、本当に深いコンピエーニュの森の中にある。パリの北北東約80キロにある。歴史学者木村尚三郎氏(故人)の随筆に『かねがね航空写真でだけ知っていた、森に囲まれた中世の小村サン・ジャン・オー・ボア(人口二百二十一人)に出会ったときは、感激であった。
国王ルイ六世亡きあと、
1152年に王妃が同地にベネディクト派修道院を建て、そこから村が起こったという。みごとに静かで美しく、それなりのホテル兼レストランもあり、十三世紀のまったく簡素な教会堂とともに、旅人の心を打つ。』とありこれに誘われて、当時パリに住んでいた私はこの村を訪ね泊まった。日本からの観光客はまず行かないだろう。

いま宿には、この曲の作曲者「エミール・カララが、1937年にここで、この有名な歌を作曲した」とのプレートがあるという。


フロックコートの男、村田新八のこと

さて最後に、歴史のなかのシャンソンを探してみた。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』を初めて読んだとき、村田新八(写真右)が西南戦争をシルクハットにフロックコートという格好で戦っていたとあり驚いたことがある。

彼は、岩倉使節団の随行者でパリでオペラ座にも通っていたらしい。Photo_3

美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(コンサーティーナというようだ)を携え、容易に手離さなかった。西南戦争従軍中も常に持ち歩いていたという。

明治6年の政変後に帰国し、大久保につかず西郷を慕って帰郷した。洋行帰りとしては、ただ一人西郷軍の幹部になり戦死する。

伊東潤の『武士の碑(いしぶみ)』は村田新八を描いた小説であるが、妻が、村田が弾く曲のことを尋ねる。
「旦那さん、そん曲は何ちいうのですか」「こいはな、『ル・タン・デ・スリーズ』ちゅうフランスの歌だ」「歌ちゅうことは、歌詞があっとですか」「はい」「歌えますのか」「歌えもはん」「そいでは、どげなことを歌とるのですか」「確か、さくらんぼのことを歌とると思うたが」

有名なシャンソン『さくらんぼの実る頃』だ。
これも
Wikiから 

「銅工職人でパリ・コミューンの一員であったジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)が作詞し、それにテノール歌手のアントワーヌ・ルナール(Antoine Renard)が曲を付け、1866年に発表された。

歌詞はタイトルの通りサクランボの実る頃の儚い恋と失恋の悲しみを歌った曲であるが、パリ・コミューンの崩壊後の1875年前後からコミューンへの弾圧、特に参加者が多数虐殺された「血の一週間」を悼む思いを込めて、第三共和政に批判的なパリ市民がしきりに歌ったことから有名になった」

村田の洋行は1871-74年(当初は米国)であり、上記Wikiの後段はともかく、1866年発表である。仮に伊東潤の創作だとしても、村田はこの歌を仕入れて帰国できたことになる。

栗岡氏がコメンテーターとして出演するレコード鑑賞会です。(チラシ左)

10月5日付の栗岡氏のコメントを参照ください。

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LPレコード鑑賞会(番外編)に栗岡氏がガイド役として出演します。(チラシ右)

3月3日(土)13:30~、アートギャラリー884にて。

(東京都文京区本郷3-4-3ヒルズ884お茶の水ビル1F)

2月6日付の栗岡氏のコメントを参照下さい。 

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

戦前1933年に公開された映画 巨匠ルネ・クレール監督の『巴里祭』が、恵比寿ガーデン・シネマで、4Kデジタル・リマスターで上映される。6月22日(土)から。
ルネ・クレール監督の生誕120周年を記念するもの。
パリ下町が舞台で、フランス革命記念日”巴里祭”の前日に心を通い合わせた男女のすれ違いの恋物語だが、モーリス・ジョベールの名曲 パリ祭 A Paris dans chaque faubourgに乗せてロマンティックに描かれる。つまりシャンソンの話題でもある。
同監督の映画はもう一本ある。これも有名なリラの門で同じく4Kデジタル・リマスター版

ZAZのコンサート感想を書いておかねばなるまい。
エネルギッシュなパフォーマンス 声量豊かであるが、ヴィブラートがかかる声
満足した。

あらかじめ知っておけばよかった。観客が全員立ち上がってステップを踏んだり、手拍子を取る。座っていればステージが見えない。仕方なくこの66歳の爺も全部ではないが真似た。

