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2019年5月19日 (日曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅺ≫ 四半世紀ぶりに訪ねた香港・マカオのこと

<はじめに>
これは単に香港・マカオを訪れたということではない。四半世紀の空白を置いて、かつて住んだ香港そして馴染んだマカオを再訪した話である。
変動激しい現代において四半世紀は長い。まして今や香港(中国)であり、私が過ごしたCrown colony女王陛下の香港ではない。私にとってちょっとばかり感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)なのである。
かつて1980年代に、パリ、ロンドン通算約6年間の勤務を終えたあと、日本で2年間勤務すると、再び海外勤務となり香港に赴任した。1992年4月のことだ。辞令を受けた当座は、初めてのアジア勤務に、もうひとつ乗り気がしなかったが、結果的には、香港をベースにして、中国を知る機会を与えてくれた貴重な経験であった。1994年6月まで、約2年間の単身赴任をした。
イースターやクリスマスの休みに、そして中国の旧正月などには、頻繁に一時帰国をするか家族を呼んだりしたので、日本・香港間は近く感じられ、容易に再訪できると思っていた。離港後(勤務を終えて香港を離れること)1997年の返還セレモニーに居合わせて時代の証人になりたい、できなければ、せめて返還後の空気を吸いたいと再訪を願った。
しかし色々な理由で、― 実は、ただ行かなかっただけなのだが・・理由の一つは『街道をゆく』の国内編のみちを辿ることに夢中になった所為もある ― 再訪せず、大袈裟だが、四半世紀近くも“留守”してしまった思いでいた。

<旅行日程>
2019年4月19日(金)香港着後九龍半島 TSUEN WANのホテル。夕食は、East Tsim 。Sha Tsuiで、食後、夜景観賞(Shymphony of lightsつまらない)
2019年4月20日(土)ビクトリア・ピーク、レパルス・ベイ、スタンレー・マーケット、黄大仙(道教の観)、高速船でマカオへ移動
2019年4月21日(日)世界遺産の聖ポール天主教跡、ナーチャ廟、旧城壁、ドミニコ教会、セナド広場、仁慈堂、民政総署、マカオ・タワー
2019年4月22日(月)香港に戻り、帰国へ
(写真:マカオ ホテルからの夜景)
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自分の足で歩けるが、旅行社が企画したツアーに安直に参加した。再訪し空気を嗅げるだけでいいと思っていたから。

この中で行ったことが無かったのは、九龍城塞、スタンレー・マーケットくらいである。 九龍城塞というのは、九龍にあった無法地帯ビルで警察もお手上げであった。私が赴任した頃に取り壊しが始まっていた。現在は、中国風の庭園を含む小奇麗な公園になっている。
今回初めてチェクラップコク国際空港(赤鱲角國際機場)に降り立つことができた。

<当時の香港のこと>
まだ英国統治下の香港だったが、1997年には、中国に返還されることが決まっていて、英国・中国間で返還についての交渉が続いていた。
私の香港勤務時期を振り返ると、中国返還が近付くなかで、ちょっとした富裕な人々は、カナダ、オーストラリア等の永住権を得るため、これらの国のパスポートを得るための移住が盛んな時期だった。
半面、そうではない貧乏人は中国が嫌だなどと言ってられないで運命を甘受していた。ある意味実に数奇な運命だと思う。レッセフェールで面倒見が決して良くない植民地政府とはいえ英国の植民地居民から中国人になるのだから。
英中の交渉では、英国は長く香港の植民者であったのだが、香港に民主政治を温存すべく努力をしたと思う。その一方で香港で培った英国系企業の本社をタックスヘヴンやロンドンに移し経済利権はしっかり確保した。
一方、中国は、返還後の香港の基本法を受け容れた。そのポイントは、一国両制 ― 50年間は資本主義を採用し、社会主義の中国と異なる制度を維持することが約束された。「高度な自治」も認められ中国本土で制約されている言論、報道、出版の自由、集会・デモの自由、信仰の自由も明記されている。
激しい交渉で、中国側は時に、アヘン戦争などという大義名分の無い恥ずべき戦争で、香港を奪い取った英国が何を言うか!偽善者ぶるなという態度だったと記憶している。
そもそも、香港島は永久割譲であったが、香港の大部分の領土 ―新界― の99年間の租借が切れるための返還であり、香港島のみでは経済的に存立できないために一括返還となった。99年なんて誰しも永遠だと思ったろうが確実にその日が来たのだ。
この頃の日本は、バブルもはじけて、その後の長い不況に入るかといった時だったが、中国は改革開放に拍車をかけ、いわゆる鄧小平の南巡講話というものがあり、香港のすぐ隣の深圳にまで南下して来た彼が、もっと大胆に改革開放をせよとはっぱをかけた。そして世界の工場の実態は、香港企業が深圳に、そして広州の衛星都市に工場を移し、委託加工による製品を、香港から世界に輸出するという香港・中国の生産的・経済的結びつきが深化したのを目撃した。今や、先端産業でアメリカと覇を競う中国だが、当時はラジカセなどアッセンブリーや縫製、製靴など、せいぜい電子基板製造でともかく労働集約的軽工業だったが・・・

