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2018年8月30日 (木曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅹ≫司馬遼太郎作品で『語学考』

はじめに
『栗岡健治の談話室』の最終回である。とりあえずはこれで筆をおくことにする。ここ数回はテーマ探しに難儀したが、最後に再び司馬遼太郎にふさわしい―と自賛するが―テーマで終わることができ嬉しい。
本当は映画の話にしたかった。140608_976
これからの人生というと大袈裟だが、まあこれからの生活でもいい。映画を一つの柱にしようと思い、実践し集中的に観始めたが、映画の話を書くとなるとまだ知識・経験不足で、いまだその資格はなさそうだ。
ところで、池波正太郎に『あるシネマディクトの旅』というエッセイがありこのコーナーで紹介した。
「シネマディクト」とは、随分気障な言葉に思えて、池波正太郎の造語かと思ったが、ふと気づいた。addictとは、(麻薬などの)常用者、中毒者である。a drug addict 麻薬中毒者、an opera addict 大のオペラファンとあるから、シネマディクトは、cinema addict ヘヴィーな映画愛好者ということになる。仏語のエリジオン(仏:élision)みたいなもので、シネマ・アディクトのアが無くなったものだから最初は何のこと?と思ったのだ。あれっ?でもこうした分析・考察は、このテーマ『語学考』にふさわしくないだろうか?
それはさて置き、生涯映画を何本観たか分からないほどの池波の顰に倣って入門者の私が駄文を書くわけにはいかないとなったのだ。

司馬遼太郎と外国語
・広く知られたことだが、司馬遼太郎は、大阪外国語学校で蒙古語を専攻。同校はいま国立大学法人大阪大学の外国語学部である。大阪大学は、202151日(土)に創立90周年を迎えるが、2007年に統合した大阪外国語大学は、同年に創立100周年を迎える。
司馬は、母校のことを「大阪外国語大学入学者用大学案内」に書いている。昭和6210月のことだ。当然母校から依頼があったのだろう。こうある。『身辺で、大阪外国語大学に入ったひとに出会ったりすると、「いい大学に入ったな」と、心から祝うのである。』タイトルは「四海への知的興奮」であり、続いて『そこで学ぶ学問は、生涯そのひとを愉しませつづけるはずだということを、私は知っている。』
・栗岡が、19904月にロンドン勤務を終えて、英国を離れる直前に司馬遼太郎の講演があり聴いた。1990410日於ロンドン大学ローガンホール『義務について』
探すと、『司馬遼太郎全講演〔4〕』に収録されているが、読んでみてもこんな内容だったのか?と記憶が定かでない。ただ笑いをとっていたのが『大阪外国語大学でモンゴル語を習った。ロシア語、中国語も同時に学ばされたので、混乱してしまった。』
これと同様な記述を見つけた。『司馬遼太郎が考えたこと2』の「わが辞書遍歴」に『当時、その語科では、蒙古語だけでなく、シナ語とロシア語をも教えてくれたのだが、このほうも、シナ語は辞書を持ちはしたが、ロシア語はもたなかった。ロシア語など、十数年をかけてもものになりそうもない言葉を、週に数時間の授業でおぼえられるはずがない、とはじめからあきらめてしまったのである』
・昭和23年、勤務先新聞がつぶれたも同然になっていたころ、サンケイ新聞から誘われたが、英語通訳という名目で採用された。「君は蒙古語が専攻だが、外国語学校の出だから英語ぐらいはしゃべれるだろう」入りたさの一心で『まあやれます』といっておいたが、英語などすっかりわすれていて(いくらなんでも辞書ぐらいは必要だろう)と思った。案外安く買えたが、帰宅して開くとドイツ語の辞書だったという。ばかばかしくなって英語に買い替えもせず、本棚にほうりあげたが、この随筆執筆時にも本棚の隅に、小憎たらしくころがっている。とある。
・英語通訳担当の司馬の出番があって、GHQ京都によびだされて、米兵の「本願寺は悪人こそ天国にゆけると鼓吹しているようだが、ほんとうか」に始まる問答があった。結局、右のことは、コンニャク問答におわったと『街道をゆく』の「大徳寺散歩」にありとても面白い。
・司馬は、モンゴル語の容易さを随所で書いている。日本語とそっくりの膠着語で上から下まで、でんぐりがえらずにずんべらぼうである。(鹿児島弁や東北弁をまねるつもりでやればいいじゃないか)と思い、たかをくくってやってみると、半年ばかりで日常会話にこと欠かないようになった。と489
・『街道をゆく』「モンゴル紀行」では、夫人がホテルで、水を希望し、司馬が考え考え・記憶を取り戻し、これだというのを夫人に教える。これが全く通じないどころか大騒ぎになってしまった。そこで、夫人が日本語で『ミズ!』というと「あぁ水か!水」と皆が解ってくれたとある。