こうした観客の立ち上がりが、ぴんと来ない古いシャンソンのカバーでは、ステージの彼女が見える。

前回の、来日の時も同様であったらしく若い観客は待ってましたと次々立ち上がる。ZAZ彼女も、アーップアーップと身振りを交え促すのだ。

フランスの女性歌手ZAZが2年ぶりに来日する。東京では5月27日と28日Bunkamuraオーチャードホールでコンサートをやる。席を確保した。ちょっとハスキーな声とラテン・ジャズ・ロックのフレーバーで歌う。

NHKのラジオ、テレビで紹介されたりテーマ曲として使われたりしている。日本でもずいぶん人気がある。ロワール地方のトゥール出身。5歳の時、地元トゥールの音楽学校に入学、在学中はバイオリン、音楽理論、合唱、ピアノ、ギターなどを学んでいる。その後ボルドーで歌を学ぶ。パリに出て歌手としては、ピアノバーで夜通し歌ったり、ストリート・ミュージシャンもやった。昨年来日直後に94歳で亡くなったアズナヴールとデュエットもやった。パリがテーマの歌も歌うので、ピアフなどへのオマージュの歌も歌うだろう。楽しみだ。

映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」を公開初日に観た。(Bunkamuraル・シネマ)シャンソン歌手バルバラの“伝記映画”だ、などと書くと鑑賞者としては失格だろう。単なる伝記映画などではない。
フランスの女優で歌手でもあるジャンヌ・バリバールが主演する。
彼女がバルバラを演じるとも書いてあったその宣伝文句に魅かれて、やはりジャンヌ・バリバール主演の『何も変えてはならない』(Ne change rien)という、ペドロ・コスタ監督のポルトガル・フランス合作のドキュメンタリー映画を観たことがある。が、これは正直よくわからなかった。

映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」でのジャンヌは見事にバルバラを演じている。憑依というのかバルバラが乗り移ったようだ。この映画には「ナントに雨が降る」「黒い鷲」「我が麗しき恋物語」「いつ帰ってくるの」等々バルバラの名曲の多くが、ときにジャンヌの声でまたBGMで登場する。

私は、シャンソンファンとしては帰り新参だったが、シャンソン開眼は、蘆原英了氏のおかげだ。彼はバルバラについてこんなエピソードを書いていた。「怪しい魅力―バルバラ」『シャンソンの手帖』に収録。
皆が知りたがるバルバラの経歴について、彼女は自分の過去のことを語るのが大嫌いだと宣言していた。
バルバラ来日の時、蘆原氏が彼女の過去の分からぬ部分を訊いたら忽ち色をなして私は過去を知らない現在があるだけと言ったそうだ。でものち両者は仲好くなり、バルバラは蘆原氏を気に入ってくれた由。好きなものは、花、古い宝石、キュウリ、シトロン、昼、夜、男、そして歌うこと、歌うこと、歌うことだと言っていた。映画でも、男好きなところが出てくる。
ジャック・ブレル、ブラッサンスなどとの関わりも映画では描かれる。

バルバラは、シンガーソングライターだ。後先でもいいが、彼女の唄、歌詞に少し触れて、映画を愉しんだらいいと思う。

栗岡です。ここでOさんは既出

Oさんと四谷3丁目のシャンソニエ「蟻ん子」に行った。盛岡をホームベースとしているシャンソン歌手の佐々木絢子氏ほかの出演。
Oさんが盛岡支店長の時に佐々木絢子氏と知遇を得たという。彼は、その昔の「銀パリ」も今の「蛙たち」も知っているシャンソンファン。パリでも、数日の滞在だったが、毎日「ラパン・アジル」に通ったという。いっぽう私は、日本語ではシャンソンにならないというのが持論だが、誘われて一度は日本のシャンソン小屋がどんなものか見てみようの気持ちで出かけた。
佐々木氏は、声量豊かで、ビブラートを効かせた歌唱法。ときに盛岡弁を交えた歌詞に笑いを誘う場面もある。
狭い会場だが、ファンや追っかけもいて話し掛けて和やか。
ほかに、<出たがり出演>の小宮ワタル氏。彼はもともと近世邦楽と日本舞踊が本業だが余技でシャンソンを歌う。彼はフランス語。ピアノ伴奏は、若い雄太くん。よかった。

