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2018年1月

2018年1月 8日 (月曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅵ》「和歌山・大阪の旅~雑賀衆を訪ねて」

次回の卓話を何にしようかと思案しているとき、たまたま眼についたのが司馬遼太郎『尻啖え孫市』であった。下品なタイトルであるが、読んでみると、主人公の雑賀孫市は、好色だが痛快な漢(おとこ)として描かれている。これに決めた。「そうだ和歌山、行こう」と、昨年(2017年)10月に雑賀衆や雑賀孫市にちなむところを訪ねてみた。 

本年、217日(土)に『織田信長に挑んだ戦国のガン・マニア雑賀孫市と雑賀衆』の題で、卓話を予定している。このBlog記事を卓話資料の一環と位置付けたい。
『尻啖え孫市』のほか、例によって『街道をゆく』から「高野山みち」、「紀ノ川流域」、「河内みち」、「堺・紀州街道」を旅の伴侶にした。

『尻啖え孫市』

始めに『尻啖え孫市』のあらすじ極々簡単に紹介する。この作品は、エンタテインメント色横溢しており実に愉快である。Photo
歴史好きの皆さんは、雑賀()について、一度はお聞きになったことがあるのではないか。雑賀(鈴木)孫市が頭領の一人である紀伊・雑賀衆は、傭兵集団で、鉄砲をもって戦国大名に加勢し、戦働きをして対価の報酬を得ていた。ただ多くの一向宗門徒からなる雑賀衆は、石山本願寺の対織田戦は、無論無報酬で戦った。何しろ雑賀兵は、本山のために法敵・信長と戦うなら、極楽往生は間違いなしという信仰を持っていた。

信長の天下統一の前に立ち塞がる本願寺と雑賀衆は、信長を散々てこずらせその天下統一スケジュールを大きく狂わせた。が、最後には豊臣秀吉の紀州征伐で降伏し、紀州の戦国時代が終わる。
この作品あまりにもエンタテインメントなので、少しは学究的な著作(※)にもあたってみたくなる。すると、鉄砲伝来経緯はどうか、浄土真宗とは、親鸞とは、蓮如とは、ここでの主要人物の顕如(浄土真宗本願寺派第11世宗主)とは、戦国期の紀州(雑賀、根来寺の相隣関係など)の状況は・・・と孫市だけでは済まず大変なことになってしまった。苦心惨憺の結論は2月の卓話で、話そうと考えている。雑賀衆については、司馬遼太郎以外にも“和歌山県の作家”ともいえる津本陽や神坂次郎に作品がある。

 ※「戦国鉄砲・傭兵隊」鈴木眞哉 

「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村

「織田信長石山本願寺合戦全史」 武田鏡村

「本願寺」井上鋭夫

「浄土真宗とは何か」小山聡子

旅のコース(雑賀に直接関係ない項目も混じるが旅の全貌である)928_2

2017101()関西国際空港-真田庵-慈尊院-高野山…宿坊・福智院()

102():壇上伽藍-大門-道の駅「青洲の里」-粉河寺-根来寺-紀三井寺―和歌山スマイルホテル() 

103日(火):本願寺鷺森別院(雑賀御坊、鷺森本願寺)-蓮乗寺-平井城址-和歌山県立近代美術館-弘川寺(広川)-顕証寺(八尾市久宝寺)-高貴寺(平石)→心斎橋(泊)

104日(水):(東大阪)司馬遼太郎記念館-(堺)南宋寺(なんしゅうじ)-鉄砲鍛冶屋敷跡(内部は非公開)-岸和田城→ 関西国際空港
(写真右:司馬遼太郎記念館前にて)

真田庵 九度山

2016年のNHK大河ドラマは、「真田丸」であった。ドラマ放映中に、信州上田や松代、群馬県の岩櫃城などは訪ねたが、関ケ原敗戦後、真田昌幸・信繁らの蟄居生活の場、そして昌幸が息を引き取った地であるここ九度山を訪ねることはできなかった。昌幸・信繁父子の屋敷跡がこの真田庵であるが、正式には真言宗善妙称院という。「このあと幸村(信繁)が、豊臣秀頼にまねかれて九度山を脱出し、勝目のすくない大阪城に入り、召募浪人たちを指揮して孤城を守る」(高野山みち「真田庵」)400792