司馬遼太郎が褒めたスマートな外国語達人
友田 錫(せき)フランス語 
友田氏は、産経新聞でサイゴン、パリ特派員、論説委員。その後、アジア大学教授。国際関係学者。
司馬のベトナム訪問に同行。『人間の集団について~ベトナムから考える~』
「あとがき」に、司馬は『私は、同行者にめぐまれた。』として一人ひとりを簡単に紹介している。友田錫氏のことは、「何度もベトナムへ行った人で、その美しいフランス語はベトナムの古い知識人たちが感心するところであった。」
【その美しいフランス語】褒め言葉としてこれよりうえはなかろう。

林董(ただす)英語 Photo
順天堂の佐藤泰然の実子。松本良順の実弟。日露戦争時に、駐英公使。

伊藤博文が日露協商を目論み、個人プレーで訪露するなど林董にとって伊藤博文は、驚愕のお邪魔虫であったが、林は、日英同盟成立に多大な貢献をする。
若き日、戊辰戦争が勃発したためイギリス留学中の林董は帰国する。経緯あって、林董は、見習いの士官として開陽丸に乗りこむ。
徳川家の処分が決定したのを見届けて、支配下の軍艦とともに品川沖を出帆。脱走の主意書をパークスに送っている。これは榎本武揚と永井玄蕃が起草して、林董が英文に翻訳したものだった。林董は語学力を活かして、外国人との応接文書照会の任にあたったという。パークスらは林董の翻訳英語に、英国人が乗船しているのかと驚いたという。佐倉市順天堂記念館の庭には、石柱に林董のレリーフがある。佐藤泰然の息子たちはみな硬骨漢だ。

榎本武揚 
幕末・明治の幕臣・政治家・子爵。江戸生。オランダに留学後、幕府の海軍副総裁となる。林董とは遠戚にあたる。明治維新の時、五稜郭にたてこもり官軍に抵抗するが、のち許され、駐露公使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結した。以後海軍卿・逓信相・外相等を歴任。明治
41(1908)歿、73才。

司馬遼太郎が描いた語学の天才
弘法大師空海 
空海の乗った遣唐使船が福州の僻遠の地に留められ一行は湿沙の上にいる。正使の藤原葛野麻呂が地方長官閻済美に交渉するも全く埒が明かない。経緯あって懇願されて空海が打開のため文書を作成する。閻済美は驚き、長安の翰林学士でもこれ以上の文章を書けるとは思えず、それが湿沙の上にあって悲歎に暮れている異民族のひとり(=空海)が書いたということを思えば、驚嘆以上のものであったろう。空海は閻済美の声がかりで、かれらの詩文の会にも招待された。ひとびとは空海が一詩を作るごとに息を忘れるようにして歎賞した。Photo_2

空海は会話もできたようだ。(その部分を引用すると)「そういう文藻の伝統の浅い風土からこのまだ童顔をのこす僧が出てきて、唐土の海浜の砂を踏んだ早々に唐音をなめらかにあやつり~」
空海の天才は、なおも続く。「彼はインド僧を教師としてサンスクリット語(梵語)を日本人として最初に学んだ。それを、空海が長安に入ってわずか5か月で習得したというのは、うごかしがたい事実であるように思われるが、しかしそれほどの頭脳が、この世に存在するだろうか。 ~ ~ 空海はあるいはそういう奇蹟をやってのけたかもしれず、あるいは恵果はその筋からも空海の異能をきいていて、「われ、先より汝の来るを待つや久し」と言ったのであろうか。」