このあと約1キロ離れたマヌエル・カーザ・デ・ファドというポルトガル料理店にお誘いした。ここにあるのは、イエズス会が創った上智大学。ロジックとして適っている。この店に至る路地の途中に、藤田嗣治旧居跡の碑が建物の壁にあった。

栗岡です。

シャルルアズナブールの死去が報じられた。一瞬信じられなかった。

先の来日公演からわずか2週間である。

春に、骨折で来日できなかったが、借りを返すつもりだったのか、エンタテナーという職に殉じたかのようだ。

まあ大往生で、幸せな人生だったと思う。冥福を祈る。

栗岡です。

シャルル・アズナブールの来日コンサートを聴いた。御年94歳のフランスシャンソン界の大御所、レジェンドである。

もともと今年5月に予定していたものだが、来日直前に腕を骨折し、飛行機に長時間乗ることを医師に止められて仕切り直しになっていたものだ。そもそも2016年来日コンサートが、最後のそれと言われたものだった。なお、今年春の叙勲で旭日小綬章を受章している。

それにしてもファンが多い。中年以上のご婦人が多い。

ステージに出てきたときは背筋を伸ばしてすっと起ち年齢をあまり感じさせなかった。ダンディーで、セクシーでならしてきた人らしい。

20曲も歌っただろうか?休まず一気に歌い続ける。エンタテナー魂を感じた。 ただ、目立たないがプロンプターの助けもある。確か、世界中の歌手も使っているとか正直に言っていた。

自分でも腕を骨折したこと、歩くのが出来ないとは言ったが、若い時のように機敏に動き回りはしないがまずまずの動作。ただ、最後には、杖を持ってきた。

バンドメンバーは5人、歌手は2人うちカーチャ・アズナブールは、彼の娘だ。

最後の2曲は、おなじみLA BOHÈMEラ・ボエームと"Emmenez-moi"世界の果てに

ラ・ボエーム ハンカチを最前列の客に落とした。争うように手を伸ばしていたご婦人たち。誰が手に入れたやら。

満足いくコンサートであったが、もうこれを最後にしていいのでは?熱狂的ファンがいるので何とも言えないが、やはり寄る年波に、ベストなもので観客を魅せられないだろう。まあこれは本人と興行関係者が考えることだが・・・

栗岡です。

本日、東京都美術館の「没後50年 藤田嗣治展」にやっと行けました。とても素晴らしいです。
早い時期の渡仏、エコール・ド・パリの寵児、戦争で帰国した日本で作戦記録画を書いたことで戦後責任を追及される。このこと日本画壇の卑怯さもあり、そもそも戦前のパリでの成功をやっかんでいた。だから、戦後早い時期にパリに復帰。日本に戻ることなく、フランス国籍を取得。カトリック信者となる。
これらは知っていたが、
この展覧会で、初めて、藤田嗣治の業績、人生を総体として教えてもらった気がする。

なぜ、これをここに書いたか?藤田嗣治は、本文中のシャンソン解説の先駆者蘆原英了氏の母方の叔父です。蘆原英了氏は、パリではエコール・ド・パリの寵児藤田嗣治に世話になったそうだ。

明日は、シャルル・アズナブールのコンサートに行きます。

シャンソンファンの栗岡です。

① 今年5月23日NHKホールで予定されていて、延期されているシャルル・アズナヴール「生誕94周年 特別記念 来日コンサート」は、
2018年9月17日(月) NHKホールと決定した。楽しみ。

② 11月16日(金)から、Bunkamuraのル・シネマでロードショーの。映画『バルバラ セーヌの黒いバラ』があります。

栗岡です。

アートギャラリー884の佐野様から連絡がありました。

8月から京都の漆芸修復師の平安堂清川廣樹さんがアートギャラリー884の9階アトリエで毎月第一金曜土曜日に「金継ぎ教室」を開催されることになりました。
 
清川さんはこのままでは伝統工芸全般の存続が危ぶまれている現状に、一職人からでも発信しなくてはという思いから、京都以外での活動拠点としてアートギャラリー884を選ばれた由。

この度、テレビ東京、8月20日(月)午後8時から2時間の番組が放映されます。
清川氏の修復作業と外国人の関わりを中心とした番組で、東京の「金継ぎ教室」として、アートギャラリー884が紹介されるそうです。
是非ご覧ください。


