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2020年2月

2020年2月23日 (日曜日)

《栗岡健治の談話室XIII》司馬遼太郎の随筆「大阪の原形」を頼りに大阪を再発見

司馬遼太郎の随筆「大阪の原形」を頼りに大阪を再発見

はじめに
最近大阪に旅行した。訪ねたところは以下のとおり
2020/2/9(日) 移動日 以後、中之島のホテルに連泊
2020/2/10(月) 仁徳天皇陵 住吉大社 四天王寺 上町(うえまち) 台地 (夕食)料亭天王殿
上町台地には、四天王寺七坂がある。愛染坂 源聖寺坂 口縄坂など)
2020/2/11(火・祝) 東洋陶磁美術館 鶴橋(焼肉で昼食) 適塾
2020/2/12(水) 神宗(淀屋橋の昆布の老舗 東京でも買えるが本店へ)大阪城  

司馬遼太郎の随筆「大阪の原形 日本におけるもっとも市民的な都市」
私の旅はいつも『街道をゆく』を携えて行くが、大阪市には街道をゆくはない。代わってエッセイ「大阪の原形 日本におけるもっとも市民的な都市」がある。『司馬遼太郎が考えたこと 第13巻』の中の一節だ。
そして、上町台地というのは、大阪人以外には、あまり知られていないのではないか?でも大阪の歴史では、これがキーワードになっている。
ブラタモリの番組PRでも、上町台地をしっかり押さえていた。
『(ブラタモリ)初の大阪へ! 「太閤はん」こと豊臣秀吉のまち・大阪。やってくる観光客はなんと年間1億人。江戸時代には「天下の台所」とまでいわれた日本を代表する大都会です。
しかし、秀吉が大阪城を築いて本格的なまちづくりに乗り出す前は、大阪の街に南北に伸びる高台・上町台地のふもとは広大な湿地帯がひろがる土地でした。』
実は、コロナウィルスに怯え、人出の多そうなところへは行くまいと訪ねる場所も変更を余儀なくされた大阪の旅であった。
この司馬のエッセイのおかげで、旅行を終えた今、家内は希望していたUSJにも通天閣・新世界にも行けなかったが、この旅は面白かったという。もともと彼女が未だディープな大阪を見ていないというのが発端だった。でも上町台地、天王寺七坂などこそ真正でディープな大阪のように思った。
私は、見納めのつもりだったが、家内はまた行きたいと言っている。
なお、司馬遼太郎が折に触れ書いていた大阪府の旧分国は、摂河泉すなわち摂津、河内、和泉だが、雑賀孫市の面影を追って和歌山・大阪の旅をした際、河内・和泉は幾分知った。
弘川寺(広川)-顕証寺(八尾市久宝寺)-高貴寺(平石)は、『街道をゆく』の「河内みち」、そして(堺)南宋寺(なんしゅうじ)-鉄砲鍛冶屋敷跡(内部は非公開)-岸和田城は、「堺・紀州街道」にある。

キーワード「上町台地」
昭和623月付のこの随筆は、大阪都市協会/非売品とある。タイトルからして、依頼に基づく執筆であろう。「~ここまで生理化した大阪人である私が、はたして公正な大阪紹介の文章が書けるかどうか疑問である。」と、しながら「古代の大阪」から始めている。
「この五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。この丘陵には水流が無く、水田もなかった。従って、農民はほとんどすんでおらず、むしろ漁民の住む浜だった。この上町台地という変形的な小半島のまわりは、古代の港だったのである。」
「八世紀ぐらいまでは、海はいまよりも内陸近くにまできていた。こんにち四天王寺と大阪城を載せている台地(上町台地)の西のふもとは、まだ渚だった。浜の砂は白かった。」
「この浜や八十島などをふくめて、当時のひとびとは、「難波江」とよんでいた。「津の国の難波江」とよばれることもあった。」