司馬凌海 
『胡蝶の夢』に詳しい。司馬凌海(佐渡の島倉伊之助のこと)の異様な語学の才能は、天才なのか病気なのか。(アスペルガー症候群か)アスペルガーと言われる人は社会性に問題があるものの、独自のこだわりを持ち特定の分野では驚くべき才能を発揮する。この才能、司馬凌海は、独・英・蘭・仏・露・中の
6か国語に通じていた。彼の行状をみるに社会性におおいに問題があった。767

井筒俊彦 

Wikipediaに任せるが、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語等の30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。
・司馬遼太郎に、井筒氏追悼文がある。『アラベスク―井筒俊彦氏を悼む』「司馬遼太郎が考えたこと15」一つだけ面白いところを抜き書きする。それでも長くなるが・・・司馬が井筒氏と対談した時の井筒氏発言ということで、
(井筒)若い頃の私には、身のほどを知らぬ大口を叩く悪癖がありまして、「平凡な」、つまりほとんど抵抗のない、英独仏のような近代ヨーロッパ語などは外国語とはどうしても思えないなんて言い散らしていたものでした。要するに言語学的にはあんまり簡単すぎるというわけです。(笑)
(司馬)この(笑)は、私が発した笑いである。私は外国語を専門に教える学校を出たくせに、耳が特別にわるく、習ったことばは音声として聴きとれず、正確に発音することができなかった。文法についても、ロシア語を二年も習いながら、ついに身につかず、このため、「あんまり簡単すぎて」という井筒さんのことばに、わが身をかえりみて大笑いしたのである。
※このあと井筒氏も、『近代語のうちではロシア語の場合には少し抵抗がありましたけれど・・・・・。』といっている。

次に、努力の人を挙げる
大村益次郎、福沢諭吉等々 
言わずと知れた緒方洪庵適塾の門弟、二人とも塾頭経験者。
福沢は、安政6年(1959)開港したばかりの横浜の外国人居留地を見物し、適塾で習得した得意なオランダ語で外国人に話しかけてみたが、全く通じなかった。大きな衝撃をうけ、すぐ英語を習うことにした。住まいの築地鉄砲洲から小石川水道町の幕府外国方の森山多吉郎のところに通った。(『街道をゆく』の「神田界隈」)
大村益次郎は、横浜のヘボン英語塾で学んだ。

大隈重信 
フルベッキに英語を習った。あの英国公使ロッシュも一目置いたと言われるほど英語達者。


明治陸軍大佐の明石元二郎

彼のことは、私は今年12月に、こんな卓話を予定している。『陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について』Photo_3
「対ロシア諜報活動」とあるので、ロシア語が必須といえるが、なんとこの人、ドイツ語、フランス語、ロシア語が出来た人なのだ。英語もできたであろう。
陸軍士官学校での成績。フランス語が、クラス27人中1番の成績だった。陸軍は、幕末の徳川は仏式、明治になって後に独式になるが最初は仏式を踏襲したので、フランス語なのだろう。
ロシア駐在以前の明石の官歴に、ドイツ留学、在仏日本公使館付武官がある。 赴任地ロシアの首都ペテルブルグでの様子。ロシアといえば、いずれ日本と戦火を交えること必定、緊迫した関係にあった。その国都にあって、こんな漢詩を詠んでいる。
  ≪耳を掩(おお)う他家の和戦論
   門を鎖して唯読書の人と作る
   徐(おもむろ)に期す大業晩成の日
   先ず祝す今年四十の春≫Photo_4

時局についての議論から遠ざかり、ひたすらにロシア語を学んだ。
明石は、どの国でも、つまりドイツでもフランスでも語学修行をやり、その国の歴史を冷静な態度で把握するという方法をわすれなかったという。ロシア語を7か月でマスターしたという。その難解さだけを知っている私にとって驚くばかりだ。
明石元二郎には、西洋人コンプレックスというものが無かった。(写真右は欧州駐在時代の明石)