報告しましょう。
カレンヌ・ブリュノン&クレール・エルジエールのコンサート。フレンチポップ&シャンソンの共演2018
両歌手のコンサートは初めてだが、カレンヌ・ブリュノンは評判通りの美人。バイオリンを弾きながら歌う多彩な歌手。クレール・エルジエールは、私に(CDでだが)シャンソンに再会させてくれた歌手。
とても満足した。
男性でギターのドミニック・クラヴィックが歌った「5月のパリが好き」は、アズナブールでお馴染みの曲だが素晴らしかった。
ピアノのグレゴリー・ヴ―もクレール・エルジエールと歌った「男と女」や独唱の「サントワ・マミー」もよかった。
以上素晴らしかったが、聴衆はというと、年齢(他人ごとではないが、大半は高年齢者)や感じからして、日ごろシャンソンファンしているの?といった感じ。
会場が、取り壊しが話題になる中野サンプラザであるし、主催が民音ということから来るのか?まさか創価学会が招集をかけたわけでもあるまいが・・・

クレール・エルジエールの来日記念版CD(上記のもの)ゲット。いいですね
古くお馴染みのシャンソンは。

楽しみにしているクレール・エルジエールの東京でのコンサートが来週13日(水)と迫り、6月5日(月)朝日新聞(夕刊)の音楽・舞台面に関連記事が載った。
彼女の新アルバムが出たとあるので早速Amazonで注文した。
『パリ、愛の歌~永遠のシャンソン&フレンチポップ~』というもので、
『フレンチ・カフェ・ミュージック ~パリ、愛の歌』『パリ、愛の歌 第2楽章~永遠のシャンソン名曲集~』に続く第3弾である。
15曲目は、ボーナストラックだが、14曲までは、以下の通りで、時代を超えて歌い継がれるシャンソンの名曲である。

1 Sous les ponts de Paris(パリの橋の下)
2 Paris Canaille(パリ野郎)
3 L'âme des poètes(詩人の魂)
4 J'attendrai(待ちましょう)
5 Sans toi ma mie(サン・トワ・マミー)
6 C'est si bon(セ・シ・ボン)
7 Sous les toits de Paris(パリの屋根の下)
8 T'en va pas(彼と彼女のソネット)
9 Un homme et une femme(男と女)
10 L'amour est bleu(恋は水色)
11 Non, je ne regrette rien(水に流して)
12 Ménilmontant(メニルモンタン)
13 Ma plus belle histoire d'amour(わが麗しき恋物語)
14 Mademoiselle de Paris(パリのお嬢さん)

記事には、『パリの人たちの暮らしや人生、生きることの楽しさを歌い続けるのがシャンソン。それは変わりません』と彼女の言葉か?言い得て妙だ。
『生まれ育ったパリはこの数年、テロの脅威にさらされている。知人の孫が犠牲になったときは絶望的な気持ちになったと振り返る。』『テロの危険は毎日考えているし、恐怖と共存しています。でもパリは自分の家。私たちは負けないと団結しています。』とある。

栗岡です。

チケット・ぴあから、払い戻しの連絡ありました。

楽しみにしていた23日のシャルル・アズナブールの来日コンサートが延期されました。
理由は、
『本人の腕の骨折により、長時間飛行機に乗る事を医師から禁止された為、
止むを得ず開催を延期させていただくこととなりました。』
です。

生年月日は、1924年5月22日 なので、来日コンサート当日は、御年94歳です。
2016年から、今年最後のコンサートとか言ってました。
残念ですが、延期仕切り直しコンサートが、実現しますように!

今日も栗岡です。

Blog本文にあるように、私がシャンソンに再び興味を持つきっかけとなった歌手クレール・エルジエールの来日予定を知人が教えてくれた。
コンサートには行かねばなるまい。東京は、中野サンプラザで6月13日(水)18:30~
こちらも申し込んだ。

PR文言は、以下のよう。

カレンヌ・ブリュノン&クレール・エルジエール
パリ、愛の歌~フレンチポップ&シャンソンの共演
民音創立55周年/日仏友好160周年記念
在日フランス大使館が後援

フランスで今をときめく二人の女性歌手、カレンヌ・ブリュノンとクレール・エルジエールにスポットを当て、フレンチ・ポップとシャンソンの二つの魅力をお届けします。

また、「フランスの空気」を感じていただけるよう、パリ・ミュゼット(20世紀初頭のパリで大流行した、アコーディオン中心のアンサンブルによって演奏される大衆音楽)も披露し、日本でも馴染みのあるフレンチ・アコーディオンの名曲もお届けします。