(写真左から:大阪の古地図、弥生~古墳時代の大阪、難波宮案内図)
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『大阪の原形』で紹介された名所旧跡を訪ねて
住吉大社
「同時に古代人にとって、島が誕生してゆくことに、神のわざを感じたのにちがいなく、ふるくからこの浜辺で、八十島をめでたく思う意味をこめた神事がおこなわれていた。その神事をおこなう神社が、日本でももっとも古い神社の一つである住吉大社であった。」
注目すべきは、境内に多くの石灯籠が林立していること。いずれも商人、講であったり仲間であったりするが、主に江戸時代中期~後期に奉納されたもの。徳川期の天下の流通がよくわかる。商売繁盛の願いとともに豪儀なもので財力も分かる。
ちなみに例を挙げれば、うつぼ干鰯仲間の石灯籠 1890年、ざこば魚問屋の商人の石灯籠 1812年、出羽山形の紅花の取引をした商人1862年、阿波の藍玉を扱った商人1831年、ガラス製造・販売商人 1828年、網元・船主・商人 大坂天満屋 西国諸浦1746年、江戸松坂屋、大坂南仲買古手屋中1793年、越中締綿荷主廻船中1856年、肥前唐津 練屋市郎兵衛ほか 1717年等々
これらの石灯籠群は、日本遺産として認定されています。
「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に、追加認定されたもので、北前船にゆかりのある構成文化財として、「住吉大社」と、住吉大社境内に並ぶ「石灯籠群」が登録されました。  
また、住吉大社門前の通りには、路面電車(阪堺電気軌道)が走っていて趣きがある。

四天王寺 
『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済すると誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。
「(司馬遼太郎)この上町台地を装飾する最大の構造物がつくられたのは、593年のことである。国家によって台地の南端に四天王寺が造営されたのである。この壮麗な堂塔伽藍の立つ丘の西のふもとにまで、海がきていた。いまでも「西門」とよばれるこの寺院の鳥居から西へいくには、ながながと坂をくだってゆかねばならない。」
「むろんこの寺は、そういう目的で、つまり国家的な見栄によってつくられたものに相違ない。この寺の横を通る道路は当時大道とよばれ、奈良県竹内峠を経て、奈良盆地の中央にある都につながっており、日本における最古の官道である。」 

四天王寺の雅楽  
司馬遼太郎によれば、財力豊かだった四天王寺は、雅楽司る人たち=伶人 (れいにん)を抱えていた。彼らが住んでいた一角が愛染坂の辺りだという。そして、現在まで地名に残っている。
明治大学で、雅楽について教えてもらったばかりなので、ついつい気分高揚。「雅楽の観かた・楽しみかた」三田徳明 三田徳明雅楽研究會主宰

雅亮会(市民の手による雅楽の継承と保存)
「明治維新で四天王寺から舞楽という大きな芸術が消滅してしまった。
この消滅についてさびしく思ったのは、政治家や官吏、あるいは学者ではなかった。町のひとびとだった。かれらは自らの経費と努力によってこのおよそ現代とかかわりのない古代の舞いや音楽を学ぶことによって再興し、継承しようとした。明治維新がおこって16年目(1884)のことで、かれらは自分たちの団体に、「雅亮会」という名称をつけ、継承と保存につとめた。」
このことは、NHK新日本風土記の2015年放送の「四天王寺」のなかで紹介され、「四天王寺の舞楽」が、短い動画でみられます。《浪速のひとびとが守り継ぐ雅な舞》として。
司馬がこの随筆のタイトルに「日本におけるもっとも市民的な都市」と副題を付けたのはこのようなことをいうのであろう。

上町台地(愛染坂 源聖寺坂 口縄坂、谷町筋 松屋町筋「夕陽ケ丘」)
海鼠状とか牛の背とか形容される。上町台地はキーワードなので少し司馬の説明を引用する。
「この五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。」
上町台地の下、西は松屋町筋、東は谷町筋。松屋町筋の北の方はおもちゃや花火を商う店が多いが、南の方は、寺町で寺院が続くが寺の並びの反対側にはバイクの店がずっと続く。