 伊藤博文の英語の実力は怪しい?
幕末には、御殿山で建設中だった英国領事館を焼き討ちをした実行犯の一人。攘夷家転じての留学生。長州ファイブのひとりで留学は短期に終わった。長州の四国艦隊襲撃ニュースを知って、御神酒徳利といわれた井上聞多と急遽帰国した。岩倉使節団にも幹部級で参加している。
英国Times紙を読んだりしていたというが、英語の達人とは聞かない。
日露戦争をやめさせようと単独ロシアに行ったり、お付きのブレーンがいるだろうが、憲法調査にプロシア、オーストリアに赴くなどしている。
伊藤博文というのは、徳川家康とともに司馬作品に最も登場している人物なのでほかにもあると思うが、つまり彼の英語の程度のこと。
『世に棲む日日』では、四ヵ国艦隊襲撃と報復のあとの談判交渉で、伊藤が通訳を務めたというが、「伊藤は、しゃべりはじめた。伊藤の英語はおそろしく粗末で、クーパー司令長官には10パーセントも理解できなかった。」とある。

『語学考』雑感―孫たちのために―
さて、急遽思いついた『語学考』。私の諸語遍歴の跡も開陳しなくてはなるまい。私もそうだが、「司馬遼太郎を語る会」に集う方々の大半は、このテーマにかぎっては、既に「終わった人」なので興味ないかも知れない。もっとも80歳代で、若いころに超長期の米国勤務経験をお持ちの大先輩もおられるので独りよがりは慎むが、でも、待った!終わらなくてもよい。
お孫さんにアドバイスすることを思えば、役に立つかもしれない。もっとも孫の教育アドバイスはその両親つまり子供とその嫁や婿経由でないとまずいが・・・
その子にとって長い付き合いになる筈の外国語。たいていは英語だが、学習初期に挫折して、一生英語はおろか外国語嫌いになる愚は避けたいものだ。
リタイアして世事に疎いが「小学3年生からの英語必修化」「小学5年生からの英語教科化」が2020年度に完全実施されるという。移行期間を考えて、学校によっては2018年度から段階的に実施しているようだ。

孫たちには、挫折しないで英語を好きになってほしい。嫌いが重症になると大変だ。高校時代の学友に英語のテキストを見ると頭痛がすると言う者がいた。大学予備門の正岡子規も『あしゃ、どうにも英語がでけぬ』『あしのような者は予備門で一人じゃ』と嘆いた。


次に、第二(第三)外語の選択は、賢明にした方がいい。間違わないように、アドバイスして欲しい。過去には、良好な(そちらに向かう)日中関係を反映して中国語ブームがあった。専攻者数の異常な高まりのことだ。むろん法律専攻で仏独語から選ぶことになっているケースもあろう。理系でロシア語ということがあるのかどうか知らない。

多少できると楽しくなることを教えたいものだ。外国旅行、出張、駐在生活(いまは、駐在も中国、アジアが大半か?)。 

私が習った外国語と戯れにかじった外国語
・さて、最後に、私が、習った外国語は、英語、ロシア語、フランス語(順はこれで正しい。ロシア語が第二外語、仏語が第三外語)だが、英語、フランス語以外は何も残っていない。Photo_5
英語は、英検1級と通訳案内士登録している。フランス語は、公的にレベルを証するものがない。昔、仏検2級の一次合格、二次不合格であったが、直後に香港赴任になったりしてそのままになってしまった。二次の面接で仏人に『香港ですか?フランス語を習う理想的な環境ではないですねぇ!』といわれた。
ロシア語は、司馬ではないが、難しい。それゆえ明石元二郎の偉さが分かる。
 ・以下のことは、結局、残滓といえるものさえなく恥ずかしいが、必要もないのに少しばかりかじった外国語に、ドイツ語、中国語、韓国語がある。
・ドイツ語は、その昔、NHKテレビのドイツ語講座を視ていて、故早川東三先生が、こんなことを言っておられて驚いた。『フランス語も楽しいですよ!ぜひ習ってください』ドイツ語講座なのに!そうか、独仏語は両方学ぶと面白いのか!
・中国語は、この隣国との関係には変遷があって、中国語ブームがあった。やはり言葉は知っていたら面白そうだ。基本はNHKテレビ、ラジオで始めたが、香港駐在時には、早朝に事務所に家庭教師を呼んで習った。ローカルは、英語と広東語だが、中国返還が近づく頃で北京語(普通話)を習う人が増えた時期であった。
・韓国語は、ハングルというあの不思議なアルファベット、あの仕組みが分からないと落ち着かないので齧ってみた。ハングルの仕組みが分かって渇きが癒えた。NHK講座と少しの通学講座。