栗岡です。

今朝の日経新聞文化欄に、永瀧達治氏の「シャンソン日仏の架け橋」が載っている。
この欄には、しばしば珍しい話題が載るが、昨年来、再びシャンソンに興味を覚えた私にとって歓迎すべき記事だ。

永瀧達治氏『私は40年以上日本でシャンソンの神髄を伝え、日仏の歌手の架け橋になるべく活動を続けてきた。日仏の文化をぶつけ合うことで、価値観の多様化につながったという自負はある。』と、これまでの生涯を要約している。幸せな人だ。

これと対照的なのが、我が敬愛する蘆原英了氏が「シャンソンの手帖」の中で書いていたこと。笑ってしまったが『私なども食うや食わずは大げさだが、禁欲生活に近い暮らしをして、シャンソンを研究しているが、そんなことは本来おかしい。もっと楽しんでいいはずだ。しかし日本では楽しんでおれない。』

二人は世代が異なり、蘆原英了氏のパリ留学は、時局が厳しくなっていく頃1932年-1933年で極く短期であった。

永瀧達治氏は、1968年のパリ五月革命(大学生の左翼運動)直後に、ソルボンヌ大映画科に籍を置いて3年滞在したという。

永瀧達治氏の主張で印象的なこと。『シャンソンは美しいメロディーや歌詞も大事だが、言葉そのものの「ニュアンス」に本質が潜む。豪華なフランス料理、華やかなファッションだけではなく、フランスの陰の部分まで知り尽くさないと理解できない。』

そう言う永瀧氏は、ジョルジュ・ブラッサンスを吟遊詩人といい、セルジュ・ゲンズブールをアナーキーと評している。

私が《ジュリエット特集》で解説した彼女の曲にもChanson pour l'Auvergnat(オーヴェルニュ人に捧げる歌)がある。ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens 作詞・作曲だ。
グレコが気に入ってカバーさせてもらったものだ。ブラッサンスの不遇時代を支えてくれたオーヴェルニュ人の夫妻に対する感謝の気持ちが現れている。

恋多き女ジュリエット・グレコと縁のあったセルジュ・ゲンズブールが、1959年に作詞・作曲したLes Amours Perdues(失われた恋)も解説した。

なお、永瀧氏の記事でシャルル・アズナブールの来日予定を知った。何年か前から最後の日本公演といわれるが93歳にして今年もコンサートをやる。チケットを申し込んだ。

栗岡です。そして承前。

ご参考にご紹介した曲名です。結構悩んで絞りました。

① Je suis seule ce soir 今宵ただひとり
② Douce France 美しきフランス
③ Mon homme 私のひと
④ Sur les quais du vieux Paris古きパリの岸辺で
⑤ Chanson pour l'auvergnat オーヴェルニュ人に捧ぐ  
⑥ C’etait Bien(Le petit bal perdu) 失われた踊り場
⑦ La Chanson des Vieux Amants 歳月を経し恋人たちの歌
⑧ Paname パナム ①~⑧ここまではCDでした。
以下は、LP盤でした。
⑨ Il n'y a plus d'après あとには何もない
⑩ Romance ロマンス
⑪ Coin de rue 街角 
⑫ Parlez-moi d'amour 聞かせてよ愛の言葉を 
⑬ Bonjour Tristesse 悲しみよこんにちは
⑭ La mer  ラ・メール
⑮ Les Amours perdues  失われた恋
⑯ Paris Canaille パリ野郎
⑰ Je hais les dimanches  日曜日は嫌い
⑱ Je suis comme je suis わたしはわたしよ 
⑲ Si tu t'imagines あなたがそのつもりでも

「司馬遼太郎を語る会」のOさん、Aさんたちが聴きに来てくれました。
Blog本文に書いた《この「司馬遼太郎を語る会」には、私の兄姉世代の方が多いので、きっとシャンソン好きの方もいると思う。》そのシャンソン好きの方たちです。

少々気恥ずかしいが、Oさんの感想の一部を転記します。
『グレコのあの唄、あの声と※素晴らしいオーディオにあっという間に時間が過ぎました。大兄のシャンソンへの深い造詣と、流暢なフランス語に感心しました。』