なお、和歌山県は日本一の柿の生産量を誇るという。紀ノ川流域のこの辺りも生産が盛んで、大ぶりで甘い柿であった。当地の【柿の葉寿司】も美味しかった。(写真右:真田昌幸公400年忌碑)

慈尊院 九度山

ここは、高野山の政所。当時、女人禁制の高野山に空海の母が上がれず、ここに住し、空海が山を下りて母に会ったという。月に九度下りてきたとかいう伝説があるとか?

高野山宿坊・福智院

 秀吉は紀州征伐の際に、高野山にも全面降伏の使者を出し、従わなければ全山を焼き討ちにすると脅した。根来寺の焼き討ちを見ていた高野山は秀吉の出した条件を飲み降伏し焼き討ちを免れている。940

旅の宿はたまたまJTBが私にあてがったものだが、思わざる幸運二つ。①高野山で唯一の天然温泉であること。②当会の重森貝崙氏のお父上である昭和の天才作庭家である重森三玲が手掛けた3つの庭園があること。朝の勤行が行われる本堂から眺めた『愛染の庭』は最高に素晴らしい。旅の最後に寄った岸和田城の重森三玲作『八陣の庭』は予定して組んだ旅程にあったが、福智院の庭と併せ二つながら鑑賞できた。(写真右:愛染の庭)

道の駅「青洲の里」

ここで食事をしたが、華岡青洲を顕彰する施設が併設されている。華岡青洲は、紀州の人で、漢方医ながら、麻酔をつかって、乳がんの手術を行った。彼の発明した麻酔薬「通仙散」の原料は、曼陀羅華(まんだらげ)という朝鮮朝顔などで、施設の庭にこれが植えてあった。華岡青洲は、大坂天満に塾を開いていた。青洲の塾生と緒方洪庵・適塾の塾生とは仲が悪かったらしい。司馬は、蘭方医は積極的に医学知識を広めようとしたのに対して、漢方医はこれを秘伝にしたと書いている。

粉河寺 

西国三十三所第三番札所。山号は風猛山。宗派は天台宗系、粉河寺縁起絵巻が、国宝だが、京都国立博物館に寄託されている。石組みの庭園は見事であった。『尻啖え孫市』にわずかに粉河寺が出てくる。(写真右:粉河寺庭園)769

秀吉の紀州征伐の折、「孫市は泉州積善寺砦にいた。砦を取り囲んだ総大将は豊臣秀長で、孫市が兄の秀吉と懇意であることを知っていて、誓紙まで書き送り鄭重な態度で開城をすすめると、孫市はその態度をよろこんだのか、あっけなく受諾した」
使者に立ったのが藤堂高虎。孫市は「藤吉郎は達者か?一度紀州へ遊びに来い、和歌浦の魚貝など、わしの庖丁で馳走してやると申しておけ」

高虎は自陣に帰り翌日再びやってきて「内府様(秀吉)に伝えましたところ、紀州粉河寺でお待ちあれ、ふたりきりで旧交をあたためたい、とのことでござった」
高虎はうそをいったわけである。
「ほう、藤吉郎がそう申したか」と大よろこびで支度をし、妻・小みちや城兵はひとあしさきに雑賀にかえし、自身は単騎、風吹峠を越えて粉河寺に入った。ここで、孫市は死んだ。毒殺されたのか、刀槍で殺されたのか、それとも単に病死であったのか、よくわからない。(これはどうも司馬の創作らしい。さらに、謀殺されたのは、孫一(市)の父・鈴木佐大夫だという説もある。)