 なお、私は(とことん実践したわけではないが)NHK語学講座の価値を認める信奉者である。金がかからないし、今は聞き逃しサービスもある。まじめについていけばこれほどのツールは無い。ただ無いものねだりだが、昔のラジオ講座は実質本位でよかった。仏語の場合、故朝倉季雄先生が、徹底して繰り返し練習をさせる。確か入門編12ヵ月放送の最後に『一年間、一言も無駄口、冗談の無い講座でした。』と言っていたのが記憶に残る。Photo_6
いろいろ意見はあろうが、いつのころからかテレビ講座も含めひたすら楽しく学習者に阿るようになった気がする。
・それから語学学習に便利な世になった。インターネットラジオで、F2(フランス・ドゥ、アンテヌ・ドゥ?)のニュースも聞ける。もちろんBBC放送も。

 

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コメント

本日、大会本部から案内を受けました。

2020東京五輪のボランティアに応募しています。
オリエンテーリングの案内と日時予約の依頼がありました。

4月8日(月)東京スポーツスクエア
行って参ります。

栗岡です。
ここに関わる話題といえないことはないので書きます。

Tokyo 2020のボランティアに応募しました。英語が上級、仏語が中級と申告しました。
「案内」と「アテンド」の2分野を“志望”しました。分野の志望者(数)と需要とのマッチングのことだと思いますが、そのスクリーニング・プロセスを通過すれば、2019年1月~7月に、インタビュー等を含むオリエンテーションがあります。

学生は、就活の時期、インターンの時期とか問題がありそうなので、老兵がお手伝いしようというわけです。もうこの人生に3度目の五輪は無いし、社会奉仕としては一度くらいやろうと。酷暑が気がかりですが・・・

なお、【アテンド】とは、
海外要人等が快適に日本で生活できるよう、空港や会場等様々な場所で接遇を行います。また、選手が快適な競技生活を送ることができるよう、外国語でのコミュニケーションサポート等を行います。これら以外にも競技を終えた選手がメディアからインタビューを受ける際に、外国語でのコミュニケーションサポート等も行います。
人数の目安:8,000~12,000人

【案内】とは
会場内等で観客や大会関係者の案内、チケットチェックや荷物などのセキュリティチェックのサポートを行います。また、競技会場以外にも空港やホテルで、大会関係者が円滑に日本に入国・宿泊できるよう、案内を行います。
人数の目安:16,000~25,000人

まだ分からないが、英仏語を、ドックに入れてさび落とししなければならない。

栗岡です。

大隈重信についてはあっさりでした。以下は、文庫『歳月(上)』P217あたりからです。

慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。

フルベッキに習った英語とキリスト教の歴史についての知識を駆使し
キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮します。大隈をボーイと指さし出鼻をくじかんとしたパークスだが、大隈の弁舌に圧倒された。『こいつやるな!』と見直して一目置く様になりました。

同時に、新政権内で外交はあの佐賀人に任せておいたほうが良いのではないか。という空気が支配的になった。
大隈八太郎重信という政治家は、みずからがつくったこの上昇気流のなかで長崎の凧のように浮上しはじめた。

榎本武揚のことは、司馬作品ではあまり記憶がありません。ともかく蘭、仏、英語と国際法、操船技術に長けていたらしいということしか。

栗岡です。

湯川さん ありがとうございました。

我が孫たちは、8歳と5歳の2男児なので、まだいろいろ対応は可能です。がやはり爺としては躓きなくまず英語と付き合って欲しい。途中の過程で浅い日本語遣いにならないよう見ておきます。

でも、日本語の大切なことは私も同意見ですし、われらが司馬遼太郎はその点よく発信していました。例えば、『日本語 このすばらしい言葉(「小学国語64年度用編集趣意」)』や『私の漱石』かれは漱石好きですね。

一番大きな指摘は、『私の漱石』でですが、明治末年に日本語が文章語として確立されたため、日本人が外国語がへたになった。文章日本語を大完成させたのはそう夏目漱石です。

文章は多目的でなければならない。政治も哲学も恋愛描写もできなければならないが漱石がそれを可能にした。

日本人が外国語がへたになった原因にされては、夏目漱石も浮かばれないがこういうことです。「英語は、英語の時間だけ」になったのが真の理由で、(当時の)後進国としては、世界史に無いそうだ。物理も化学も数学も日本語で教えられた。

私が思うに、明治国家は凄いと思います。御雇外国人を大勢雇い入れ外国語で日本人に教える、その間に欧米に留学生を派遣し、修学後は帰国させて日本語で後進に教えさせる。この辺から、教授するためのツールが日本語になったのではないか?

