2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト

« 《栗岡健治の談話室Ⅵ》「和歌山・大阪の旅~雑賀衆を訪ねて」 | トップページ | 《栗岡健治の談話室Ⅶ》「池波正太郎のフランス旅行について」 »

2018年4月 8日 (日曜日)

《大澤有信の談話室Ⅱ》「『蒙古襲来と神風』(服部英雄著)を読んで」

近頃、歴史上「実は…ではなかった」風な書冊があちらこちらで見受けられる。

本書はそういった奇抜さはなく、淡々と手抜かりなく書き進められている。171105_184

爾来「神のおかげで勝った。それは嵐だ。神風だ」となっていくのは、世俗の無邪気な意識の変移に過ぎないと断定している。


1回目の文永の役(1274)の時、頃は11月。台風はなかったが玄界灘は大荒れになる。そのため蒙古軍は 7日間で撤退している。

2回目の弘安の役(1281)では確かに台風は来た。蒙古側は前回を教訓として周到に準備し、ルートも「東路軍」「江南軍」等に分けるなどしたが、それだけ勢力は分断され又連携の拙さもあった。そこへ台風の襲来があり鷹島沖で手痛い打撃を受けた。老朽船への過剰積載、鎌倉武士の奮闘もあり、しぼんでしまった。


規模の面では、船900艘~3,000艘。人数も4万人~16万人と隔たりが大きいが、その辺は歴史の大らかさとして飲み込んでいる。

蒙古襲来は南宋(1127年~1279)末期のことであり、日本は北宋(960年~1127)・南宋を通じ300年間の交流があり、元王朝は夷戎外藩の一つ位にしか考えていなかった。Photo (写真右:竹崎季長と蒙古兵)


元々中国では火薬の原料となる硝石は産出するが、火山がほとんどないため「硫黄」がとれない。片や火山国の日本には「硫黄」はふんだんにあり、木材と共に宋への重要な輸出品であった。(火薬はルネッサンス三大発明の一つといわれているが、すでに中国では使われており、それがヨーロッパへ伝えられたのにすぎない)

宋は元にとって最大の敵国であり、その宋へ軍事物資を提供している日本は「敵の味方は敵」であった。無論、元も日本の硫黄を欲しがった。

蒙古襲来は物資戦争であった。


著者は考証のため「蒙古襲来絵詞」を入念に分析している。

この絵詞、700年前につくられ世界にも例をみない合戦絵巻である。

「竹崎(藤原)季長」という合戦に参加した地方御家人が自ら指揮して絵師に描かせた。しかしただの一御家人が、どうやってこの桁違いに高価なものを発注出来たのか。(絵具の一つ群青は金よりも高価とされた)

この「竹崎季長」出自は長門とも肥後とも云われている。海洋性を特色としており、交易(硫黄・木材等)で財を得たのではないかと著者は推察している。

台風は吹いた。蒙古船は確かに沈んだ。だが日本船も沈んだ。日本国土はひどい被害に遭った。692 (写真右:出陣する竹崎季長)


九州武士は生命を賭して敵と戦い、薄氷の勝利を得た。辛勝だった。

彼ら当事者には「神風」という感覚はなかった。

絵詞に「神風」という言葉が一言も出ていないように。

 

 

 

« 《栗岡健治の談話室Ⅵ》「和歌山・大阪の旅~雑賀衆を訪ねて」 | トップページ | 《栗岡健治の談話室Ⅶ》「池波正太郎のフランス旅行について」 »

コメント

大澤さん
元寇のUPお疲れさまです。
楽しく読ませて頂きました。

北条時宗は元寇を2度も退け、日本の国難を救った英雄だ。少なくとも子供の頃は、そう信じていた。
司馬遼太郎の小説をだいたい読んだかなぁと思った20代半ばくらいか本屋で見つけた北条時宗というタイトルの本を読んだ。著者は覚えていません(笑)
さて元寇が来るとなっても時宗は鎌倉から出発しない。
時宗は悩む。指示は出しているようだ。そして悩む。
そうして2度の元寇を退けた時宗は神経を擦りへらせて亡くなりました。
という内容だったと記憶している。
子供の頃の英雄は何だったのだろう。結果はどうであれ歴史小説は大将が強い方が面白い(笑)
*
硫黄の事は知りませんでした。
勉強になりました。硫黄を上手く使えば逆に日本がアジアで覇権を取れたかもと考えるとワクワクします。

湯川

栗岡です。

《大澤有信の談話室Ⅱ》読ませていただきました。ありがとうございました。

元寇の「神風」を考察した本とは面白そうですね。読んでみます。

未曽有の国難「元寇」。先方の「元」フビライは、3度目の日本侵攻を準備中だったとか。

2度吹いた「神風」のことは、眉に唾して考えていましたが・・・

『九州武士は生命を賭して敵と戦い、薄氷の勝利を得た。』当事者は神風など信じないでしょう。外寇なので、撃退しても論功行賞もない。竹崎季長の憤懣は理解できる。


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 《栗岡健治の談話室Ⅵ》「和歌山・大阪の旅~雑賀衆を訪ねて」 | トップページ | 《栗岡健治の談話室Ⅶ》「池波正太郎のフランス旅行について」 »