根来寺 

根来寺の案内パンフレットに「佇めば中世」とある。司馬遼太郎は「わずかに残った大門や堂塔、塔頭が、低い丘陵と松柏にかこまれて、吹く風までが、ただごとではないのである」
そして須田画伯のとっさの反応は、根来塗であり、「あの朱(あけ)は、絵かきでも漆芸家でも、いまや出せやしませんよ」624
根来寺は話題が多い。根来寺開山の覚鑁(かくばん)は、高野山にあって空海の密教に浄土思想を加えることで空海の密教学を大きく新展開させた。覚鑁は鳥羽上皇の経済的支援も得、高野山の大伝法院の座主になり、さらに高野山の座主にもなったが、これが大方の反感と鬱積を大爆発させ、追われるように山をくだり、根来に入り、ここで法義を宣布した。覚鑁の死後、根来寺はいよいよ隆盛した。(写真右)

また、根来寺の僧兵のことを行人(ぎょうにん)といったが、師団の一つ杉之坊の当主津田監物が種子島の現地で、島主の種子島時尭から南蛮伝来の鉄砲を譲り受けたのが、紀州そして全国に鉄砲が広まった契機だといわれる。根来寺僧兵は、雑賀衆とともに天下の鉄砲集団であった。
ただ根来衆は、信長による杉之坊に対する調略が奏功して織田方に寝返った。根来衆は信長には好意的で、信長の紀州征伐にも加勢していた。しかし信長の死後、小牧・長久手の戦いでは、雑賀衆と共に家康と同盟し、大坂城を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。

家康が秀吉と和睦し臣従したので、雑賀・根来は梯子を外され秀吉の怨みを買う結果になった。戦後は秀吉による紀州征伐(千石堀城の戦い)が起こり、根来大善(霜盛重)を中心に抵抗し、寺を焼かれた。雑賀衆の鈴木佐大夫が藤堂高虎に謀殺されると(前記の説)、伊勢に逃れ、徳川家康に従い、成瀬正成を組頭とする根来組同心として内藤新宿に配置される。

 2017125日に、皇居乾通りの一般公開に参加した。乾通り散策のあと、東御苑に入った。ここで【百人番所】という案内に気が付いた。こう読める《江戸城本丸への道を厳重に守る大手三之門に向き合って設けられた警護詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。》きっと前記の江戸幕府に雇用された者たちであろう。

なお、根来寺は覚鑁が開基の新義真言宗の寺である。家康がかつての同盟者である根来寺に借りがあり、復興支援や保護をしたため、関東に新義真言宗の寺院が多いという。司馬は書いている。「しかし川崎大師に初詣する人達や成田のお不動さんに交通安全のお札をいただきにゆくひとびとの何人が、宗祖が覚鑁という人であることを知っているだろうか」

紀三井寺 859

山内に涌く三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされる。司馬も和歌山にはいい地名があり、紀三井寺もその一つとしている。(写真右)

二百三十一段の石段を登ると和歌浦湾が足元に一望でき、和歌川の向こう、あのあたりが、雑賀城跡だろうかと思った。

和歌山スマイルホテル 
司馬遼太郎も泊まったビジネスホテルである。『街道をゆく』を真似た私の旅でこんなことは滅多にない。司馬は「朝食は、九階でとった。和歌山城は、このビルでいえば、十五、六階の高さぐらいらしいが、天守閣がほぼ等高にみえる。しかも窓いっぱいに城山と天守閣、櫓といった構えがひろがっており、おりからの樟若葉で、名城がいっそうあでやかなのである。まことに贅沢な朝食といっていい」
別に「とりあえず荷物をおろすべく和歌山城のそばのホテルの部屋に入ると、窓ガラスいっぱいの新緑につつまれているこの城がなんともいえずうつくしかった」
司馬は実際の和歌山城に登っているが、私はこの窓外の和歌山城の姿に満足して登らなかった。

本願寺鷺森別院(雑賀御坊、鷺森本願寺)

朝一番に訪ねた。確かに立派な大きな伽藍であるが、幼稚園併設であり園児と若い女の先生たちの園で歴史が想像しにくかった。789

織田信長と和睦し石山の地を明け渡した顕如が、15804月にここに移り以後3年間、鷺森御坊が本願寺の総本山であったことだ。この後貝塚本願寺と天満本願寺と短期にかわり、1591年(天正19年)、秀吉より堀川六条に寺地を寄進され天満から移転する。(現在の西本願寺)(写真右:鷺森別院)