ご指摘にぐらつきましたが、「英語は、英語の時間だけ」だが、要は科目も英語もしっかりやればいいのだ!と結論づけたい。

ありがとうございました。

湯川です

司馬作品を網羅して「語学考」を書こうという勇気がある人がいる。栗岡さんだ。
確かに司馬遼太郎の本を多く読んでいるファンは司馬遼太郎の哲学を様々な本から拾って議論しているが、これを個人で纏める作業まではしない。栗岡さんを讃えたい!
全文を読み終わって賛同する内容が多く栗岡さんの検証は深い。中には、ここでは取り上げないで一つのテーマとして深掘りしてほしい余談もありますが。
一つだけ若干の異論がないでもない。司馬凌海の項でアスペルガーの天才性が解説されている。その通りだと思うし、エジソンもビルゲーツもザッカーバーグもアスペルガーだそうで社会性に問題があることも知られているが、私から言わせれば社会性に問題のないアスペルガーが栗岡さんです。もちろん憧れて褒めております(笑)
大村益次郎はオランダ語を習得する目的で、いったん日田の漢語塾に入学しています。その後、適塾の塾頭にまでなったことは花神に詳しいが、日本人より中国人の方が英語を学ぶのに有利だという主語述語の並びのトレーニングだったとか。
私、個人的には小学6年からNHKの基礎英語から入ったおかげで、高校入試までは断然有利な立場であった。但し、その後高校のグラマーがツマラナイことを知り裏の日本史の授業に出ていたため、私の英語は中学3年止まりであった。よく大学に入れたものだと思う。それでも一人でアメリカくらいは行けるので、高校の英語は要らないという結論を持っている。
孫たちの項も実に共感する。その一方で私が少し危惧していることは、私が出会った語学ができる外資系に勤めている人の多くが、日本語が浅い。言い方を変えよう。深い思考をせず、物事を単純化して考えたがる傾向がある。たまに出会う底の浅いアメリカ人のような思考をするのだ。
仮に語学に力を入れると、そうなる傾向があるのであれば、私の孫には日本語を優先してもらっても構わない。底が浅くても経済的に有利な語学習得であったとしても、貧乏でも日本語だけで司馬遼太郎を語れる人生の方が有意義かなぁ?と思いながら読んでいました。
栗岡さん、ありがとうございました。

栗岡です。

素人の当て推量はいけません。調べたところを書きます。浄土真宗本願寺派国際センターの出版物2点のことです。

Letters of Shinran「御消息」
「御消息」とは、親鸞聖人が関東から京都に帰られて遷化されるまでに、関東各地の門弟に与えられた手紙のことである。43通あって、そのほとんどは『御消息集』『血脈文集』や従覚上人が編集された『末灯鈔』に収録されている。
浄土真宗本願寺派国際センターのLetters of Shinranは、『末灯鈔』のことのようだ。

Notes on 'Essentials of Faith Alone' 『唯信鈔文意』
Notes onなので注釈だろう。Essentials on Faith Aloneは、『唯信鈔』

『唯信鈔』の著者は、聖覚法印で、隆寛律師とともに、師法然上人からあつく信任されていた人である。本書は上人より相承する念仏往生の要義を述べて、表題のごとくただ信心を専修念仏の肝要とすることを明らかにされたものである。そして、親鸞聖人は関東在住の頃から本書を尊重され、門弟にもしばしば本書の熟読を勧められた。しかも、帰洛後には本書を註釈されて『唯信鈔文意』を著され、本書の意義をさらに説き明かされている。

栗岡です。

引き続きWeblio辞書で遊んでいるとめちゃくちゃ面白いです。究極の“悪人正機”を検索してしまいました。

・「悪人正機」の本質。
Anyone who awakens to recognize "I am evil" is truly awakened by the truth.

•「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。
In order to understand the meaning of the dogma of 'the salvation of evil people,' it is extremely important that one knows how to interpret 'good people' and 'bad people.

•悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「悪人こそが阿弥陀如来の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
This thought is very meaningful in Jodoshinshu doctrine, meaning 'It is evil people who are the major object of salvation based on the Vow of Amida Nyorai (Primal Vow of Other Power).

ところで、巨大な教団―本願寺―のことだ。現在はどうなんだ?と、調べてみたら、
浄土真宗本願寺派国際センター Hongwanji International Center
〒600-8341 京都府京都市下京区学林町303-1
があり、多くの英文出版物があるようです。
たとえば、Letters of Shinran 歎異抄でしょうか?
Notes on 'Essentials of Faith Alone' 教行信証?

結局、GHQの呼び出しにあった司馬遼太郎のこと、気の毒に思えた。

栗岡です。

Weblio辞書などというインターネット英和辞典・和英辞典がある。たわむれにいじくっていると、

すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。

Ordinary people are all 'evil' people filled with passions and struggling to live in the latter days of Buddhism, in a world stained by defilement.

司馬遼太郎もいい線行っていたのだ。GHQの将校が無智すぎたか?

本日は、小名さんの卓話「司馬遼太郎の作品から宗教を考える ~親鸞・歎異抄」があった。悪人正機説の難しさにも言及された。

そこで、質問時間に、この『栗岡健治の談話室Ⅹ』をちゃっかりPRさせてもらった。

戦後間もなくの頃、司馬がGHQ京都に呼び出され「本願寺は悪人こそ天国にゆけると鼓吹しているようだが、ほんとうか」にどう答えたものか四苦八苦したという点だ。本文では詳細を省いた。

親鸞の悪人正機説は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。それはいいが、このことをいかに英語で説明するのか?

司馬の場合は、大学と宗教を担当していたので、日本語ならば難なく回答できるが、手持ちの英単語が乏しく【悪人】【善人】で躓いてしまう。無理もない。そこへもってきて質問した米兵は、善悪を小学校で教える道徳用語として理解していたので、大きなボタンの掛け違いがあった。

四苦八苦した司馬には悪いが、「大徳寺散歩」からおかしなところを一部引用する。本当に笑えるところだ。
司馬が、『悪人とは、凡人(オーディナリー・マン)のことをいうのである』と言ったため単純なアメリカ軍人を跳びあがらせた。平凡な人こそ尊い、というのが近代の共通の約束ごとなのである。
米兵は、「くりかえしてきくが、平凡な人間は悪人か」ときた。司馬は、こうした方向に行くことはまずいと気付いて警戒しているように見えるが、どうしようもなくトラップにつかまったようになる。

さらに司馬が説明したいなかに“解脱”があるが、単語が分からず、結局自分を救助(サルヴェーション)するといった。その“解脱”は、天才のみにおいて可能だともいった。(ここから、とんでもないことになるが)司馬が、『たとえば、私は自分の力で自分を救助できない』

「君が、か」米軍佐官が、バカにしたような顔をした。かれは、私のことばを、小学生になってもオムツをしている。つまり排泄した自分のモノも自分で始末できない、というふうにうけたのかもしれない。マックァーサー元帥が、日本人は十二歳のこどもだ、といった時期なのである。
さらに司馬が懸命に説明したようなことが書いてあるが、
『結局、コンニャク問答におわった』とある。
以上すべて「大徳寺散歩」にあります。ぜひ味わってください。捧腹絶倒です。

時空の旅人です。
栗岡氏の<談話室Ⅹ 語学考>に触発されて、9月2日(日)、「幕末明治の外交」という歴史フォーラムを聴講してきました。
この中で、オランダ通詞の話がありました。
オランダ通詞は江戸時代を通じてオランダ語の通訳と翻訳を生業とした機能集団です。
外国船が日本近海に盛んに出没し、ついには条約締結を迫られた幕末にあっては、外国語に通じた通詞たちの役割は大きかったに違いありません。
彼らの語学力があったればこそ外国と戦端を開くことなく無事に外交交渉が行われたということは言えるのではないでしょうか。もちろん奉行たちも頑張りました。
通詞出身の西吉十郎という人物は明治23年には大審院院長(今で言えば最高裁長官)になっています。維新後は、語学を活かすというより技術や法律などの他分野で活躍した者が多かったようです。明治のジャーナリスト福地源一郎も通詞出身だそうすね。

