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2019年5月30日 (木曜日)

≪大澤有信の談話室Ⅲ≫「国家はいかに楠木正成を作ったのか」

『国家はいかに楠木正成を作ったのか』(谷田博幸著)
明治・大正・今大戦まで、楠木正成は「忠臣」と崇められていた。その反面、形勢不利を蒙ったのが足利尊氏である。
第二次大戦中、軍隊で上官から出身地を問われ、「栃木県足利市」と答えたら鉄拳制裁を食らったという、笑うに笑えない話がある。
近頃、楠木正成の遺跡がある市町村が連合し、文化庁に日本遺産として申請するなど、楠公再評価・崇拝の動きが見られる。
本書はそれらの現象を含め、楠公父子の事績を冷静に実証・分析している。
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『太平記』の中の楠木正成
『太平記』は、後醍醐天皇挙兵から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政とその崩壊、南北朝分裂時期を中心した軍記物語であるが、その卷十一に「楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。…主上御簾を高く捲かせて、正成を近く被召、<大義早速の功、偏に汝が忠戦にあり>と感じ被仰ければ、正成畏(かしこ)まりて<是君の聖文神武の徳に不依(よらずん)ば、微清争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎>と功を辞して謙下す」と、まさに正成、面目躍如、栄誉の輝きの場面が書かれている。
楠木正成はその後半生を後醍醐天皇庇護に捧げた。しかし、南北朝の争いは、北朝側の勝利となり、正成は朝敵となった。その後江戸時代、徳川光圀の命で書かれた「大日本史」では中心として復活している。
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臣民の鑑とされた楠公父子
明治以降、教科書において臣民の鑑として最大限に利用された。楠公父子という教材が「修身」や「国史」にとどまらず、「国語」、「唱歌」、「習字」まで教科横断的に組み込まれ、臣民教育の大きな柱となっていたことは、つとに指摘されていることである。
しかし、第一期の国史教科書(明治36年頃)には、楠公父子の忠義振りを讃える文言は一切なく、素っ気ない記述に留まっている。
第二期国史教科書(明治44年頃)になると、両朝併記は甚だ曖昧・不穏当とされ、南朝を正当とする修正版が使用されるようになった。その中での大きな変化は、楠木正成に関する記述である。
いわゆる「七生滅賊」( 七度生まれ変わっても朝敵を我が手で滅ぼさん…太平洋戦争末期に日本の敗戦が濃厚になると “七生報国“ に変えられて戦意高揚に利用された)の大忠臣として、称揚されるに至った。
第三期(大正9年)にいたって、子・正行を勇仁兼備・忠孝両全のヒーローとした。つまり、正行の如く滅私皇恩に報いることが、父母に孝行を尽くすことになると、ここに至って、児童に臣民としての理想を垂範することが国史教育の主目的となり、歴史認識の涵養など二の次、三の次となってしまった。
第一期から第六期に至る国定国史教科書は、第二期の修正版以降、改訂の度に楠公父子への依存度を高め、天皇のため、お国のため身命を捧げることを、臣民の至上命令として徹底させていく方向へと深化を遂げていった。とりわけ、第六期の『初等科国史』は、国史を通した臣民教育というものが、最終的に楠公父子に頼る以外、何の手だても持たなかったことを示していた。
明治以後の歴史教育の行き着いたところは、天皇のため、お国の為と念じ、戦地であたら若き命を散らしていったという状況であり、その目標は、こうなっても不平一つ言わない国民を教育することにあった。

徳富蘇峰は……
徳富蘇峰曰く、日本歴史の根底に流れる皇室中心の思想が、建武の中興となって表れたのであり、「天皇親政こそが我が国の本来の面目」である。その理想は明治維新によって実現されたのであるから、中興は「小さく見れば失敗であるが、大きく見れば大成功であった」  
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永井路子は……
大正・昭和初期に於ける軍人・御用学者の記述にうんざりしていたが、永井路子の『太平記紀行』に安慮させられる。
「実を言うと、後醍醐天皇は好きになれない人物だった。これは多分、私たちが育ったころ叩き込まれた吉野朝史観へのアレルギーによるものだと思う。忠臣楠木正成、逆賊足利尊氏、勤王の精神、七生報国…この歴史教育を受けた覚えのある方はおわかりのはず。その声高な主張は、敗戦を機にピタリとなりをひそめてしまった。正直のところ、私はほっとした」
また永井は、楠木正成についてこうも書いている。「戦争中までは、日本史上これほど有名な人物はいなかった。無二の大忠臣・尊敬する人物はと聞かれたとき、彼の名前を挙げておけばまず間違いなし、という極めつきの人物だった。が、その代わり、戦争が終わった時点で、これほど見事に霞んでしまった人物もないであろう。<忠義>というような言葉が消えてしまったとき、その魂のように思われた彼は、途端に影が薄くなった」
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菊池寛と直樹三十五
菊池寛「尊氏が、どうして百世の下、なお憎まれものになっているか。それは純忠無比な楠公父子を向こうに廻したからである」(日本合戦譚)
直木三十五「尊氏は成功した西郷隆盛である」と評しているが、「人物としては相当なものである。純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかったところに、彼の最大の不幸があると思う」
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最後に司馬遼太郎は……
『街道をゆく 陸奥のみち・肥薩のみち』から 
「河内のイメージというのは時代によってひどく変遷している。戦前の教育では河内はほとんど抽象化されたほどに高貴な山河であった。戦前の河内イメージは水戸史観が神聖英雄としてかつぎあげて、その体系を作り上げる根拠とされた南朝の将、楠木正成の生地ということで出来上がっており、正成がそこに拠って板東の大軍と戦った金剛山、赤坂、千早城といった地名群はもはや単に地名というより、国家論的な抽象性すら帯びていた。(中略) 彼のイデオロギーは、敵であった室町幕府においては悪思想であったが、ずっと降って徳川初期に水戸光圀が主導した水戸史観によって、彼は強烈な正義の座にすえられ、幕末、幕府を倒そうとする志士たちにとって、たとえばマルクスのような存在になり、時には日本における革命の神というべき戦慄的な名前になった。維新後、国史教育は水戸史観を継承したから、正成は日本史上最大の神聖英雄についたが、しかしその寿命は八十年で尽き、太平洋戦争の終了とともに、彼を称揚した宋学的な観念論史観は、戦犯的なものとして追いやられ、それと同時に正成の名は教科書から消えた。あるいは消えたのも同然になった。称揚も無視も、正成の死後、はるか後生に行われた現象で、……」 やれやれ  (擱筆)
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コメント

