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2018年8月

2018年8月30日 (木曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅹ≫司馬遼太郎作品で『語学考』

はじめに
『栗岡健治の談話室』の最終回である。とりあえずはこれで筆をおくことにする。ここ数回はテーマ探しに難儀したが、最後に再び司馬遼太郎にふさわしい―と自賛するが―テーマで終わることができ嬉しい。
本当は映画の話にしたかった。140608_976
これからの人生というと大袈裟だが、まあこれからの生活でもいい。映画を一つの柱にしようと思い、実践し集中的に観始めたが、映画の話を書くとなるとまだ知識・経験不足で、いまだその資格はなさそうだ。
ところで、池波正太郎に『あるシネマディクトの旅』というエッセイがありこのコーナーで紹介した。
「シネマディクト」とは、随分気障な言葉に思えて、池波正太郎の造語かと思ったが、ふと気づいた。addictとは、(麻薬などの)常用者、中毒者である。a drug addict 麻薬中毒者、an opera addict 大のオペラファンとあるから、シネマディクトは、cinema addict ヘヴィーな映画愛好者ということになる。仏語のエリジオン(仏:élision)みたいなもので、シネマ・アディクトのアが無くなったものだから最初は何のこと?と思ったのだ。あれっ?でもこうした分析・考察は、このテーマ『語学考』にふさわしくないだろうか?
それはさて置き、生涯映画を何本観たか分からないほどの池波の顰に倣って入門者の私が駄文を書くわけにはいかないとなったのだ。

司馬遼太郎と外国語
・広く知られたことだが、司馬遼太郎は、大阪外国語学校で蒙古語を専攻。同校はいま国立大学法人大阪大学の外国語学部である。大阪大学は、202151日(土)に創立90周年を迎えるが、2007年に統合した大阪外国語大学は、同年に創立100周年を迎える。
司馬は、母校のことを「大阪外国語大学入学者用大学案内」に書いている。昭和6210月のことだ。当然母校から依頼があったのだろう。こうある。『身辺で、大阪外国語大学に入ったひとに出会ったりすると、「いい大学に入ったな」と、心から祝うのである。』タイトルは「四海への知的興奮」であり、続いて『そこで学ぶ学問は、生涯そのひとを愉しませつづけるはずだということを、私は知っている。』
・栗岡が、19904月にロンドン勤務を終えて、英国を離れる直前に司馬遼太郎の講演があり聴いた。1990410日於ロンドン大学ローガンホール『義務について』
探すと、『司馬遼太郎全講演〔4〕』に収録されているが、読んでみてもこんな内容だったのか?と記憶が定かでない。ただ笑いをとっていたのが『大阪外国語大学でモンゴル語を習った。ロシア語、中国語も同時に学ばされたので、混乱してしまった。』
これと同様な記述を見つけた。『司馬遼太郎が考えたこと2』の「わが辞書遍歴」に『当時、その語科では、蒙古語だけでなく、シナ語とロシア語をも教えてくれたのだが、このほうも、シナ語は辞書を持ちはしたが、ロシア語はもたなかった。ロシア語など、十数年をかけてもものになりそうもない言葉を、週に数時間の授業でおぼえられるはずがない、とはじめからあきらめてしまったのである』
・昭和23年、勤務先新聞がつぶれたも同然になっていたころ、サンケイ新聞から誘われたが、英語通訳という名目で採用された。「君は蒙古語が専攻だが、外国語学校の出だから英語ぐらいはしゃべれるだろう」入りたさの一心で『まあやれます』といっておいたが、英語などすっかりわすれていて(いくらなんでも辞書ぐらいは必要だろう)と思った。案外安く買えたが、帰宅して開くとドイツ語の辞書だったという。ばかばかしくなって英語に買い替えもせず、本棚にほうりあげたが、この随筆執筆時にも本棚の隅に、小憎たらしくころがっている。とある。
・英語通訳担当の司馬の出番があって、GHQ京都によびだされて、米兵の「本願寺は悪人こそ天国にゆけると鼓吹しているようだが、ほんとうか」に始まる問答があった。結局、右のことは、コンニャク問答におわったと『街道をゆく』の「大徳寺散歩」にありとても面白い。
・司馬は、モンゴル語の容易さを随所で書いている。日本語とそっくりの膠着語で上から下まで、でんぐりがえらずにずんべらぼうである。(鹿児島弁や東北弁をまねるつもりでやればいいじゃないか)と思い、たかをくくってやってみると、半年ばかりで日常会話にこと欠かないようになった。と489
・『街道をゆく』「モンゴル紀行」では、夫人がホテルで、水を希望し、司馬が考え考え・記憶を取り戻し、これだというのを夫人に教える。これが全く通じないどころか大騒ぎになってしまった。そこで、夫人が日本語で『ミズ!』というと「あぁ水か!水」と皆が解ってくれたとある。

