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2018年4月

2018年4月16日 (月曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅶ》「池波正太郎のフランス旅行について」

〔はじめに〕
「徳川幕府と帝政フランスの蜜月あるいは特殊関係」を卓話し、『栗岡健治の談話室』で「日本史におけるワイン」、「シャンソンについて」を書いたので、私は、自他ともに認めるフランス贔屓(francophile)ということになった。180217
ところで、池波正太郎がフランス贔屓であったことをご存じだろうか?
このBlogに書くには、歴史や司馬遼太郎との関係に触れなければならない。
wineについては苦しいながら【日本史におけるwine】とした。
シャンソンでも村田新八と『さくらんぼの実る頃』を材料に使った。でも今回条件はクリアできそうだ。

〔司馬遼太郎と池波正太郎〕

まず司馬遼太郎と池波正太郎は、同じ生年で、同じ期の直木賞受賞。親交があった。池波正太郎が、司馬のマンモス・アパートを訪ね、得意のどんどん焼きを作ったエピソードがあった。そして、この話題つまり池波のフランス旅行は既に歴史である。これにて“言い訳”を終える。
私は、池波正太郎の代表作である『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』などを読んだことがない。だからこの面からの正統的池波ファンではない。
それ故この拙文を書いていること我ながら意外である。以下に事情を明かす。

〔池波正太郎のフランス旅行
Photo_3

1984年、私はフランスに住んでいた。あるとき日本からcourier serviceで届く「週刊朝日」の連載記事で、折しも池波正太郎がフランス国内を旅行していたことを知った。これは感動的だった。
フランスにいるので自分でも、行こうと思えば行ける旅ではないか!それは、後記の昭和59年秋の旅『フランスの秋・その落日』だった。
この中のカルカソンヌは、すぐあとのクリスマス休暇に家族で訪ねた。城壁で囲まれたこの都市のガイド氏に、Bonne vacances!と言われ、変に新鮮に思われ、ああフランスではどんな季節でも休暇はバカンスなんだと納得したことを思い起こす。
ただし後に知ったが、7次にも及んだ池波正太郎のフランスの旅に、私のそれはとてもとても及ばないのだ。今は私の夢になっている。67歳で逝った彼がここまで広範囲な旅をして足跡を刻した。なのに、今、私は65歳。こんな旅がしたいものだ。 

〔池波正太郎のフランス旅エッセイ〕

池波正太郎とフランス、彼のフランス旅行のありようを知った。フランス旅行を描いた彼のエッセイは無類の面白さがある。

・『フランス映画旅行』
・『あるシネマディクトの旅』
・『ル・パスタン』
・『ルノワールの家』などなど

「初めてのパリだったが、彼には街のたたずまいがたちどころに理解できた。なぜなら、50年間フランス映画を見つづけてきて、何度も見た風景に再会したのだから」―そんな思いをいだいたらしい。Photo

時代小説作家とフランスがしっくり結びつくことに驚いた。
このこと随分人に語ったものだ。そうしてついにこんなところに書いている。
前記のエッセイから一冊だけお勧めするとすれば、『あるシネマディクトの旅』である。3回のフランス旅のエッセンスである。シネマディクトとは映画狂

〔池波正太郎の足跡〕
池波正太郎の足跡は、フランスのほとんど見るべき都市、地域全部に及んでいる。核心の4回の旅だけでも
昭和54年秋 パリ、バルビゾン、レ・ゼジー、アヴィニョン、アルル、ニース、マルセイユ、(スペイン)バルセロナ、マドリード、トレド、グラナダ
昭和55年秋 パリ、(ロワール川古城)オルレアン、メナール、ブロワ、オンゼン、モンバゾン、アゼー・ル・リドー、シノン、アンジェ、ナント、ラ・ボール、カンペール、ポン・ラベ、トレブルダン、サン・マロ、モンパンション、ル・マン、ルーエ、シャルトル、マルメゾン
昭和57年初夏 パリ、(ベルギー)ブリュッセル、ブルージュ、(フランス)ワーテルロー、ナミュール、ディナン、ランス、ナンシー、ドンレミイ、ジョワニー、オルレアン、オンゼン
昭和59年秋 ストラスブール、(ドイツ)エトリンゲン、(フランス)ナンティイ、ディジョン、リヨン、アヴィニョン、マントン、カーニュ、マルセイユ、アルル、エグ・モルト、カルカソンヌ、ボルドー他

