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2020年2月23日 (日曜日)

《栗岡健治の談話室XIII》司馬遼太郎の随筆「大阪の原形」を頼りに大阪を再発見

司馬遼太郎の随筆「大阪の原形」を頼りに大阪を再発見

はじめに
最近大阪に旅行した。訪ねたところは以下のとおり
2020/2/9(日) 移動日 以後、中之島のホテルに連泊
2020/2/10(月) 仁徳天皇陵 住吉大社 四天王寺 上町(うえまち) 台地 (夕食)料亭天王殿
上町台地には、四天王寺七坂がある。愛染坂 源聖寺坂 口縄坂など)
2020/2/11(火・祝) 東洋陶磁美術館 鶴橋(焼肉で昼食) 適塾
2020/2/12(水) 神宗(淀屋橋の昆布の老舗 東京でも買えるが本店へ)大阪城  

司馬遼太郎の随筆「大阪の原形 日本におけるもっとも市民的な都市」
私の旅はいつも『街道をゆく』を携えて行くが、大阪市には街道をゆくはない。代わってエッセイ「大阪の原形 日本におけるもっとも市民的な都市」がある。『司馬遼太郎が考えたこと 第13巻』の中の一節だ。
そして、上町台地というのは、大阪人以外には、あまり知られていないのではないか?でも大阪の歴史では、これがキーワードになっている。
ブラタモリの番組PRでも、上町台地をしっかり押さえていた。
『(ブラタモリ)初の大阪へ! 「太閤はん」こと豊臣秀吉のまち・大阪。やってくる観光客はなんと年間1億人。江戸時代には「天下の台所」とまでいわれた日本を代表する大都会です。
しかし、秀吉が大阪城を築いて本格的なまちづくりに乗り出す前は、大阪の街に南北に伸びる高台・上町台地のふもとは広大な湿地帯がひろがる土地でした。』
実は、コロナウィルスに怯え、人出の多そうなところへは行くまいと訪ねる場所も変更を余儀なくされた大阪の旅であった。
この司馬のエッセイのおかげで、旅行を終えた今、家内は希望していたUSJにも通天閣・新世界にも行けなかったが、この旅は面白かったという。もともと彼女が未だディープな大阪を見ていないというのが発端だった。でも上町台地、天王寺七坂などこそ真正でディープな大阪のように思った。
私は、見納めのつもりだったが、家内はまた行きたいと言っている。
なお、司馬遼太郎が折に触れ書いていた大阪府の旧分国は、摂河泉すなわち摂津、河内、和泉だが、雑賀孫市の面影を追って和歌山・大阪の旅をした際、河内・和泉は幾分知った。
弘川寺(広川)-顕証寺(八尾市久宝寺)-高貴寺(平石)は、『街道をゆく』の「河内みち」、そして(堺)南宋寺(なんしゅうじ)-鉄砲鍛冶屋敷跡(内部は非公開)-岸和田城は、「堺・紀州街道」にある。

キーワード「上町台地」
昭和623月付のこの随筆は、大阪都市協会/非売品とある。タイトルからして、依頼に基づく執筆であろう。「~ここまで生理化した大阪人である私が、はたして公正な大阪紹介の文章が書けるかどうか疑問である。」と、しながら「古代の大阪」から始めている。
「この五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。この丘陵には水流が無く、水田もなかった。従って、農民はほとんどすんでおらず、むしろ漁民の住む浜だった。この上町台地という変形的な小半島のまわりは、古代の港だったのである。」
「八世紀ぐらいまでは、海はいまよりも内陸近くにまできていた。こんにち四天王寺と大阪城を載せている台地(上町台地)の西のふもとは、まだ渚だった。浜の砂は白かった。」
「この浜や八十島などをふくめて、当時のひとびとは、「難波江」とよんでいた。「津の国の難波江」とよばれることもあった。」

