2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト

« 2018年4月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年6月

2018年6月26日 (火曜日)

《栗岡健治の談話室Ⅸ》フランスの国民食クスクスのこと

この『栗岡健治の談話室』の投稿に、司馬遼太郎に関わること、そして歴史であることというタガをはめると話題が枯渇してしまう。これすなわち私に司馬遼太郎に関する話題が乏しい所為なのである。150208333
今回の話題について、何を血迷ったかと言われそうだがともかく進めてみよう。

明らかなことは、司馬遼太郎とまったく関係なくなってしまったということ。もっとも既にワイン、シャンソンで、こじつけは措いても司馬とは決別している。これをフランス料理として、フランスの話題3部作のひとつと思っていただければ幸いだ。何しろフランスの国民食なのだ。そしてクスクスにも歴史はある。だが、素人なので文化人類学的考察はしない。私と家族のクスクスとの出会いと長い付き合いもすでに歴史だ。

クスクスとは何か
さて、タイトルのクスクス 驚かれたであろう。ご存じない方が大半ではないだろうか?ただ日本でもかなり認知されてきたと言える。
そしてタジン鍋の流行は終わったようだが、実はクスクスと同じ地域の料理なのだ。
若い世代にはエスニック料理は好んで受け入れられている。その一環でクスクスの認知度もかなり上がったようだ。

Wikipedia
から引くとクスクスとは≪小麦粉から作る粒状の粉食、またその食材を利用して作る料理である。発祥地の北アフリカ(マグリブ近辺)から中東にかけての地域と、それらの地域から伝わったフランス、イタリアなどのヨーロッパ、およびブラジルなど世界の広い地域で食べられている。≫とこうなる。小さい顆粒なので世界最小のパスタとも言われる。硬質のデューラム小麦から作られる。ここまではクスクスの粉(スムールsemoule)のこと。
(写真はいろいろなクスクス)
Photo_2Photo_4

クスクスの材料や調理の仕方

クスクスの粉を利用したサラダも人気だが、炊いたクスクス(粉、スムール)に、肉(鶏肉、牛肉)・野菜スープをかけて食べるのが基本だ。なお、魚介類を使ったクスクスもシチリアなどにはあるという。
トマトベースのスープに、ニンジン、カブ、キュウリ、ズッキーニ、タマネギ、カボチャ、キャベツなどの野菜が用いられる。またソラマメやグリーンピース、ヒヨコマメも用いられる。先の小麦粉からできたスムールを炊いたものにスープをたっぷりかけて食する。
スープを煮ながらその蒸気でクスクスを蒸す(炊く)クスクシエ(couscoussier)という食器がある。その昔、私の記憶にある「ご飯蒸し」のごときものだ。

家内の持論は≪クスクスは完全食≫ 更に、いかようにも豪華で贅沢なものにもできる。添えるものに、鉄串にして焼いた牛肉、羊肉、メルゲース(羊肉ソーセージ)などがありこうしたものをクスクス・ロワイヤルという。豪華クスクスとでも贅沢尽くしのクスクスとでも言おうか?

武蔵境の精肉店ムラカミに、以前ほど頻繁ではないが、買い出しに遠征する。最近ハム・ソーセージのコーナーに新商品として、メルゲースがあった。次回はこれを買ってみよう。
Photo_5Photo_13

我がクスクスの思い出
私が、初めて食べたのは、1978年フランス語を習うべく滞在していたフランスはVichyというところである。
ある日フランス語の女性教師が、我々生徒に『○日の昼食は、皆でクスクスを一緒に食べましょう』と提案した。当日は下宿の昼食をキャンセルして参加した。レストランの店主はチュニジアかアルジェリア系だった。日本人で、クスクスを食べたことがある者が一緒に参加し、『あんなものちっとも旨くないしアフリカの食い物だぞ!稗か粟のようなものを食うんだ!』とあらかじめ私に吹き込んだが、私の第一印象は悪くなかった。結構いけるものだと思った。北アフリカなどと言わず、使う野菜を考えれば地中海料理とおもえばいい。稗や粟は間違いだ。世界最小パスタと言われている。これで結構おしゃれな感じになる。ただ野菜の切り方は大きめでゴロゴロして野趣豊かな感じがする。