なお、この4回旅行の前後に、
① 1977年(昭和52年)初夏、初めてフランスを中心とするヨーロッパに旅行。
⑥1988年5月にフランス旅行
⑦1988年9月にドイツ・フランス・イタリアへ旅行、これが最後の海外旅行となった。通算7回渡欧。
売れっ子作家で超多忙であったので、長期のフランス旅行のためには周到な調整と準備を必要としたであろう。

〔池波正太郎のフランス旅の特徴〕

身近の仲間というか弟子・書生を運転手(綽名はロシア)と通訳兼庶務担当(綽名はモウコ)に分けて、引き連れていた。
高額年収の売れっ子作家であり大名旅行で、宿泊ホテルも食事も超一流だが、時に前菜とデザートだけでもよいかと店に断りを入れさせたり、旅程についても決して無理をしなかったようだ。

〔フランス人との交流 人間性を発揮〕

そしてフランス人との交歓が素晴らしい。
① 筆頭は、パリの旧中央市場跡あたりの居酒屋B.O.Fの店主のセトル・ジャン。出会ったときは72歳の大柄な老人で、店も200年以上経つが、老店主になってからも50年経っていた。一緒に店をやる夫人はポーレット。
池波は彼らを訳あり夫婦と睨んでいた。まるで江戸の市井の人間のように描いている。
パリに行くたびに彼らに会い、彼らのことを書いた著書にサインをして贈った。すっかり馴染んだパリの友人であったが、最後の渡仏時は消息が途絶え池波を落胆させた。

② 宿の給事の若い女性とのふれあいもいい。
『食堂で働く16、7の少女の給仕の顔からして、フラゴナールやミレーの絵にでも出てきそうだ。結婚したら、さぞよい女房になって、子供を6人も7人も産みそうな・・・・。日本から持って行った布製のカレンダーをあげると、「メルシ・・・」絶え入りそうな声で礼をいい、はずかしさにくびすじまで赤く染めた。こんな少女、むかしの日本にもいたが、いまは、ほとんどお目にかからない。しかし、フランスの田舎には、たくさんいる。』
この少女は、オンゼンの宿の給仕で、池波は二度訪ねている。1年半後再び訪ね、ほんの少し大人っぽくなったが、依然初々しさの残る彼女ドミニクに再会している。

③ マルセイユのデラックス・ホテル「プチ・ニース」のレストランでの夕食。
池波の『今夜はシャンパンをやろう。ワインは、いいのをえらんだらいい』に通訳・庶務と運転手のお付き2人が張り切って年代物の〔シャトー・マルゴー〕というのをえらんだ。
やがて若い給仕がシャトー・マルゴーを運んで来た。銀製の注ぎ口のついたデキャンターへ、ワインを移し、これを持ち上げた途端に、どうしたわけか、デキャンターが床へ落ち、音を立てて割れ散った。ワインの香りが、あたりにひろがり、他の客たちが一斉にこちらを見た。
若い給仕は顔面蒼白となって立ちすくみ、主人が近寄ってきて、私たちに詫びた。
そして、あらためて給仕がワインを運んで来たわけだが、まだ蒼ざめてい、手が微かにふるえている。本当に気の毒になった池波が、布製の日本のカレンダーを出し、給仕へわたし、うなずいて見せると、給仕は何とも言えぬ眼の色になり、「メルシ、ムッシュー」を繰り返した。
食事が終わるころ、彼がまたやって来て、お付きに「私は明朝、交替でまいれませんので、どうか、そちらのムッシューへ、よき御旅行がつづきますよう祈っておりますと、お伝えください」と言ってくれたのを通訳から聞いた。
池波が立ちあがって、給仕と握手を交わす。彼は目を伏せ、何やら低い声でいったが、無論フランス語はわからないで二度三度と頷く。翌朝ホテルの人たちが親しみをはっきり表すようになった。