だが、2017年も3月には、第13回孫市祭が行われたようである。孫市の会主催のボランティア祭りだが、孫市の会は「雑賀孫市は和歌山の宝」を合言葉に和歌山を元気にしようと活動している。手作りの祭とはいえ鉄砲演武には、和歌山県の紀州雑賀鉄砲衆、根来史研究会根来鉄砲隊、紀州九度山真田鉄砲隊のほか、彦根商工会議所青年部古式銃研究会彦根鉄砲隊、堺火縄銃保存会、丹波亀山鉄炮隊も参加したようで勇ましい。

蓮乗寺852

ここは孫市の墓があるお寺(写真右:案内板)。表札に鈴木とある。何やら由緒ありそうだ。鈴木孫市の末裔か?蓮乗寺の前の道は極めて狭い。ここに車を入れてしまい、冷や汗をかいて、やっとの思いで抜け出た。次に向かう平井城跡への道を教えてくれた地元の人が「どこへ行こうとしてたんや?」、「雑賀孫市の墓のある蓮乗寺には行けたんですが、狭い道からやっと抜け出られたのです」、「ああ、孫市つぁんとこ行ったんかいな」
まるで孫市が今も生きていそうな物言いである。

平井城跡 

孫市が拠点を置いた地域とされる。現在運動公園になっていて何もないが、案内板があり、驚いたことに【沙也可生誕地・平井城跡】と読める。ハングルも併記されている。(写真右)991
「沙也可」とはご存知の方もいよう。『街道をゆく』「韓のくに紀行」に出てくる豊臣秀吉の朝鮮の役のとき兵3千人をひきいて、朝鮮側に降伏した日本の武将(降倭)の沙也可のことである。司馬遼太郎は、沙也可の末裔が暮らす村、友鹿洞を訪ねている。Wikipediaに《司馬遼太郎は、『街道をゆく 韓のくに紀行』で、沙也可が日本名「サエモン」の音訳、あるいは「サイカ(雑賀)」のことではないかと推理した。》とあるが、私が何度読んでも、司馬が雑賀に言及しているところは見つからないが司馬は、沙也可の存在は疑いのないこととしている。いろんな説があるようだが、和歌山の作家、神坂次郎は、雑賀説で小説を書いている。「海の伽耶琴」~雑賀鉄砲衆がゆく~

司馬遼太郎は、この「紀ノ川流域」の旅で、後記の弘川寺のところの藤田氏らとの酒席に神坂次郎氏を招いている。「私のほうのお相伴をしてくれたのが、三十年来の知己の神坂次郎氏である。この人は、高名な作家になっても、地もとを離れずにいる」、(神坂)「紀州のよさは、なんといっても徳川以前ですね」、(司馬)「私も、同感だった。ただ、このひとがこのようにつぶやくと、地の霊がひびき返ってくるような風韻がある」

和歌山県立近代美術館

地方旅行の際は、県庁所在地の美術館を訪ねることにしている。収穫はあった。佐伯祐三が描いたパリの街など《リュ・デュ・シャトーの歩道》《カフェ・レストラン》《オプセルヴァトワール附近》。
また『街道をゆく』初代の司馬番記者の「編集部のH氏」こと橋本氏の父は、日本画の大家橋本関雪だと知ったが、橋本関雪の絵もあった《江亭賞梅図》《松雲塔二顧図》

弘川寺南河内郡河南町弘川)583

西行はここで入寂した。

『街道をゆく』「紀ノ川流域」なのに、あとの高貴寺とともに「ほんのしばらく紀州(和歌山県)から離れる」と司馬らしい興にまかせた筆運びである。何のことはない。話を和歌山市内の聖天宮法輪寺の住職藤田俊乗氏につなげるためだった。(写真右)
藤田氏は、弘川寺・高貴寺と同じ河内の天野山金剛寺で修行をしたという。遠大な前置きに付きあってしまった。しかも、弘川寺・高貴寺のことは「河内みち」を旅してしっかり書いているのだ。