そして
1984年、勤務で再びフランスに住んだ時には、パリ15区のアパルトマンの近くにクスクスのレストランがあり家族でよく通った。いつしか家族は、私抜きでもよく行くようになった。店主はアルジェリア系だった。家族を初めて連れて行ったとき、家内は炊いたクスクスの代わりにご飯であればいいのにと言った。カレーライスの連想だろう。その後しばしば通ううちにクスクスの虜になった。
この店に、大きな鍋を持ってきて持ち帰り用のスープを購入している客をしばしば見たが、日本的というか気取りのない下町情景さながらであった。
それにしても日本では、舶来(こんな言葉を使う自分は余程の昔気質の人間?)の食材が容易に手に入るようになったものだ。何しろフランス・パンつまりバゲットだって美味しくなり、普通のパン屋で買えるようになった。

Couscous
は、北アフリカ起源。出張の折、アルジェやチュニスでも食べた。チュニスではスークの中だった。“おもてなし”なのか特別たっぷりの量を供してくれた。満腹になり、量が多いことをtrop(直截にただ多すぎると聞こえるのか?)と言ってしまったが、ぶしつけな語感があるのだろう。copieuxと言いなさいと訂正された。「たっぷりした、豊富な」という意味だが、こんな時使うにふさわしい典雅さがあるのかもしれない。フランス語が完全に染み込んだ社会で育った人と、四苦八苦習い覚えた者との違いだろう。忘れられない思い出だ。

アラブ世界は禁酒であるが、私が外国人だからか美味しいワインを食中に飲めた。ワインはチュニジアでもアルジェリアでも生産する。おそらく植民者が残したものだろう。クスクスにぴったり合うコクのあるワインだった。これを思ってもクスクスに限っては単に地中海の北岸・南岸と思えばいいのにと思った。


なお、当時のことだが、アルジェリアでは、総合商社やエンジニアリング会社などに働く日本人駐在員(家族も)も多く、クスクスなど思い出したくもないと嫌いになる人が多いと聞いた。他のフランス料理に恵まれず、専らクスクスで嫌になったのかな?と考える。


私のパリ在住は
2年間と短かった。そのままロンドンに転勤し4年を過ごした。滞在初期であったが、ある時、都心の日本人学校補習校から北のフィンチレーの自宅へ車で帰る途中、信号待ちにふと横を見るとAuthentic French Cuisine Couscous(正統クスクス)の案内を見つけた。これでロンドンでもクスクスを食べられると驚喜した。

その後この店に通ったことは言うまでもない。店主は、母がイタリア人、父がチュニジア人で、伊仏英語(きっとマグレブのアラビア語も)をよくする人だった。バブル期でもあり、日本人が日本進出の話を持ち掛け、出張視察などしていたようだがその後を知らない。


それからパリでは、クスクスのあとに子供たちはカラフルで甘いアラブ菓子をよく食べた。コーヒーよりミントティーをよく飲んだ。給仕の男性がパフォーマンスよろしく高く持ち上げたティーポットから手に持ったガラスのコップに注ぐ。我が幼子たちは拍手をして喜んでいた。
Photo_14 Photo_15

我が家のクスクス
今では、親しんだクスクスを日本で作るのはそれほど困難ではない。野菜も、ズッキーニ、赤や黄のカラー・ピーマンなどもごく身近なものになった。日本のカブは柔らかくて煮くずれるが、あちらのカブはnavetといって煮くずれない。こればかりはどうにもならない。乾燥ひよこ豆(ガルバンゾ―)も水で戻して使う。

我が家では、子供たちにとってクスクスは御袋の味のひとつになっている。

2011
10月 短期間再訪したパリ。マレー地区のモロッコ・レストランl'Arganierで、家内が『ここの味は、私が作るクスクスの味そっくりだ』と声を挙げた。まあその通りだった。東京にいくつかクスクスを出すレストランがあるが、家内の作品も遜色ないだろう。