『元々音楽は大好きでしたし、亡くなった母親も好きでシャンソンも口ずさんでいました。女学校時代から宝塚が好きで、それこそ「すみれの花咲く頃」です・・・』

『大学生の頃、「ヌーヴェルヴァーグ」が全盛の頃でフランス映画を本当によく観ました。そんなことからシャンソンがますます好きになったのだと思います・・・メロディーはもちろん好きですがなんと言っても歌詞がイイ・・・人生を唄ってますね!』

なお、一昨年、転居されたのを機に断捨離を実行されたが、私が紹介した蘆原英了「シャンソンの手帖」についてこんなことを言っておられます。

『蘆原英了氏の「シャンソンの手帖」はまたいつか読むかと思って捨てないでおきましたが、今回思いがけず役に立ちましたよ。読み返しました。』

※「素晴らしいオーディオ」とは、第2部の話者でオーディオ愛好家の森正樹氏が用意された特別使用のスピーカーを指す。

栗岡のシャンソン解説「ジュリエット・グレコ」特集をやります。
2018年3月3日(土)、13時30分から
Art Gallery 884(御茶の水・本郷;TEL03-5615-8848)
なお、16時からは、アマリア・ロドリゲスのファド、パコ・デ・ルシアのフラメンコ・ギター等を森正樹先生の解説で聴きます。
案内ポスターを掲載します。

お茶の水・本郷で画廊をしております。アートギャラリー884の佐野です。
弊廊では絵画を観ながらLPレコードを鑑賞するというイベントをしております。
今回は7回目、クラシック、ジャズを鑑賞してきましたが、今回はオータムリーブスの一日をシャンソンを聴いていただこうと。
そこで、栗岡健冶さんにコメンテーターをお願いいたしました。
ご本人は謙遜していらっしゃいますが、曲や歌手にまつわるエピソード、フランス語の説明などシャンソンへの想い入れが伝わるお話を拝聴でき、参加者一同、栗岡氏のシャンソンの造詣の深さに感服しながら、若き日の想い出とパリの空気に包まれた一日でした🎶🎶
栗岡さん、有難うございました。またお願い致します。

談話室Ⅴを書いたことがきっかけで、どうしたことか? 私、栗岡が、シャンソンについて人前で語ることになりました。

東京都文京区本郷のArt Gallery 884で、定期的に開催されているLPレコード鑑賞会に於いてであります。

ゲスト・コメンテーター 栗岡 健治氏 / シャンソン愛好家と紹介されていて、まるで別人のようです。

第7回LPレコード鑑賞会(今回は、ポピュラー編で、シャンソン、タンゴ、カンツォーネ)
第1部 13:30~ 第2部 16:00~

Art Gallery 884
東京都文京区本郷3-4-3 ヒルズ884 お茶の水ビル1F.

(※「栗岡健治の談話室Ⅴ」本文の末尾に、LPレコード鑑賞会のポスターを掲載しています)