<翻る五星紅旗に変化を感じた>
今回の旅で、わたしにとっての驚きは、主な政府系建物に、誇らしげに中国の五星紅旗と香港の旗(香港の象徴とされるバウヒニアを表したもの)が並んで翩翻と翻っていたこと。
当たり前だが、《ここは中国》を実感した。
政治的なことは、旅行者に分かるはずもないが、報道では、選挙で民主派が押される傾向にあり、そのたび反対運動が起きる。50年間の一国両制となってはいるが、まあ中国が政治的に民主派ないしその動きを締め付けする。西側も形ばかりの非難しかできない。何しろ香港は中国なのだ。そんな様子を見て台湾に中国が提案する一国両制も台湾の多くの人の支持は得られまい。
感傷旅行ということでは、馴染みの高層ビルは依然としてあるが、真新しいビルが凄く増えていた。居住用不動産は高騰しバブルだそうだ。香港で泊まった高層ホテルも元は工場地帯であったとみた。初めて香港で知って驚いたのは、工場というものは広い敷地に建つのではなくビルの各階が工場だった。そこでは弱電の組み立てや衣料縫製だった。これらが、みな中国広東省に移転して跡地を再開発したのであろう。
(写真:香港ピーク山腹から)
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<懐かしき香港>
香港島南部のレパルスベイに向かう途中で、昔、住んでいた香港島のHappy Valley 近くを車窓から見て、一瞬にして思い出が甦った。懐かしい。四半世紀の渇えが癒えた。
街の匂いというものは変わらない。料理から来るものか?嫌いでない匂いに刺激をうけた。そして相変わらず飲茶、点心と普洱茶の組み合わせは旨い。粥も堪能した。

<マカオのこと>
香港駐在時期に、たびたび行く機会があったマカオの変貌には驚いた。マカオは、1999年の中国返還であり、1997年の英国植民地香港の返還を見習うことができたはずである。ただ、マカオの経済的存立は特殊で、カジノ産業と観光産業なのだ。
ついでながら香港は英国が武力で奪ったものだが、マカオはポルトガルが海賊退治をしたご褒美に明朝から、もらったものだという。行政負担に耐えかねポルトガルが中国に返還を申し出ても返事がなかったとかで、1999年の中国返還に至るまで持ち続けた。
私が直感した行政負担の筆頭は公用語がポルトガル語であること。ごくごく一部しかポルトガル語を母語とする人はいないのに行政文書は、中国語とポルトガル語を併記していた。驚くことに今もそうである。もう変わることもあるまい。長く染みついた残滓といえるが、現実は今も、初等中等教育を、ポルトガル語で教える学校がある。ガイドによれば、代々マカオに住み続け、残留を決めたポルトガル系マカオ人(マカイエンサという)は、そんな顔をしながら広東語を流暢にしゃべるそうだ。
今回訪れた際、たまたま目撃したが、人民解放軍の施設をぐるりと市民が囲んで長い行列ができていた。市民への一日開放日だった。市民に中国アレルギーが全くないということだろう。マカオは、ポルトガル時代も、北京と刺々しい関係はなかったので、やはりなあとの思いだ。
この点香港がどうなのか知らないが、私が住んでいたころ、ビジネス街中環(セントラル)近くに英海軍基地があり、返還後は、人民解放軍の基地になるので、ビジネス界を窒息死させるものと危惧し嫌悪する人もいた。