顕証寺(八尾市久宝寺) 

顕証寺(大ケ塚)へ行くつもりだったが思わぬ事態に。どこでどう間違えたか不明だが、行きついたところは八尾市久宝寺の同じ名前の顕証寺であった。おそらくNaviの検索間違いだろう。久宝寺の顕証寺も、浄土真宗寺院で、環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町を成し、戦国時代における一向宗の拠点のひとつであったので、同じ性格の歴史を持っている。

高貴寺(南河内郡河南町平石)820

香華の山 山脈(葛城山脈、その南部だけを和泉山脈)の西麓にあって、草木の香気が高いというところから命名された古刹である。(写真右)

司馬遼太郎記念館東大阪市下小阪)
電車であれば、近鉄奈良線八戸ノ里駅が最寄りである。社会人生活を梅田勤務で始め、生駒の独身寮との間を通ったので、懐かしい路線である。ただ記念館は2度目に過ぎない。「司馬遼太郎を語る会」で、司馬にどっぷり浸かっている私を理解してもらおうと家内を連れて行った。巨大な書架やビデオ映像に納得していたようだ。

蕎麦屋「ちくま」堺市宿院)

不思議な蕎麦屋のことを異例ながらここに書かせてもらおう。

『街道をゆく』「堺・紀州街道」で司馬は、編集部のH氏に「まず“ちくま”でそばでも食べましょう」と提案する。司馬は、この時を遡る十年ほど前にこの店に行ったことがあった。残念なことに、司馬一行が訪れた日は定休日であった。私の旅では、昼食どきに堺入りし、まっすぐ創業元禄8年のこの古い蕎麦屋に入った。

この店、外観からしてユニーク。まるで生コンの工場にはめ込まれたような構え。もっと珍しいのは蕎麦。昼は特に蕎麦だけ供する感じで(お酒はあるが、車なので・・)、1斤か1.5斤かしか聞かれない。つまり量だ。待っていると、出てくるのは暖かい蒸籠蕎麦(せいろそば)。生卵を溶いて、薬味の刻み葱とつゆで食べる。こんなの初めて食べた。柔らかめ。旨い。蕎麦湯のことを「かまくら」といい何やら不思議尽くめであった。

なお、『街道をゆく』で、司馬と蕎麦屋にまつわる話はほかにもあった。「北国街道とその脇街道」で食べた武生の「うるしや」「越前の諸道」でも、おなじ店で食べている。私が行ったときには閉店していた。

南宋寺(なんしゅうじ)堺市)

臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。

茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。

古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。

 なお、『尻啖え孫市』では、雑賀城を息子の“孫市(平井村の孫市)”に譲って、堺好きの孫市は住まいを得た。《堺の本願寺派の商人が隠宅として建てたもので、南宗寺の南隣りにあたっている。》近所の者には「紀州のさる牢人」と披露したが、皆、信長をてこずらせた紀州の鉄砲大名雑賀孫市さまと知っていたと描いている。

鉄砲鍛冶屋敷跡(内部は非公開、堺市)928_3

『尻啖え孫市』に出てくる鉄砲鍛冶の名人芝村仙斎の屋敷はこんなだったのかと想像してみた。「土間がそのまま鋳造場(ふきや)に続いているらしい。」などと描かれている。(写真右)

岸和田城

歴史的には秀吉の武将であった中村一氏が、天正11年(1583年)に3万石岸和田城を拝領。大坂の防衛および来たるべき紀州攻めに備える役割を与えられた。敵対する本願寺、根来・雑賀連合軍は、根来寺の支城である千石堀城、積善寺城、沢城などを前線とした。中村一氏は、劣勢ながら岸和田城を守り切り、翌天正13年(1585年)の反転攻勢においても主導的役割を果たした。(写真右:岸和田城八陣の庭)777

 

この程度の“取材”であった。入念に事前調査をすれば、あるいはゆかりの場所の収穫がもう少しあったかも知れないが、雑賀衆の活躍の舞台であった山河を見ることができれば良いと思っていただけなのでこれで良しとした。

 

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