大澤様

ちょっと脇道に反れた話です。
私は、司馬遼太郎作品との付き合いを『街道をゆく』で始めて四半世紀になります。これを辿って結構旅もしました。『栗岡健治の談話室Ⅻ』は、街道をゆくについて考えたことの総括を書こうと思っています。
中身としては、「私が辿った『街道をゆく』から印象の残るもの」
「幻の「ハンガリー紀行」」「中国における司馬遼太郎の足跡」
「表紙に書かれない街道 あるいは「~ほか」とされる街道」等々
になります。

これを書いているのは最後の「表紙に書かれない街道名」のことです。 
今回の記事で、大澤様は、河内の話題ですが、≪『街道をゆく 陸奥のみち・肥薩のみち』から ≫と書かれています。じつはこれは「河内みち」なのです。これを含む「陸奥のみち」「肥薩のみち」の3編で、巻3となっていますが、表紙は「陸奥のみち、肥薩のみち ほか」としているのです。

これが、該当の街道を探すのに苦労、負担になることがよくあります。表紙に現れない街道をまとめました。これは文庫のケースです。

巻1「甲州街道、長州路ほか」
「竹ノ内街道・葛城みち」

巻3「陸奥のみち、肥薩のみちほか」
「河内みち」

巻4「郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか」
「洛北街道」
「丹波篠山街道」
「北国街道とその脇街道」

巻7「甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか」
「大和・壺坂みち」
「明石海峡と淡路みち」

巻8「熊野・古座街道、種子島みちほか」
「豊後・日田街道」
「大和丹生川(西吉野)街道」

巻9「信州佐久平みち、潟のみちほか」
「播州揖保川・室津みち」
「高野山みち」

大澤様

まずもって今回の投稿ありがとうございました。

私は『栗岡健治の談話室Ⅹ』を最後に筆を置きましたが、コメントに次のように書きました。
(転記)このBlogは『栗岡健治の談話室』が乗っ取ってしまった感がある。大澤さんはじめ、どなたでもそれぞれの談話室を展開していただければ幸甚です。(以上)
再開ということではないが、先日の香港・マカオの旅は思うところあり『栗岡健治の談話室Ⅺ』としました。

さて、『国家はいかに楠木正成を作ったのか』(谷田博幸著)刺戟的なタイトルですね。“あの楠木正成”が創られた様子を知るべく読んでみようという気になりました。

一方、永井路子の感慨 ≪吉野朝史観へのアレルギー≫ は、分かるなあ!
受けた教育が≪忠臣楠木正成、逆賊足利尊氏≫だった・・・
≪ところが敗戦を機にピタリとなりをひそめてしまった。正直のところ、私はほっとした≫これもよく理解できます。

しかし私の死んだ親父は、戦前に受けた教育をそのまま引きずってました。逆賊足利尊氏とか、日本外史がどうのこうのとも言ってましたが、今にして思えば、私が幼く理解できなかったのかも知れかない。

彼は戦時中、日立の軍需工場にいたものだから、水戸史観からも抜けないままで、頑迷さにあきれて反論もせず放って置きました。まあ独白させておいたというわけです。

やや反れますが、司馬遼太郎の『戦前の教育では、河内はほとんど抽象化されたほどに高貴な山河であった。』赤坂、千早城等ではなく対象は異なるが、私、実は河内の山河は見たことがあり、高貴であることに納得しました。そのことは、このBlogの《栗岡健治の談話室Ⅵ》「和歌山・大阪の旅~雑賀衆を訪ねて」の旅で、西行が入寂した弘川寺(南河内郡河南町弘川)や、香華の山 山脈(葛城山脈、その南部だけを和泉山脈)の西麓にあって、草木の香気が高いというところから命名された古刹である高貴寺(南河内郡河南町平石)を訪ねるべく車を走らせていた山河はまさに高貴だと思いました。大阪を少々誤解していました。
つぎに南北朝正閏論のことです。
皇統が北朝である明治天皇が「南朝が正統である」と発言されました。
明治天皇が、滅び去ってしまった南朝に哀悼の気持ちを表明されたのでしょうが凄いお方だと思います。
同じようなことになりましょうか、明治天皇と言えば、明治31年、司馬遼太郎『最後の将軍』で、徳川慶喜は明治天皇との会見にはあまり乗り気ではなく、いろいろ理由をつけて拒もうとしましたが、慶喜は紋付き袴で会見するということで実現したとしている。
一方、明治天皇は周囲に「こちらが、慶喜から天下を奪ったのだからな」と話したことがあるらしい。また、慶喜が皇后からお酌をされたということもよく知られた話です。
この時代、いかに天皇とはいえ、長幼序ありの謂もあり、年上の最後の将軍に会うのに心理的な何かがあったかも知れない。

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