<マカオは外形的に大きく様変わりしていた>
旅行社が配布した「旅のしおり」にマカオの宿泊ホテルはSHERATON MACAO HOTEL COTAI CENTRALとあった。このCOTAIには馴染みが無かったが、どうせバスで案内されるのだからと気にしなかった。
昔、知ってたマカオは、北からマカオ半島、タイパ島、コロアネ島で、橋で繋がれていた。
行って見て分かったが、実質的に埋め立てにより独立の島が無くなっていた。そしてCOTAI地区とは、タイパ島、コロアネ島間の埋め立て地のことであった。
ここに数多くの巨大なホテルが幾つも立ちコンプレックスになって商業施設のモールとカジノを併設している。
ネオンも輝き面食らった。ラスベガスを知る者に聞くとかなり似ている風景だといった。珠江を隔てた広東省珠海市にも、高層ビルがニョキニョキ建っていて本当に驚いた。

<懐かしきマカオ>
私のマカオの感傷旅行は、『聖ポール天主堂跡』をはじめとする30個もの世界遺産が集積するセナド広場あたりを再訪することであったが、これが叶って嬉しかった。何しろここに行くと突然16、17世紀のポルトガルの街区が出現し感動する。日本のキリスト禁教の影響もあった南蛮時代の天川(あまかわ=澳門)のままだと私は考える。
ここには日本を追放された天正遣欧(少年)使節のメンバー原マルティーノが滞在して『聖フランシスコ・ザビエル伝』『聖イグナチオ伝』の日本語出版に関わったとされる。原マルティーノは、日本に帰ることなくここマカオで死んでいる。
(写真:左から聖ポール天主堂跡、ドミニコ教会、セナド広場市政署前)
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<司馬遼太郎とマカオ>
司馬遼太郎は、1970年代半ばから80年代半ばにかけて、中国西域、江南、蜀・雲南、閩(福建省)を旅しているがおそらく香港には行っていないか通過したくらいではないか?
マカオも訪ねたことはきっとないであろう。
しかし、マカオに関しては、彼の関心は大きかったように思える。時にポルトガルと一体なのだが、マカオのことを司馬は次のように書いている。(『韃靼疾風録』下巻P75)

「マカオというのは、ヨーロッパ人の音で、明音(みんおん)ではない。明では、澳門(アオメン)という。澳とは深く切れこんだ入江のことである。澳門とはその入江の門(小半島)のことで、その小さな半島と属島二つをポルトガル国が明から借り、永年、アジア貿易の根拠地にしてきた。戦国期の日本にさかんに接触したポルトガル人は、みなこのマカオからきた。」
であるが、「小さな半島と属島二つ」は、私の知っているマカオであったが、前記のように様変わりして驚いた。

『街道をゆく』「南蛮のみちⅡ」(文庫のP117~)《ポルトガル人の顔》に司馬が大阪で観たポルトガルの少年合唱団の公演では、20人ばかりの少年のうち2人の西洋人顔をのぞいて、みな中国系の顔だったことから、真相は分からず仕舞いだが「記憶の中のあの少年たちはマカオから来たにちがいない。」と書いている。


また、面白いエピソードとして、長州による四国艦隊の襲撃の報に接して、英国留学を端折って急きょ帰国した攘夷志士、伊藤博文、井上聞多は、お尋ね者だが、横浜に上陸しポルトガル人を装ったという。むろんマカオの広東人を想定してのことだ。ボーイなどに意地悪されて、大きな穴の開いた蚊帳をあてがわれたりした話を書いている。