有栖川有栖著 『幻坂(まぼろしざか)』 
実はひょんなことから手にした文庫本がある。
幻坂(まぼろしざか)著者は、有栖川有栖で子供のころからこの七坂を遊び場にして育ったらしい。七坂それぞれに一篇ずつ短編を書いている。
私は料亭と酒肴をまじえて書いている天神坂の編に刺激されて、現代の利器インターネットで探したのが、逢坂(国道25号線)にある天王殿であった。
この界隈は、昔は料亭が多かったらしく伝説の料亭《浮瀬(うかむせ)》があった場所は、大阪星光学院の学校内に碑がある由。料理の土居善晴氏が『大阪はB級グルメちゃいますよ』と言っていたが、食の都・大阪なのだろう。そういえば父親の土井勝氏の料理学校はこの近くにあった由。

大阪城 
説明は不要だろう。現在のものは徳川大阪城である。本文で司馬は「秀吉と大坂城」を詳しく書いている。 

石山本願寺 
11代門主顕如が、織田信長に立ち退きを命令されて拒み戦争となる。最終的に和睦し、和歌山の鷺ノ森に移転する。
大阪城の郭内に「石山本願寺推定地」の碑がある。

(写真左から:住吉大社遣唐使発祥の地、四天王寺西門、石山本願寺推定地 )
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『大阪の原形』で紹介された歴史上の人物
応神天皇
「おそらく四世紀末から五世紀初頭にかけて在世した天皇。なくなったのは大隅の宮だったという。大隅の宮は、現在の大阪市にあった。くわしくいうと、当時の大阪の河口の中州の一つである大隅島に存在した。陵墓とされるものは、いまも大阪市の郊外にある。仁徳天皇陵とならんで最大規模の古墳で、高度の土木技術がすでに存在したことを証明している。」     

兼好法師 
『何事も辺土は賎しく、かたくななれども、天王寺(註・四天王寺)の舞楽のみ、都に恥(はぢ)ず』と、四天王寺の雅楽を誉めていた。すべての点で田舎の芸術や文化は下品で粗野なものだが、四天王寺舞楽だけは都(京都)に劣らない、という意味である。京都人であった兼好法師は、草深い難波の地にきたことがあったにちがいない。

藤原家隆 
「(司馬遼太郎)ほかに源聖寺坂、口縄坂などがあった。あるとき、それらの坂をのぼって、樹林のなかに古い五輪塔をみつけたときはふしぎな思いがした。大阪にこのような幽邃とでもいえるような一角があったのかと思ったのである。13世紀の貴族で、歌人として有名だった藤原家隆の墓だった。死の直前、夕陽を見つめつつ過ごしたかった由。

古代が終わり段落名はこう続く
「十五世紀のころ」「十六世紀のころ」「秀吉と大阪城」「秀吉による独創的な経済都市」「徳川時代の大坂」「大坂の合理主義思想」「大阪人の独立心」
「さて、私の話はなかなか大都市形成ののちの大阪にまで至らない。このようにわき道に外れつつ語っていたら、目的地まで容易にたどりつけないかもしれない。」随分ひとを食った言い方だが、ページ数からいえばこの後もしっかり書いている。ただこのBlogを読まれる方も熟知されていることだと考えるので省略してポイントのみ記す。
信長は石山本願寺顕如に無理難題を言って戦争を仕掛ける、秀吉は近世大坂を築いた功績が際立つ、家康は、豊臣を滅ぼしたが、秀吉を引き継ぎ、経済的繁栄を更にもたらした点、大阪人は徳川にも感謝すべきと書く。

大坂の文化人たち
独創的な思想家である富永仲基、山片蟠桃は、司馬遼太郎が高く評価していた文化人である。この二人とも、懐徳堂に学んだ。
「大坂の町人たちは、醵金しあって独自の学校をつくった。東区今橋四丁目にあった懐徳堂(17241869)がそれで、146年つづいた。
一時期は教授陣の充実と学問的水準の高さにおいて昌平黌をしのぐとさえいわれた。私はこのまちに生まれた者として、かつてこのまちに懐徳堂があったことを思うとき、自然に微笑がうかぶほど誇らしいのである。」
このことも時代は異なるが、市民の手による四天王寺の雅楽の継承と保存とともに司馬が「日本におけるもっとも市民的な都市」という副題を付けた所以ではないかと思う。
司馬が、もう体力が尽きてしまったとして名前だけ挙げたのが、近松門左衛門、井原西鶴である。演劇における創作者近松門左衛門、散文文学における井原西鶴をもし徳川時代の大坂がうむことがなければ、明治以前の日本文学の伝統はずいぶんさびしいものになったにちがいない。(と、このエッセイの筆をおいている)