司馬遼太郎が褒めたスマートな外国語達人
友田 錫(せき)フランス語 
友田氏は、産経新聞でサイゴン、パリ特派員、論説委員。その後、アジア大学教授。国際関係学者。
司馬のベトナム訪問に同行。『人間の集団について~ベトナムから考える~』
「あとがき」に、司馬は『私は、同行者にめぐまれた。』として一人ひとりを簡単に紹介している。友田錫氏のことは、「何度もベトナムへ行った人で、その美しいフランス語はベトナムの古い知識人たちが感心するところであった。」
【その美しいフランス語】褒め言葉としてこれよりうえはなかろう。

林董(ただす)英語 Photo
順天堂の佐藤泰然の実子。松本良順の実弟。日露戦争時に、駐英公使。

伊藤博文が日露協商を目論み、個人プレーで訪露するなど林董にとって伊藤博文は、驚愕のお邪魔虫であったが、林は、日英同盟成立に多大な貢献をする。
若き日、戊辰戦争が勃発したためイギリス留学中の林董は帰国する。経緯あって、林董は、見習いの士官として開陽丸に乗りこむ。
徳川家の処分が決定したのを見届けて、支配下の軍艦とともに品川沖を出帆。脱走の主意書をパークスに送っている。これは榎本武揚と永井玄蕃が起草して、林董が英文に翻訳したものだった。林董は語学力を活かして、外国人との応接文書照会の任にあたったという。パークスらは林董の翻訳英語に、英国人が乗船しているのかと驚いたという。佐倉市順天堂記念館の庭には、石柱に林董のレリーフがある。佐藤泰然の息子たちはみな硬骨漢だ。

榎本武揚 
幕末・明治の幕臣・政治家・子爵。江戸生。オランダに留学後、幕府の海軍副総裁となる。林董とは遠戚にあたる。明治維新の時、五稜郭にたてこもり官軍に抵抗するが、のち許され、駐露公使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結した。以後海軍卿・逓信相・外相等を歴任。明治
41(1908)歿、73才。

司馬遼太郎が描いた語学の天才
弘法大師空海 
空海の乗った遣唐使船が福州の僻遠の地に留められ一行は湿沙の上にいる。正使の藤原葛野麻呂が地方長官閻済美に交渉するも全く埒が明かない。経緯あって懇願されて空海が打開のため文書を作成する。閻済美は驚き、長安の翰林学士でもこれ以上の文章を書けるとは思えず、それが湿沙の上にあって悲歎に暮れている異民族のひとり(=空海)が書いたということを思えば、驚嘆以上のものであったろう。空海は閻済美の声がかりで、かれらの詩文の会にも招待された。ひとびとは空海が一詩を作るごとに息を忘れるようにして歎賞した。Photo_2

空海は会話もできたようだ。(その部分を引用すると)「そういう文藻の伝統の浅い風土からこのまだ童顔をのこす僧が出てきて、唐土の海浜の砂を踏んだ早々に唐音をなめらかにあやつり~」
空海の天才は、なおも続く。「彼はインド僧を教師としてサンスクリット語(梵語)を日本人として最初に学んだ。それを、空海が長安に入ってわずか5か月で習得したというのは、うごかしがたい事実であるように思われるが、しかしそれほどの頭脳が、この世に存在するだろうか。 ~ ~ 空海はあるいはそういう奇蹟をやってのけたかもしれず、あるいは恵果はその筋からも空海の異能をきいていて、「われ、先より汝の来るを待つや久し」と言ったのであろうか。」


司馬凌海 
『胡蝶の夢』に詳しい。司馬凌海(佐渡の島倉伊之助のこと)の異様な語学の才能は、天才なのか病気なのか。(アスペルガー症候群か)アスペルガーと言われる人は社会性に問題があるものの、独自のこだわりを持ち特定の分野では驚くべき才能を発揮する。この才能、司馬凌海は、独・英・蘭・仏・露・中の
6か国語に通じていた。彼の行状をみるに社会性におおいに問題があった。767