湯川です
懐かしいことを書いてくれる栗岡さんに感謝です。私もこの頃のことから・・・

 この年の正月から日曜日の午後8時に始まったNHKのテレビは面白い「竜馬がゆく」という番組だった。
しかし、この年は対岸に位置する佐世保のニュースが連日ニュースで流れた。原子力空母エンタープライズが来るという・・・
「佐世保市民は皆さん入港に反対しています」とニュースは伝える。
佐世保港に入港するとすると五島灘を通過するはず。その割には佐世保からわずか25Kmに位置する五島列島の住民が反対しているという話はないが・・・
 父親が佐世保の親戚に様子を聞くと・・・
「だれも反対なんかしちょらんよ」
「板っきれば振り回しちょる人らは他所から来た人達ばい」
との答え。
 テレビ報道に疑いを持つようになる切っ掛けとなる事件だった。
半年も経過すると、そんなことがあったことは忘れていた少年たちが、夏休みの初日、自分たちが泳ぐ海に行ったらそこはゴミだらけだった。
「どうしよう・・これは泳げんね」「でもあっちに行けば、ゴミは少なか」と小学生は遊泳禁止区域を発見する。
波が静かな入江の中はゴミが集中していたが、外海になる岩場は綺麗なままだ。
 小さい子供には遊泳を諦めてもらい。上級生が管理できるであろう中学年以上を選抜して岩場に移動して泳ぐことになった。
 暫くすると、ケイ君が何か叫んでいる。
板に角棒を打ち付けたプラカードを高く掲げて・・・
板には「原潜反対」と書かれていた。
 そう埋め尽くしたゴミは半年前にエンタープライズ入港に反対運動していたプラカードの残骸だったのだ。
潮の関係で、巡り巡って五島にたどり着いたのだろうか・・・
この日から、しばらくの期間、五島列島の子供たちは原潜反対運動をしたことは言うまでもない。
 その翌年、中学に入学した私はマイラジオを持ったことが自慢だった。
「午後のシャンソン」は退屈だったが、ミッシェルポルナレフは新しかった記憶がある。
「新春シャンソンショー」という早口言葉が流行った時代となにかシンクロしている。
シルヴィ・ヴァルタンは世界のアイドルだったかもしれないが、日本にフランス音楽を馴染ませる役割をはたした。
シャンソンは耳に馴染む。ラジオに続きギターを手に入れた私はフォークが主だったが、洋楽にもチャレンジした。
英語は小学6年から始めていたので、ビートルズやボブディランにもチャレンジした。
但し問題はフランス語だ。当然読めない発音できない。ラジオからは流れて心地よく聞こえるのに歌うことはできないのだ。
71年にダニエル・ビダルがオー・シャンゼリゼを日本でもヒットさせた。が言語はチャンプスエリーゼス(Champs-Élysées)としか読めないことが悲しかった。
 栗岡さんはこじ付けて村田新八を登場させ体裁を整えた(笑)
ならこれにコメントしなければならないだろう。
小松帯刀の懸命の説得を島津久光が受け入れ沖永良部遠島が許された西郷は同じく喜界島に遠島された村田新八を独断で連れて帰った。藩の許しがない村田を連れて帰るのは西郷の道理ではあったが、小松や大久保は肝を冷やした。
器量と技量については薩摩No1と皆が認めていし、大久保の後は村田か黒田しかいないという一致した意見であった。
帰国後、当然明治政府の重鎮に収まるはずの村田が薩摩に帰ってきたので、さすがの西郷さんも慌てたようです。
以下、敬天愛人ファーラム会長の話です。
明治8年に最後のお願いということで大山巌が西郷説得のために帰郷した際に、西郷の覚悟(薩摩武士を抱えて死ぬこと)を大山が泣きながら聞いて覚悟して東京に帰るのですが、全てを知っていたのは村田だけだったのかもしれません。そう思いながら「翔ぶが如く」を読むと、司馬先生も村田をそのように表現している気がします。

栗岡です。書き足りないわけではないが...

秋保温泉で朝食時のBGMのシャンソンに刺激された。そしてこれがきっかけで、一気に30年も昔に訪ねた北フランスは、森の中の村Saint-Jean au Boisが蘇った。思い出すことはあっても特別なシャンソンの“歌枕”であったとは知らなかった。日本語なら“かくれ里”といった感じで車を走らせ行きつくとこの村が・・・あるいは司馬がよく使った《隠国》(こもりく)とでも言おうか。
20年もの空白のあと、殆ど感傷旅行でパリに一週間滞在したことがある。それも既に7年も経過してしまった。忙しくあちこち歩き回ったが、かつて住んだ15区Place Cambronneに行ったあとは、エディット・ピアフのうまれた街ベルヴィル界隈へ、ここは下町で悪く言えば場末。今は移民が多く住み、中華料理や北アフリカ料理のレストランなどが多い。私は嫌いではない。ペール・ラシェーズ墓地のピアフの墓にも詣でた。ちょうど万聖節という11月1日で日本の彼岸のような墓参りの時期であり広大な墓地には訪れる人も多く明るい雰囲気の墓地であった。多くの著名人が眠っておりガイドブックを手に墓を探して多くは観光に興じていた。シャンソニエ(シャンソン酒場)のAu Lapin Agileにも行った。たぶんに観光施設だが

村田新八は、音楽に限っても型破りな人だった。西郷を父とも慕い大久保を兄とした。征韓論で仲違いした両者を説得して再び仲を戻す仲介者たらんとしたが、結局、鹿児島に帰り、西郷に付いた。村田のことは、自分のあとを託せる人物と評価していた大久保がひどく落胆したことは言うまでもない。

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