池波の優しさはお付きの書生にも及ぶ。彼のあだ名はモウコで通訳担当。
『この日あたりから、モウコは臆せずに、真先にフロントへとすすむようになった。モウコは(東京)大学の教養学科でフランス部門を終えた男だが、はじめは自信もなく心細げだった。
しかし、フランスへ来て数日たったいま、自分でもやる気を出したらしい。~ ~ どうやら、むかし学んだことに、生気が通ってきたらしい。この旅行にモウコを連れて来て、彼のためにもよかったとおもったのは、このときだった。』
池波はこの後も都合4度同行させる。Photo_2
ずっと後年モウコこと佐藤隆介は、『あの日、鬼平先生は何を食べたか 池波正太郎フランス旅日記』を著す。
あとがきは『亡師・池波正太郎とは合計4回のフランス旅行をさせてもらった。』で書き始めている。

〔終わりに〕

そういえば食通・池波正太郎のグルメ本は結構読んでいたが、こんな本も書架にあった。『男の作法』である。
昔から池波正太郎を粋で洒脱な格好いい人だと思っていた。ただ、和風の格好良さしか考えていなかったが・・・
67歳歿。長生きとは言えず、早くから死を考えていたという。『もう一度来れるかな』という池波の述懐に、旅の同行者は、「先生!毎回そんなことを言っておられますよ。大丈夫です。」だったというが、最後の旅から2年弱で逝ってしまった。晩年の頻繁な渡欧渡仏は死期を読んでいたからだろうか。

池波正太郎ファンを含め、このことご存知の方もいようが、彼のこんな側面を是非とも紹介したかった。

2018年4月 8日 (日曜日)

《大澤有信の談話室Ⅱ》「『蒙古襲来と神風』(服部英雄著)を読んで」

近頃、歴史上「実は…ではなかった」風な書冊があちらこちらで見受けられる。

本書はそういった奇抜さはなく、淡々と手抜かりなく書き進められている。171105_184

爾来「神のおかげで勝った。それは嵐だ。神風だ」となっていくのは、世俗の無邪気な意識の変移に過ぎないと断定している。


1回目の文永の役(1274)の時、頃は11月。台風はなかったが玄界灘は大荒れになる。そのため蒙古軍は 7日間で撤退している。

2回目の弘安の役(1281)では確かに台風は来た。蒙古側は前回を教訓として周到に準備し、ルートも「東路軍」「江南軍」等に分けるなどしたが、それだけ勢力は分断され又連携の拙さもあった。そこへ台風の襲来があり鷹島沖で手痛い打撃を受けた。老朽船への過剰積載、鎌倉武士の奮闘もあり、しぼんでしまった。


規模の面では、船900艘~3,000艘。人数も4万人~16万人と隔たりが大きいが、その辺は歴史の大らかさとして飲み込んでいる。

蒙古襲来は南宋(1127年~1279)末期のことであり、日本は北宋(960年~1127)・南宋を通じ300年間の交流があり、元王朝は夷戎外藩の一つ位にしか考えていなかった。Photo (写真右:竹崎季長と蒙古兵)


元々中国では火薬の原料となる硝石は産出するが、火山がほとんどないため「硫黄」がとれない。片や火山国の日本には「硫黄」はふんだんにあり、木材と共に宋への重要な輸出品であった。(火薬はルネッサンス三大発明の一つといわれているが、すでに中国では使われており、それがヨーロッパへ伝えられたのにすぎない)

宋は元にとって最大の敵国であり、その宋へ軍事物資を提供している日本は「敵の味方は敵」であった。無論、元も日本の硫黄を欲しがった。

蒙古襲来は物資戦争であった。


著者は考証のため「蒙古襲来絵詞」を入念に分析している。

この絵詞、700年前につくられ世界にも例をみない合戦絵巻である。

「竹崎(藤原)季長」という合戦に参加した地方御家人が自ら指揮して絵師に描かせた。しかしただの一御家人が、どうやってこの桁違いに高価なものを発注出来たのか。(絵具の一つ群青は金よりも高価とされた)

この「竹崎季長」出自は長門とも肥後とも云われている。海洋性を特色としており、交易(硫黄・木材等)で財を得たのではないかと著者は推察している。

台風は吹いた。蒙古船は確かに沈んだ。だが日本船も沈んだ。日本国土はひどい被害に遭った。692 (写真右:出陣する竹崎季長)


九州武士は生命を賭して敵と戦い、薄氷の勝利を得た。辛勝だった。

彼ら当事者には「神風」という感覚はなかった。

絵詞に「神風」という言葉が一言も出ていないように。

 

 

 

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