井筒俊彦 

Wikipediaに任せるが、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語等の30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。
・司馬遼太郎に、井筒氏追悼文がある。『アラベスク―井筒俊彦氏を悼む』「司馬遼太郎が考えたこと15」一つだけ面白いところを抜き書きする。それでも長くなるが・・・司馬が井筒氏と対談した時の井筒氏発言ということで、
(井筒)若い頃の私には、身のほどを知らぬ大口を叩く悪癖がありまして、「平凡な」、つまりほとんど抵抗のない、英独仏のような近代ヨーロッパ語などは外国語とはどうしても思えないなんて言い散らしていたものでした。要するに言語学的にはあんまり簡単すぎるというわけです。(笑)
(司馬)この(笑)は、私が発した笑いである。私は外国語を専門に教える学校を出たくせに、耳が特別にわるく、習ったことばは音声として聴きとれず、正確に発音することができなかった。文法についても、ロシア語を二年も習いながら、ついに身につかず、このため、「あんまり簡単すぎて」という井筒さんのことばに、わが身をかえりみて大笑いしたのである。
※このあと井筒氏も、『近代語のうちではロシア語の場合には少し抵抗がありましたけれど・・・・・。』といっている。

次に、努力の人を挙げる
大村益次郎、福沢諭吉等々 
言わずと知れた緒方洪庵適塾の門弟、二人とも塾頭経験者。
福沢は、安政6年(1959)開港したばかりの横浜の外国人居留地を見物し、適塾で習得した得意なオランダ語で外国人に話しかけてみたが、全く通じなかった。大きな衝撃をうけ、すぐ英語を習うことにした。住まいの築地鉄砲洲から小石川水道町の幕府外国方の森山多吉郎のところに通った。(『街道をゆく』の「神田界隈」)
大村益次郎は、横浜のヘボン英語塾で学んだ。

大隈重信 
フルベッキに英語を習った。あの英国公使ロッシュも一目置いたと言われるほど英語達者。


明治陸軍大佐の明石元二郎

彼のことは、私は今年12月に、こんな卓話を予定している。『陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について』Photo_3
「対ロシア諜報活動」とあるので、ロシア語が必須といえるが、なんとこの人、ドイツ語、フランス語、ロシア語が出来た人なのだ。英語もできたであろう。
陸軍士官学校での成績。フランス語が、クラス27人中1番の成績だった。陸軍は、幕末の徳川は仏式、明治になって後に独式になるが最初は仏式を踏襲したので、フランス語なのだろう。
ロシア駐在以前の明石の官歴に、ドイツ留学、在仏日本公使館付武官がある。 赴任地ロシアの首都ペテルブルグでの様子。ロシアといえば、いずれ日本と戦火を交えること必定、緊迫した関係にあった。その国都にあって、こんな漢詩を詠んでいる。
  ≪耳を掩(おお)う他家の和戦論
   門を鎖して唯読書の人と作る
   徐(おもむろ)に期す大業晩成の日
   先ず祝す今年四十の春≫Photo_4

時局についての議論から遠ざかり、ひたすらにロシア語を学んだ。
明石は、どの国でも、つまりドイツでもフランスでも語学修行をやり、その国の歴史を冷静な態度で把握するという方法をわすれなかったという。ロシア語を7か月でマスターしたという。その難解さだけを知っている私にとって驚くばかりだ。
明石元二郎には、西洋人コンプレックスというものが無かった。(写真右は欧州駐在時代の明石)

 伊藤博文の英語の実力は怪しい?
幕末には、御殿山で建設中だった英国領事館を焼き討ちをした実行犯の一人。攘夷家転じての留学生。長州ファイブのひとりで留学は短期に終わった。長州の四国艦隊襲撃ニュースを知って、御神酒徳利といわれた井上聞多と急遽帰国した。岩倉使節団にも幹部級で参加している。
英国Times紙を読んだりしていたというが、英語の達人とは聞かない。
日露戦争をやめさせようと単独ロシアに行ったり、お付きのブレーンがいるだろうが、憲法調査にプロシア、オーストリアに赴くなどしている。
伊藤博文というのは、徳川家康とともに司馬作品に最も登場している人物なのでほかにもあると思うが、つまり彼の英語の程度のこと。
『世に棲む日日』では、四ヵ国艦隊襲撃と報復のあとの談判交渉で、伊藤が通訳を務めたというが、「伊藤は、しゃべりはじめた。伊藤の英語はおそろしく粗末で、クーパー司令長官には10パーセントも理解できなかった。」とある。