(写真左から:大阪の古地図、弥生~古墳時代の大阪、難波宮案内図)
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『大阪の原形』で紹介された名所旧跡を訪ねて
住吉大社
「同時に古代人にとって、島が誕生してゆくことに、神のわざを感じたのにちがいなく、ふるくからこの浜辺で、八十島をめでたく思う意味をこめた神事がおこなわれていた。その神事をおこなう神社が、日本でももっとも古い神社の一つである住吉大社であった。」
注目すべきは、境内に多くの石灯籠が林立していること。いずれも商人、講であったり仲間であったりするが、主に江戸時代中期~後期に奉納されたもの。徳川期の天下の流通がよくわかる。商売繁盛の願いとともに豪儀なもので財力も分かる。
ちなみに例を挙げれば、うつぼ干鰯仲間の石灯籠 1890年、ざこば魚問屋の商人の石灯籠 1812年、出羽山形の紅花の取引をした商人1862年、阿波の藍玉を扱った商人1831年、ガラス製造・販売商人 1828年、網元・船主・商人 大坂天満屋 西国諸浦1746年、江戸松坂屋、大坂南仲買古手屋中1793年、越中締綿荷主廻船中1856年、肥前唐津 練屋市郎兵衛ほか 1717年等々
これらの石灯籠群は、日本遺産として認定されています。
「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に、追加認定されたもので、北前船にゆかりのある構成文化財として、「住吉大社」と、住吉大社境内に並ぶ「石灯籠群」が登録されました。  
また、住吉大社門前の通りには、路面電車(阪堺電気軌道)が走っていて趣きがある。

四天王寺 
『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済すると誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。
「(司馬遼太郎)この上町台地を装飾する最大の構造物がつくられたのは、593年のことである。国家によって台地の南端に四天王寺が造営されたのである。この壮麗な堂塔伽藍の立つ丘の西のふもとにまで、海がきていた。いまでも「西門」とよばれるこの寺院の鳥居から西へいくには、ながながと坂をくだってゆかねばならない。」
「むろんこの寺は、そういう目的で、つまり国家的な見栄によってつくられたものに相違ない。この寺の横を通る道路は当時大道とよばれ、奈良県竹内峠を経て、奈良盆地の中央にある都につながっており、日本における最古の官道である。」 

四天王寺の雅楽  
司馬遼太郎によれば、財力豊かだった四天王寺は、雅楽司る人たち=伶人 (れいにん)を抱えていた。彼らが住んでいた一角が愛染坂の辺りだという。そして、現在まで地名に残っている。
明治大学で、雅楽について教えてもらったばかりなので、ついつい気分高揚。「雅楽の観かた・楽しみかた」三田徳明 三田徳明雅楽研究會主宰

雅亮会(市民の手による雅楽の継承と保存)
「明治維新で四天王寺から舞楽という大きな芸術が消滅してしまった。
この消滅についてさびしく思ったのは、政治家や官吏、あるいは学者ではなかった。町のひとびとだった。かれらは自らの経費と努力によってこのおよそ現代とかかわりのない古代の舞いや音楽を学ぶことによって再興し、継承しようとした。明治維新がおこって16年目(1884)のことで、かれらは自分たちの団体に、「雅亮会」という名称をつけ、継承と保存につとめた。」
このことは、NHK新日本風土記の2015年放送の「四天王寺」のなかで紹介され、「四天王寺の舞楽」が、短い動画でみられます。《浪速のひとびとが守り継ぐ雅な舞》として。
司馬がこの随筆のタイトルに「日本におけるもっとも市民的な都市」と副題を付けたのはこのようなことをいうのであろう。

上町台地(愛染坂 源聖寺坂 口縄坂、谷町筋 松屋町筋「夕陽ケ丘」)
海鼠状とか牛の背とか形容される。上町台地はキーワードなので少し司馬の説明を引用する。
「この五世紀の当時、いまの大阪市が所在する場所のほとんどは浅い海で、一部はひくい丘陵(現在の上町台地)だった。」
上町台地の下、西は松屋町筋、東は谷町筋。松屋町筋の北の方はおもちゃや花火を商う店が多いが、南の方は、寺町で寺院が続くが寺の並びの反対側にはバイクの店がずっと続く。