マカオへの大きかった司馬遼太郎の関心は、『韃靼疾風録』においてもこんなくだりを挿入している。もとよりフィクションゆえ司馬の創作だが、私は卓話でも紹介したが、ありうることのように旨く作品に挿入している。『韃靼疾風録』下巻P75「清朝の出現」に、主人公の桂庄助について「ときに瀋陽城内に一日本人あり、とマカオでのうわさに言う。・・・名をショースキー(庄助)と言い、状貌、木のごとく石のごとく、みずから籠居して動かない。~」「ポルトガルの居留地マカオでは、ショースキーという数奇な漂泊者のことは、さまざまに伝えられているらしい。― 一度、その者(庄助)に会え。と、マカオの何者かに命ぜられたらしい者が、はるかにやってきた。」この作品を卓話した際にこのくだりを読んで情景が眼に浮かんだものだ。
(写真:ポルトガルの大詩人カモンイス像)
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<旅を終えて>
25年間の“留守”をした香港であったが、今回の旅で渇えが癒えた思いがする。まるで時効が中断した如くに、香港に焦がれることなく自然体で向き合えるようになった。行きたいと思ったときに、私の香港もマカオもいつでもそこにある気がしてきた。

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コメント

「わたしの香港」が心配だ!

中国はどう出るのだろう?香港のことが心配だ。

NHK時論公論で7月1日(これは香港返還22年目の記念日だった)加藤 青延専門解説委員が、中国には「秋後算賬(しゅうごさんちょう)」という伝統的な成語があるといって、直訳すれば「秋の収穫後に総決算する」となる。

この時は、G20大阪サミットや米中首脳会議を控えていた時期だった。これらが終わるまでは、物事を荒立てないが、会談が終わってしまえば、もう大丈夫だと考えて始末をつけようとすることもありえると加藤氏は言った。しかも天安門事件を引き合いに出した。

私にはずいぶん大胆なことを言うな。そこまで言っていいのか?と思えた。それというのも天安門事件のあと西側諸国は中国を糾弾し対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世銀による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。教訓になっていると私は思うからなのだが・・・

そして、今週の時論公論「香港デモ2か月 混乱激化の行方は」で、同じく加藤解説委員は、香港反政府抗議運動について、中国が、実質的に反政府暴動に変化しているとの見方を示唆したという。確かに香港の運動が過激化し変質してきたこともあるが、中国は、もし事態がさらに悪化し、「動乱」になれば、座視せず鎮圧すると言明している由。
中国のこの見方は天安門事件での民主化を求める人々の声や行動を「動乱」と規定したことを思い起こす。

そして、中国武装警察が制圧訓練を深圳で行ったという。とても不気味な怖さがある。

アメリカのボルトンは米国人は天安門事件を忘れていないと言ったという。これに対しても中国は、香港の運動は、アメリカの作品だとか、内政干渉だと反発している。
天安門事件後の西側の制裁も、今や大国なので恐れることもない。香港には原則で対応するということか?
原則こそ、一国両制の公約だと思うが・・・

四半世紀ぶりに訪れた香港だが、その様子をBlogに書いた。タイミング的にこんな大きな事件が訪問直後に起こるとは思いもよらなかった。
香港市民4人に1人(以上)の約200万人という大規模なデモに香港政府トップが事実上、「逃亡犯条例」成立を断念する考えを示した。だが、中国政府の「お墨付き」を得た政策だけに撤回は明言できず、歯切れが悪いまま、うやむやにして幕引きを図る考えがにじむが、民主派の反発は収まりそうもない。

私は≪栗岡健治の談話室Ⅺ≫の<当時の香港のこと>に、こう書いた。

『一方、中国は、返還後の香港の基本法を受け容れた。そのポイントは、一国両制 ― 50年間は資本主義を採用し、社会主義の中国と異なる制度を維持することが約束された。「高度な自治」も認められ中国本土で制約されている言論、報道、出版の自由、集会・デモの自由、信仰の自由も明記されている。』

