2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト

« 2019年5月 | トップページ

2019年9月

2019年9月23日 (月曜日)

≪大澤有信の談話室Ⅳ≫門松秀樹著『明治維新と幕臣』を読む

「応仁の乱」(呉座勇一)、「観応の擾乱」(亀田俊和)、「蒙古襲来と神風」(服部英雄)、「承久の乱」(坂井孝一)と中世を描いた中公新書が立て続けに書評に載った。新しもの好きな私はすぐ飛びついた。そして近代へ一気に跳び『明治維新と幕臣』(門松秀樹)が紹介され、早速繙いた。

勝者側の評価による明治維新
本書の前書きに「明治維新は進歩発展が停滞していた徳川幕府に代わり、進取気鋭満々の薩長他西南雄藩が仕果たせたのは、歴史的必然だったのだろうか…」とある。
明治維新を評価する考え方は、維新後明治政府によって進められた修史事業による影響が大きいと考えられる。
当然の事ながら、勝者である明治政府側から幕末・維新期の動乱を論ずることになるため、敗者である江戸幕府や「朝敵」となった東北諸藩に対する評価は低くなる。
しかしながら、江戸幕府が徳川家康以来、約260年にわたって全国を統治してきた政権であるという事実を軽視すべきではなかろう。
  Photo_20190923093405
 

江戸幕府の機構は巨大な官僚機構であった
江戸時代の政治体制は幕藩体制と呼ばれる。幕府と藩の関係は、中央政府と地方政府の関係、あるいは藩の自立性などを考慮に入れると、アメリカの連邦政府と州政府の関係に近いといえるかもしれない。
いずれにせよ、全国にわたる統治の機構・人員や経験は、藩ではなく幕府に蓄積されていた。江戸幕府の機構は、将軍の下、老中を中核として多くの役職が整然と配列されており、巨大な官僚機構であった。

江戸幕府体制の変遷
江戸幕府体制及び変遷の一角を見てみよう。
江戸幕府の体制はかなり安定していた。島原の乱以降、第一次長州征伐に至るまでの230年間、大規模な軍事動員もなく、「天下太平」を治めたことを見ても明らかである。
時代・時代に応じて新たな役職を設置し、それらは比較的良く機能していた。
例えば、寛永10年(1663)三代将軍家光は、松平信綱ら側近6名に「若年寄」という役職に就かせた。若年寄は主に旗本や御家人を統括する役職である。そしてその下に将軍を警備する「書院番」、大名・他ほぼ全ての武士を監視する「目付」などを置いた。
またその他に「大老」、「老中」がある。大老は非常置であり、会津藩祖保科正之、綱吉側用人柳沢吉保の大老格があるが、酒井・井伊・堀田・土井の四家だけの最高職である。
寛永年間、老中筆頭の土井利勝と家光の関係が、更に土井と老中次席の酒井忠勝との関係が不和となり、円滑な政務処理が滞った。将軍親裁体制は、将軍個人の資質・能力に依存するところが大きく、病気などにより中核となる将軍が不在となった場合に、機能不全が生じるという制度上の欠陥を露呈した。
こうした問題を解決するために、老中制の改革が行われた。即ち、町奉行・大目付他、幕府の諸役が老中の管轄とされた。
老中が中核となり内政・軍事に関する重要なポストを統括し、幕政を運営するという、江戸幕府の基本的な統治のあり方が確立された。
Photo_20190923093801 (江戸幕府機構)Hosina (保科正之)


明治政府における幕臣の登用
王政復古の大号令により、内外に自らの発足を宣言したとはいえ、明治政府には全国政権としての基盤は未だ備わっていなかった。倒幕を主導し、明治政府の中心的存在であった薩長両藩は、雄藩として有力な存在であったとはいえ、都道府県レベルでの領域の統治経験しかなく、全国を統治するための組織や経験は皆無といってよいほど持ち合わせていなかったため、政治的空白が生じかねない状況にあったともいえる。
また、政権というものは機構が確立されれば、充分に機能するという性質のものではない。機構を運用する人材が必要不可欠である。
明治政府はこうした危機的な状況にどのように対応したのか。その答えは、幕臣の継続登用であった。各奉行所などの幕府機関を、所属する人員を含めて継承してしまったのである。明治政府に登用された幕臣達の中には、勝海舟・渋沢栄一・西周・津田真道などの著名な人物も多かったが、大半はほぼ無名といってよい小身の旗本や御家人達であった。

「矩」を超えなかった幕臣
家康以来、太平の世が続くことで武士の「家」の固定化も進み、武士の主従関係の根本である「御恩」と「奉公」の関係についての意識が薄れていくことで、幕臣がサラリーマン化したことはやむを得ないだろう。

戊辰戦争中、各地の奉行所などの幕府の行政機関を接収した明治政府は、在職の幕臣を継続的に登用する方針を示した。現代風に言えば、江戸幕府から明治政府への移籍を求めたということになる。知行・俸禄の少ない中・下級の幕臣に特にその傾向が強いが、多くの幕臣が移籍の要請に応じ、引き続き江戸幕府から明治政府に看板を掛け替えた職場に留まって仕事を続けたのである。因みに、大久保利通は岩倉具視に宛てた書簡に「幕臣には依存したくないが、追放してしまうと、たちまちにのうちに東京府の行・財政に支障が出ることは顕然である」と述べている。
そして、安政・文久の改革を通じ、幕府は欧米の先進知識・技術を有する人材の教育・養成に力を入れていた。つまり、旧旗本層を中核とする旧幕臣には、洋学などの新知識により新規登用された優秀な人材と、幕府の教育・研究機関で豊富な知識を身につけた人材がいた。そして、彼らの賢明なところは、継続登用されたあとでも、徒党を組みあるいはその地位や職権を乱用して、私利私欲を満たすようなことをしなかったことであろう。いわゆる「矩(のり)」を越えなかったのである。「最後の箱館奉行の日記」で杉浦誠は薩・土の顕官同士の対立に対して、私的な感情を持ち込むことなく、幕臣という立場故、明治政府内の権力闘争には関与すべきではないと記述している。
Photo_20190923093404  (大久保利通)_0001(岩倉具視)