スムール(粉)の方は、クスクシエもないので、蒸気で蒸すようなことはしない。粉を鍋かフライパンに取り、水を加え、少しバターを加えて熱すればできる。干し葡萄を入れると本格的なものになる。
味については美味しいのひとこと。
それから、エスニックとはいえ刺激的な辛さは全くない。ただ好みで、ハリッサ(harissa)という唐辛子ベースの香辛料を辛さを調整しながら使えばいい。

(写真右)東京のチュニジア大使館でのレセプションPhoto

2018年6月 6日 (水曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅷ≫「湖西のみち」をたどり『街道をゆく』を考えてみた

私にとっても「湖西のみち」は格別だ

『街道をゆく』の記念すべき最初の街道は「湖西のみち」であった。最初にこれを読んだ時の印象は深い。
歴史的、文化的、言語学的、人類学的な考察をずいぶん織り込んでいるなあと驚いた。この面の話が発展して、同行の編集部のH氏に「これでも紀行文でしょうか」と苦情をいわれそうだとも書いている。

司馬遼太郎らが訪ねたのは、まず琵琶湖の漁港「北小松」だが、私には琵琶湖に漁港があるのか?と新鮮な驚きであった。「白鬚神社」も変わった名前で、きっと何か珍しい縁起があるのだろうとは思った。「安曇川」も“あど”とはなかなか読めない。「湖西」ですら、“こせい”なのか“こさい”なのか分からなかった。これについても司馬は、小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないかと想像をめぐらしている。古代の種族「安曇人」にも思いを寄せている。

「朽木渓谷」は、歴史的に興味深いところだ。織田信長が越前金ヶ崎城に朝倉氏を攻めた時、義弟の浅井長政に背かれ、浅井・朝倉に挟まれて袋のネズミとなった。朽木は、信長が急遽逃れた先として有名で、朽木氏に助けられる。これを手配したのが、後年には織田信長に反旗を翻す松永弾正だ。901

朽木には、将軍足利義晴も隠れて住んだところで、「興聖寺」には「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」を残している。司馬遼太郎は、当会の重森貝崙氏のお父上である重森三玲のことを書いている。(写真右:興聖寺)

(興聖寺の老婦人)「このお庭はそのころからのもので、木の根で石がすこし傾いたぐらいで、なにもかももとのままやそうでございます。―京都の重森三玲先生も」と、高名な造庭家の名がでた。

「このお庭ばかりは飽きがこないとおっしゃいまして、毎年一度はお見えになっておりましたが、このごろはお齢を召されて、もうそんなにお気楽にはお見えになりません」

 こんな次第で『街道をゆく』の記念すべき第一回「湖西のみち」にはかねてから行きたいと考えていた。

滋賀県の諸“街道”

最近、滋賀県の“街道s”を旅した。

司馬遼太郎が、「近江というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである」と書いているように、滋賀県には“街道”が多い。「近江散歩」「北国街道とその脇街道」「湖西のみち」「叡山の諸道」「甲賀と伊賀のみち」がある。そして「甲賀と伊賀のみち」をはじめとして隣県に跨る“街道”が多い。932

また1街道にはなっていないが「蒲生野みち」とでもいうべきミニ街道がある。近江の蒲生郡、神崎郡には、百済の渡来人文化ゆかりの遺産が残っている。

「韓のくに紀行」の最終数章では、百済からの亡命者・鬼室集斯の墓を祭ったといわれる鬼室神社や古代扶余の「百済塔(ぺくちぇたぶ)」に酷似した石塔三重塔(写真右)をもつ石塔寺を司馬が訪ねたと書かれている。白洲正子もこの塔のことを「日本一の石造」と絶賛したという。私も、今回石塔寺を訪ねた。

なお、「近江散歩」は以前訪ねたことがある。柏原宿のもぐさ屋や国友村の天文13年創業の鉄砲火薬商≪国友源重郎商店≫を訪ねたのが懐かしい。

今回、気象等の理由で、当初の旅程を変更したが、加除のうちの「除」で大きいのは、「北国街道とその脇街道」である。この街道の滋賀県内部分かあるいは福井県に入ってすぐのところまで旅する予定であったが断念した。