栗岡です。

上記本文の内容に、「勝海舟の会」あたりから反論、異見、苦情が出るかも知れない。偉人を忘れていました。ご安心ください。急いでコメントいたします。

【努力の人】に分類しようかと思うのは、江戸で著名な蘭学者箕作玄甫に勝が入門を乞うと「蘭学は江戸者のようなせっかちでこらえ性の無い者がやる学問ではない」と、ていよく断られたという。蘭学は地方の人間向きということだが、箕作玄甫は作州津山藩士。
勝海舟は、替わって永井青涯や佐久間象山(勝の妹婿)に弟子入りしたり、蘭学の辞書や兵学書を所有者に依頼して書写したりして学んだ。

【司馬遼太郎が褒めたスマートな外国語達人】としてもいいが、もっと大物に高評価されている。そう、これを紹介するのは司馬遼太郎だが・・・
『明治という国家』第九章「勝海舟とカッテンディーケ」によれば、カッテンディーケの回想録にあるそうである。『勝はオランダ語を非常によく解し、そして聡明な人間であり、さらには「真の革新派の闘士」というように非常に強い言葉でほめています。』

勝海舟を【努力の人】かつ【スマートな外国語達人】としました。


栗岡です。

時空の旅人こと管理人様、≪司馬遼太郎作品で『語学考』≫をアップして下さりありがとうございました。毎回、我が素原稿一つを、体裁よくデザインくださり感心とともに感謝しておりました。

司馬遼太郎が、その作品中でしばしば外国語について触れていることに気付いていたので、それを最後の話題にしました。

私の記憶に強く残り容易に思い浮かべられるものを並べてみました。いわば語学をテーマとした司馬作品アンソロジーです。

彼が書いた「大阪外国語大学入学者用大学案内」のタイトルは「四海への知的興奮」であるが、多くの司馬作品は「四海への知的興奮」がモチーフであると思う。それらは『空海の風景』が描く国際都市長安、南蛮時代の文化交流、フィクションながらよく構成された『韃靼疾風録』が描くのは17世紀の北東アジア、高田屋嘉兵衛のロシア民間外交、幕末開国の頃、維新政府の外国交際そして『街道をゆく』海外編の数々

司馬の『そこで学ぶ学問は、生涯そのひとを愉しませつづけるはずだということを、私は知っている。』何のことは無い、前記の作品群も、司馬が、愉しみつつ書いたということだろう。

さらに、司馬のいわゆる「四海」には、≪難波津(古代難波の港)には遣隋使船、遣唐使船が行き交い、内海を西へ帆走してゆく姿があった≫と司馬が書いているイメージのことか?
『翔ぶが如く』に、帰朝した川路利良が西郷の寓所を訪ねるくだりに、こんな話がある。日本橋の下を流れている小さな川のことを、文人萩原乙彦が「これ即ち五大洲へ、遠く行くべき水原」と、いかにも文明開化時代らしい昂揚をもって書いているとあります。ぐるり海に囲まれた日本、海外への関心・あこがれは身近な足元からも起こりうるということだろう。

司馬は、ロシア語については初めから諦めたと言っているが、一方モンゴル語は膠着語であるゆえ容易だからとして『半年ばかりで日常会話にこと欠かないようになった』と言っているが、司馬に珍しい自信と自慢の表明ではないか。

なお、私がロンドン大学で聴いた司馬の講演は、1990年4月10日だった。当時は、まだ司馬の作品をあまり読んではいなかった。何しろ1987年の歳末に一時帰国の日本で買った『韃靼疾風録』が私に読まれることもなく引っ越し荷物で日本に里帰りさえした。
PAID穿孔されたパスポートを見ると成田空港着は、4月14日であった。家族は一足先に帰国しており、家も引き払っていたので、私は、講演を聴いた晩にはロンドン都心の感じの良い小ホテルに入り3泊したのだろう。4年に亘ったロンドンでの日々を思って感慨に耽ったことだろう。

さて、このBlogは、「Blog Cafe司馬遼太郎を語る会」の姉妹編のためか、はや訪問者5万に近づく勢いである。
ただ、本来は「歴史に好奇心」なのだが、『栗岡健治の談話室』が乗っ取ってしまった感がある。大澤さんはじめ、どなたでもそれぞれの談話室を展開していただければ幸甚です。

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