司馬遼太郎による「大阪八景」
前記のものとは別に、司馬遼太郎の大阪案内としてごく短いエッセイ「大阪八景」がある。昭和369月だから古い。『司馬遼太郎が考えたこと 第1巻』にある。
「婦人生活」のグラビア頁だからか、こんな書き出しに読者を意識しているように思える。「ここは、どや」(栗岡注【どや顔】のもとになる大阪弁か?)とほこれるほどの景色が、いったい大阪にあるだろうか。ずいぶん思案をかさねてえらんでみた。ところがあとで気がついてみると、女房と婚前に散歩したあたりが多かった。のろけているわけではなく、十分に手ざわりがあるから、自信をもって推せる。
挙げている八景は
①「中之島の堂島川にボートをうかべて大江橋、渡辺橋のあたりをのぞんだ川ぞいの風景」と注釈が長い。「日本一の都市美かもしれない。」
②「法善寺横丁」「説明の要はなかろう。」
③「葦」として、細かいが、「淀川の十三大橋シタの水ぎわの風景である。」と。
④出ました!「源聖寺坂」
 司馬は余程好きなのだろう。コメントが良い。「奈良の町はずれに似ている。この物さびた風景が、大阪の中央にあるとは、これまた知るひとがすくないだろう。坂の上からのぞむと、つい足もとにミナミの雑踏がみえるのだが、この一角だけは、ヒグラシの声がきこえる。松屋町筋から上町台へのぼる下寺町のかたすみにあり、ひるも人通りがすくない。江戸時代、船場の商家の若い手代たちが、人目をしのぶ恋をとげるために、この坂をのぼり、生玉の出逢い茶屋へしのびやかに入った。とすれば、恋の坂といえぬことはない。」司馬は『燃えよ剣』で土方歳三と、お雪さんの逢引の場所をここにしている。
⑤「枚岡の夕景」社会人初年に、私は生駒・鶴橋間を近鉄奈良線で通勤していたので何となくわかる。
⑥「石切からみた大阪の灯」これも前記のように私にはわかります。
⑦「尻無川(しりなしがわ)の渡船場」大阪を卑下したおかしい付け足しがある。「どうも、名がよくない。大阪の地名は、詩的でない。京や江戸と違って古来インテリの住む町ではなかったから地名がいかにも即物的である。」
⑧「夜の大阪城」
更に、司馬遼太郎の大阪案内はもう一つあります。『街道をゆく』の原形とも言われる『歴史を紀行する』には、高知、会津若松、滋賀、佐賀、金沢など12の都市があり、最後の大阪は「政権を亡ぼす宿命の都」となっています。重なる話も多いが面白い。一読をお勧めします。

最後に
私事だが、これまで大阪にはちょっと素直になれないわだかまりがあった。
昭和50年、社会人としてスタートし、大阪の奥座敷といわれた生駒市と吹田市に3年間住んだ。その後も仕事で大阪に行く機会は多くあった。だから大阪に旅をするというのはあまり考えられなかった。
銀行勤務の初任店が梅田という大阪の玄関口で、ビジネス街としての表情は東京と少しも変わらず、カルチャーショックを受けなくてもよさそうなものだが、全く地縁血縁もないので あるにはあった。大阪弁にも違和感が全く無くなった今は、そんなことが信じられない。
実は職場の関東・東京圏出身者が、いつも口を開けば、東京に戻りたいと繰り言を言っていた。
また、梅田支店と独身寮のある生駒間を往復するばかりで、梅田以外の繁華街に行くこともなかった。ほぼ大阪を知らずに3年間を過ごした。
このことは後悔であり、あの時分に大阪探訪をすべきであった。だから上町台地などという情報と関連した話は実に新鮮なのだ。大阪を正しく理解するうえで外せないと思った。司馬遼太郎に感謝している。
結局ここまで書いてきたことは大阪賛歌になっている。
実は、地下鉄で、谷町筋、松屋町筋など公路で、実に親切に声を掛けてくれる人が多くいた。このことも与っている。

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