武士の普遍的倫理観
ところで、武士にとっての普遍的倫理観に「武士は二君に仕えず」という言葉があるが、その断片の注釈にお付き合い願いたい。
渋沢栄一の回想録「雨夜譚会談話筆記」に「全体の旧幕臣が明治政府に対してどのような考え方を持っていたか各々色々あるが、<武士は二君に仕えず>という考え方を持つ旧幕臣は少数派であり、十中八九の人々は新政府で地位を得たいとの望を抱いていたように思う」とある。
そして、現実的には俸禄のみで家族を養っていくことは難しく、再就職しなければならない。そもそも選択の余地はなかったのではないか。

一方、少数派の「武士は二君に仕えず」派には高名な幕臣も多い。例えば軍艦奉行として咸臨丸で渡米した木村喜毅(後介舟)、遊撃隊頭取として慶喜の警護に当たり「幕末の三舟」の一人高橋泥舟、賢才の人栗本鋤雲、反骨のジャーナリスト成島柳北などがいる。彼等は度重なる出仕の要請や説得にも応ずることなく、明治維新後は市井にあってその生涯を終えている。こうした高潔ともいえる生き方に意気を感ずる人も少なくはなく、後年に福沢諭吉が「痩せ我慢の説」を著して勝と榎本を名指しで批判し、二人に自説に対する意見を求めたことは有名である。福沢は旧幕臣が明治政府に出仕することについては批判していない。政権交代によって困窮した前政権側の人々が、生計を立てるために新政権に出仕するのは当然であり、批判には当たらない、但し、勝や榎本のように幕府の要職にあった者はその限りではない。故に維新後は静かに隠棲すべきであると。 
563 (勝海舟)250pxtakeaki_enomoto (榎本武揚)Photo_20190925080901(栗本鋤雲)

成島柳北主宰「朝野新聞」の「党派論」
明治12年(1879)成島柳北主宰「朝野新聞」に掲載された「党派論」という論説では、柳北は舌鋒鋭く藩閥を批判している。

藩閥といえば薩・長・土・肥が思い浮かぶが、それらに加え旧幕が槍玉に挙げられている。この頃になると、政府内の有力な勢力として旧幕臣が認識されていたようだ。福沢からすれば、自らも含めて大多数の旧幕臣は、批判されるようなことは何もしていないにもかかわらず、世上において旧幕臣が藩閥の一角を占め、批判に晒されているのは、明治政府において、顕職を占める一部の旧幕臣が原因であると考えたのであろう。故に、その代表的な存在である勝と榎本を名指しで批判せずにはいられなかったのではないか。
尚、旧幕臣の中で閑却出来ない人物として、前出の渋沢栄一がいる。渋沢の事績は、税制・貨幣制度の改正、郵便・鉄道など多事多端であり、ここでは略筆にとどめたい。
渋沢は現埼玉県深谷市の名主身分の出で、後慶喜に仕えた。渋沢の出仕には大隈重信が大きく関与している。当時静岡藩にて商法会所設置・運営に関わっていたが、大隈の熱心な出仕要請もあり、徳川家の立場を配慮し、政府の機嫌を損ねることのないよう出仕を応諾した。政府に出仕していた短期間に、前述のとおり多岐にわたる功業をたて、又前島密、赤松良則、杉浦譲等の人材を登用・育成した。
Photo_20190925080701 (成島柳北)Hukuzawa50 (福沢諭吉)Photo_20190923093402(渋沢栄一)

ノンキャリアの底力 ~あとがき
明治初期、太政官制のもと今日における次官・局長の地位は概して「理事官」であり、課長・課長補佐級は「書記官」であった。その書記官の中には、福地源一郎、田辺太一、林董など、旧幕府のそうそうたる面々が揃っていた。故に、政府内における地位は理事官の方が高いとはいえ、外交交渉の場などでは、知識や経験において、書記官に大きく後れをとっている場合が多かった。
更には、岩倉使節団内の専門官でさえも、知識や経験が豊富だった書記官には手も足も出せず、元土佐藩士佐々木高行司法大輔をして「維新の仇をとられた」と言わしめた。
佐々木の日記からは、ホテルの割り当てさえも旧幕臣の書記官に仕切られていることなど、頭を押さえられている状態に、色々と不満を募らせている様子が窺え、それ故に彼等の活躍を「跋扈」と評したのではなかろうか。
変革の時期、新たな主役・新しいビジョンが求められる。
しかし、どんな優れた人物が、どれほど素晴らしいビジョンを描こうとも、それを実現するためには組織が必要であり、最前線で実行していく能力を持つ人材が不可欠である。
明治政府による旧幕臣の登用については「国難に当たり、敵味方の分け隔てなく、優秀な人材を登用した明治政府の度量」という見方もあるが、実情は400万石の幕領を統治した行政組織をそのまま活用しなければ、どうにも事が動かない、というのが実情だったようだ。
明治維新に際して、戊辰戦争の戦地になった場所は例外として、全国津々浦々で混乱を極め、略奪・暴行が横行したという事態に至ってはいないということは、少なくとも社会生活を維持出来るような秩序が保たれていたことになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんど、ならなかったということになる。

明治政府の草創期に政府を支え、維新の改革が軌道にのるまで支え続けたのは、無名に近い、行政の現場にあった旧幕臣達であったのだ。

 

 

« 2019年5月 | トップページ