法案「逃亡犯条例」が不首尾に終わったことで、一国二制度にかかわる重大な約束反故は、とりあえず回避されたと信じたいがどうなることだろう。

中国相手に正論を主張する産経新聞だが、その【主張】香港の一国二制度 G20で主要議題に加えよ は胸がすく思いがする。

改正案撤回を言わない香港政府に対してだが、むろん相手は一国二制度を世界に対して約束した中国である。産経新聞の【主張】の骨子は以下である。
1997年7月の香港返還から間もなく22年を迎える。この間、中国共産党政権は、香港での治安法令の強化や「愛国主義教育」持ち込みを図り、香港市民と国際社会の反発を招いてきた。
 習近平国家主席の就任後は、香港の言論の自由まで急速に脅かされ、中国の「一国」支配だけが強まっている。大規模デモは「二制度」を踏みにじられた香港市民の危機感の表れである。
米議会では、返還後の香港に付与してきた関税などの優遇措置が妥当か、「一国二制度」の検証を義務付ける法案が提出された。中国は、駐北京米国大使を呼びつけ厳重な抗議をしたと報道されている。
 米国による香港への高関税適用には、親中派で固めた香港財界も懸念を強める。香港を経済活動の「抜け道」とする中国経済にも痛打となる。
ポンペオ米国務長官は、大阪での20カ国・地域首脳会議(G20サミット)に際しての米中首脳会談で、香港を議題にすると明言した。
 香港問題への取り組みを米国任せにしてはならない。議長役となる安倍晋三首相には、香港の高度自治の問題をG20サミットの主要議題としてもらいたい。(以上引用)
果たして、中国の反発が必至のこの提案だが、是非総理に頑張って欲しい。2047年まで“私の香港”がそこにあって欲しいものだ。

四半世紀ぶりに香港を訪ねてからひと月に満たないが香港が騒然としてきた。
中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案に反対するデモを解散させるため、警察が香港の中心部で催涙ガスやゴム弾を使用した。 2014年の「雨傘運動」は、中国政府側は「香港限定の出来事」として対処することができ自然消滅したが、今回の抗議活動は解散させるのが難しいだろうとロイターは書いている。
今回の大規模デモの引き金を引いたのは、林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官だ。同氏が提案した、犯罪容疑者の中国本土法廷への引き渡しを可能にする条例の改正案は、多くの市民を驚かせた。同長官や同長官を支持する中国政府当局者は、香港に対する中国政府の意図に深い不信が渦巻く香港内での強い反発を予想できていなかった。
比較すると、今回の条例改正案への反対行動は、より広範囲なものだ。条例改正案では、トランジットのため空港に降り立っただけの人も含め、香港に物理的に滞在する全ての人が中国本土に連れ去られるリスクにさらされることになる。中国本土の司法制度は政治の指揮下にあり、有罪率は100%近い。
何よりも中国と貿易問題を抱えるアメリカ国務省がこの問題に危惧を表明している。

6月9日の香港のデモは、主催者発表で103万人参加。1997年香港の中国返還以降、最大級の規模のデモとなった。香港の住民の7人に1人がデモ参加の勘定。警察発表は、24万人だけれど・・・

天安門事件ではない。刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正に反対するもの。中国のおそろしい香港締めつけ。基本法を無視し骨抜きにし、高度な自治もあったものではない。

報道によれば、6月4日(火)、香港・ビクトリア公園を市民が埋め尽くした。
事件後30年の今年の追悼集会には去年を6万5000人も上回る18万人が集まったという。
参加者たちはロウソクを手に犠牲者を悼み、弾圧を正当化する中国政府を批判した。中国政府の「反革命動乱で319人が死亡した」を信じる人はいない。とんでもない人数の犠牲者が出たのだ。