なお、「湖西のみち」以外の街道旅のことは、いずれ「司馬遼太郎を語る会」の機関誌『たいまつ』にでも書く機会があると思う。

実見した様子

北小松

小集落があり、湖心側は短い突堤に囲われて小さな港になっている。(写真右)876

「湖西のみち」に漁師と稼働舟の数についてのやりとりがあって、問うた司馬に漁師が「戦前は38ハイも動いていたがなあ」という。「それが去年は7ハイや」と、さびしげである。

「ことしは?」 

 「それがあんた」憎むような目差しで司馬をみて、「5ハイになってしもうた」といった。

わたしには、漁港としての業況・現況は、見当も付かない。

釣り人が数人いた。漁網を洗う機械が据え付けてあった。

白鬚神社

全国にある白鬚神社のおおもとという。

琵琶湖水中に立つ大鳥居の写真を見て以前から魅かれて、訪ねてみたかった。(写真右)750

安曇川

この川に沿って、山中車を走らせて朽木に至った。きらきら水が光って、川の中には大きい石がゴロゴロ見えた。旧秀隣寺庭園の話にあるのはこのことかと思った。すなわち「室町貴族のぜいたくというのは、庭石を諸国から曳いてくることだったそうだが、流寓の将軍としては寺の前の川から石をひきあげさせるのが精いっぱい、この世でやれる贅沢だったのであろう。」

朽木渓谷

その「興聖寺」を訪ねる。

興聖寺は、曹洞宗の開祖、道元禅師がこのあたりを訪れたとき、風光明媚な様子が宇治の興聖寺に似ていると感激して、領主の朽木氏にこの地に寺を創建することを勧めたのが始まりといわれる。(写真右:興聖寺から前の川を望む)997

興聖寺

足利将軍の第12代、義晴(151150)が、ほとんど身一つで京を逃げだしてこの朽木谷に身をひそめたというが、その潜居の場所がこの寺だった。

受付けもなく、本尊も拝めず庭(足利庭園)だけを見させてもらった。

旧秀隣寺庭園(足利庭園)

初回に司馬が訪ねたとき、村の人が、くぼう様のお庭です、と教えてくれたとある。(写真右:足利義晴の庭園)943

『街道をゆく』の考察―私なりに考えた

・第一回の街道たる「湖西のみち」は、日帰の取材旅であったように私には思えるのだがどうであろうか。この時、司馬も先々25年も続くとは思っていなかったであろう。中断の危機もあったと聞く。

・取材のスタイルは、第一回から司馬のペースで固まったのではないだろうか?

前記の通り、歴史的、文化的、言語学的、人類学的な考察を織り込むスタイルはその後もずっと続く。

・同行の挿絵画家は3代変わったが、須田剋太氏が20年と最も長く司馬と旅をした。「湖西のみち」は、二人にとって最初の共同作業だ。この旅以降も、須田剋太氏は、よく司馬の姿を描いている。いっぽう司馬も、折に触れ須田剋太氏のことを文中で書いている。多くは、須田のユニークさの描写だが・・・

・同行者の数も、街道にもよるのだろうが、徐々に人数が増え大デレゲーションもあったように聞く。だから、夜は司馬を囲んで酒席が連夜あったようだ。3代目の挿絵担当画家の安野光雅氏にとって、これが、というのは酒ということではなく、座談のうまい司馬ワールド―安野氏いわく司馬曼荼羅―がとても楽しかったようだ。Photo

・また、集大成は、4372街道だが、巻1には、「湖西のみち」、「甲州街道」、「葛城みち」「長州路」の街道が収まる。比較的短い時間の取材旅で各作品も短いからだろう。先々にもこうした複数の街道が収録される巻がある。いっぽう海外の街道に多いが国内でも、「本郷界隈」「オホーツク街道」「北のまほろば」「三浦半島記」などは、単一街道にして大部なものとなっている。

« 2018年4月 | トップページ | 2018年8月 »