『語学考』雑感―孫たちのために―
さて、急遽思いついた『語学考』。私の諸語遍歴の跡も開陳しなくてはなるまい。私もそうだが、「司馬遼太郎を語る会」に集う方々の大半は、このテーマにかぎっては、既に「終わった人」なので興味ないかも知れない。もっとも80歳代で、若いころに超長期の米国勤務経験をお持ちの大先輩もおられるので独りよがりは慎むが、でも、待った!終わらなくてもよい。
お孫さんにアドバイスすることを思えば、役に立つかもしれない。もっとも孫の教育アドバイスはその両親つまり子供とその嫁や婿経由でないとまずいが・・・
その子にとって長い付き合いになる筈の外国語。たいていは英語だが、学習初期に挫折して、一生英語はおろか外国語嫌いになる愚は避けたいものだ。
リタイアして世事に疎いが「小学3年生からの英語必修化」「小学5年生からの英語教科化」が2020年度に完全実施されるという。移行期間を考えて、学校によっては2018年度から段階的に実施しているようだ。

孫たちには、挫折しないで英語を好きになってほしい。嫌いが重症になると大変だ。高校時代の学友に英語のテキストを見ると頭痛がすると言う者がいた。大学予備門の正岡子規も『あしゃ、どうにも英語がでけぬ』『あしのような者は予備門で一人じゃ』と嘆いた。


次に、第二(第三)外語の選択は、賢明にした方がいい。間違わないように、アドバイスして欲しい。過去には、良好な(そちらに向かう)日中関係を反映して中国語ブームがあった。専攻者数の異常な高まりのことだ。むろん法律専攻で仏独語から選ぶことになっているケースもあろう。理系でロシア語ということがあるのかどうか知らない。

多少できると楽しくなることを教えたいものだ。外国旅行、出張、駐在生活(いまは、駐在も中国、アジアが大半か?)。 

私が習った外国語と戯れにかじった外国語
・さて、最後に、私が、習った外国語は、英語、ロシア語、フランス語(順はこれで正しい。ロシア語が第二外語、仏語が第三外語)だが、英語、フランス語以外は何も残っていない。Photo_5
英語は、英検1級と通訳案内士登録している。フランス語は、公的にレベルを証するものがない。昔、仏検2級の一次合格、二次不合格であったが、直後に香港赴任になったりしてそのままになってしまった。二次の面接で仏人に『香港ですか?フランス語を習う理想的な環境ではないですねぇ!』といわれた。
ロシア語は、司馬ではないが、難しい。それゆえ明石元二郎の偉さが分かる。
 ・以下のことは、結局、残滓といえるものさえなく恥ずかしいが、必要もないのに少しばかりかじった外国語に、ドイツ語、中国語、韓国語がある。
・ドイツ語は、その昔、NHKテレビのドイツ語講座を視ていて、故早川東三先生が、こんなことを言っておられて驚いた。『フランス語も楽しいですよ!ぜひ習ってください』ドイツ語講座なのに!そうか、独仏語は両方学ぶと面白いのか!
・中国語は、この隣国との関係には変遷があって、中国語ブームがあった。やはり言葉は知っていたら面白そうだ。基本はNHKテレビ、ラジオで始めたが、香港駐在時には、早朝に事務所に家庭教師を呼んで習った。ローカルは、英語と広東語だが、中国返還が近づく頃で北京語(普通話)を習う人が増えた時期であった。
・韓国語は、ハングルというあの不思議なアルファベット、あの仕組みが分からないと落ち着かないので齧ってみた。ハングルの仕組みが分かって渇きが癒えた。NHK講座と少しの通学講座。

 なお、私は(とことん実践したわけではないが)NHK語学講座の価値を認める信奉者である。金がかからないし、今は聞き逃しサービスもある。まじめについていけばこれほどのツールは無い。ただ無いものねだりだが、昔のラジオ講座は実質本位でよかった。仏語の場合、故朝倉季雄先生が、徹底して繰り返し練習をさせる。確か入門編12ヵ月放送の最後に『一年間、一言も無駄口、冗談の無い講座でした。』と言っていたのが記憶に残る。Photo_6
いろいろ意見はあろうが、いつのころからかテレビ講座も含めひたすら楽しく学習者に阿るようになった気がする。
・それから語学学習に便利な世になった。インターネットラジオで、F2(フランス・ドゥ、アンテヌ・ドゥ?)のニュースも聞ける。もちろんBBC放送も。

 

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