そして、今日6月9日(日)NHKスペシャル「天安門事件 運命を決めた50日」の放送がある。

私も国際政治の微妙なところに巻き込まれたことがある。それもこの天安門事件でだ。
エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)といえば、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の第3代国家評議会議長つまり国家元首だった。ああいう体制だったので、ドイツ社会主義統一党書記長を兼ねたがこちらは政治家としてのものだ。1989年、最後はソ連のゴルバチョフに引導を渡される形で、失脚する。この ホーネッカーが、おそらく世界の指導者でただ一人、中国の天安門事件を支持する言動であった。
数日後には、同国に(Deutche Hndels Bankに、だが)融資する調印に(東)ベルリンに出向く準備をしていたので、随行していく上司に、取りやめを相談したが、これは別のことだと決断してくれた。思い出になっている。なお東ドイツへの融資は、その後の壮大なM&Aともいえるドイツ統一で焦げ付くことはなかった。

私の若いころの人事部の同僚T氏が、なんとも嬉しいレスポンスを呉れた。彼とは桜の咲く直前に門前仲町で、本当に久しぶりに会って飲む機会があった。

『栗岡さん、読ませていただきました。

「香港に来月旅行する。」と言われていたのは、このような背景と想いがあったのですね。

人事部(東京)からパリ事務所への異動発令を受けられた時の、喜びを押し殺したような栗岡さんの表情が昨日のことのように浮かびましたよ。

(栗岡注:一般に、本人が満足する人事異動は、それほど多くは無いであろうが、この命課は、私の生涯で最高に嬉しかった。それを目撃していた人には、よく冷やかされたものだ。地に足がつかないようだったとか・・・)

“パリ後”の海外勤務は、くしくも英国と香港ですか。この組合せに唸りました。

そして英中で激しい返還交渉最中の香港ご勤務を経験され、1997年の返還を見ることなくあとにされ帰国した。

全くもってドメスティックだった小生にも、再訪への渇望ぶりが伝わってまいります。

それにしても、一国二制度をめぐる“せめぎ合い”は、底流で確実に続いているのですね。

「まあ中国が政治的に民主派ないしその動きを締めつけする。西側も形ばかりの非難しかできない。••••」

「そんな様子を見て台湾に中国が提案する一国両制も台湾の多くの人の支持は得られまい。」とするくだりは、現地の空気を時間軸で捉えられる方にしか発せられない言葉だと思いました。

せっかくの機会と思い、香港、マカオの外務省情報を眺めていたら、「広東、香港、マカオ大湾区」構想というのが進められているみたいですね。

近代から続く歴史の清算的側面と、それを乗り越えてドラスティックに凄い速さで進む今、現代も感じさせていただきました。

しみいるようなエッセイでした。

是非、またご案内ください。楽しみにしております。』

T

①添付のカモンイスの写真は、セナド広場の民政総署の中庭で見つけました。
16世紀のポルトガルの大詩人カモンイス(1525?-1580)です。
司馬遼太郎が「南蛮のみちⅡ」P222「サグレスの小石」に書いています。ユーラシア大陸の西端サグレス岬で歌った長大な詩の一部『大陸の果つるところ、大海のはじまりところ』が有名です。大航海時代の申し子のような詩人です。
②香港は長年英国の統治下にあったが、九龍城砦の領有権は中国側が保持したままで、法的位置づけの曖昧さから無法地帯となってしまった。魔窟ともよばれ東洋のカスバに位置づけられた。
先日、東京都写真美術館の企画展宮本隆司の「いまだ見えざるところ」を観た。香港の写真も数枚あったが、ミュージアム・ショップにあった写真集「九龍城砦」には、在りし日の“魔窟”の写真がある。面白いのは、魔窟の中にはいろいろな商売があったが、英語ができないために歯科医師免許のない“職人”が大勢活躍していて腕はよかったらしい。私が訪問した記念館にも、魔窟のジオラマや写真が色々あった。
③天安門事件は、1989年6月3日-4日に中国人民解放軍の戒厳部隊が、民主化を求めていた学生らを鎮圧した事件で、中国当局は、学生らの運動を「暴乱」としている。今年30周年を迎えるが既に「ウィキペディア」へのアクセスが中国で全面的に遮断された。前記記事との関連では、香港での記念のイベントは、事実上できそうになく台湾で行うといった記事をみた。

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