有栖川有栖著 『幻坂(まぼろしざか)』 
実はひょんなことから手にした文庫本がある。
幻坂(まぼろしざか)著者は、有栖川有栖で子供のころからこの七坂を遊び場にして育ったらしい。七坂それぞれに一篇ずつ短編を書いている。
私は料亭と酒肴をまじえて書いている天神坂の編に刺激されて、現代の利器インターネットで探したのが、逢坂(国道25号線)にある天王殿であった。
この界隈は、昔は料亭が多かったらしく伝説の料亭《浮瀬(うかむせ)》があった場所は、大阪星光学院の学校内に碑がある由。料理の土居善晴氏が『大阪はB級グルメちゃいますよ』と言っていたが、食の都・大阪なのだろう。そういえば父親の土井勝氏の料理学校はこの近くにあった由。

大阪城 
説明は不要だろう。現在のものは徳川大阪城である。本文で司馬は「秀吉と大坂城」を詳しく書いている。 

石山本願寺 
11代門主顕如が、織田信長に立ち退きを命令されて拒み戦争となる。最終的に和睦し、和歌山の鷺ノ森に移転する。
大阪城の郭内に「石山本願寺推定地」の碑がある。

(写真左から:住吉大社遣唐使発祥の地、四天王寺西門、石山本願寺推定地 )
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『大阪の原形』で紹介された歴史上の人物
応神天皇
「おそらく四世紀末から五世紀初頭にかけて在世した天皇。なくなったのは大隅の宮だったという。大隅の宮は、現在の大阪市にあった。くわしくいうと、当時の大阪の河口の中州の一つである大隅島に存在した。陵墓とされるものは、いまも大阪市の郊外にある。仁徳天皇陵とならんで最大規模の古墳で、高度の土木技術がすでに存在したことを証明している。」     

兼好法師 
『何事も辺土は賎しく、かたくななれども、天王寺(註・四天王寺)の舞楽のみ、都に恥(はぢ)ず』と、四天王寺の雅楽を誉めていた。すべての点で田舎の芸術や文化は下品で粗野なものだが、四天王寺舞楽だけは都(京都)に劣らない、という意味である。京都人であった兼好法師は、草深い難波の地にきたことがあったにちがいない。

藤原家隆 
「(司馬遼太郎)ほかに源聖寺坂、口縄坂などがあった。あるとき、それらの坂をのぼって、樹林のなかに古い五輪塔をみつけたときはふしぎな思いがした。大阪にこのような幽邃とでもいえるような一角があったのかと思ったのである。13世紀の貴族で、歌人として有名だった藤原家隆の墓だった。死の直前、夕陽を見つめつつ過ごしたかった由。

古代が終わり段落名はこう続く
「十五世紀のころ」「十六世紀のころ」「秀吉と大阪城」「秀吉による独創的な経済都市」「徳川時代の大坂」「大坂の合理主義思想」「大阪人の独立心」
「さて、私の話はなかなか大都市形成ののちの大阪にまで至らない。このようにわき道に外れつつ語っていたら、目的地まで容易にたどりつけないかもしれない。」随分ひとを食った言い方だが、ページ数からいえばこの後もしっかり書いている。ただこのBlogを読まれる方も熟知されていることだと考えるので省略してポイントのみ記す。
信長は石山本願寺顕如に無理難題を言って戦争を仕掛ける、秀吉は近世大坂を築いた功績が際立つ、家康は、豊臣を滅ぼしたが、秀吉を引き継ぎ、経済的繁栄を更にもたらした点、大阪人は徳川にも感謝すべきと書く。

大坂の文化人たち
独創的な思想家である富永仲基、山片蟠桃は、司馬遼太郎が高く評価していた文化人である。この二人とも、懐徳堂に学んだ。
「大坂の町人たちは、醵金しあって独自の学校をつくった。東区今橋四丁目にあった懐徳堂(17241869)がそれで、146年つづいた。
一時期は教授陣の充実と学問的水準の高さにおいて昌平黌をしのぐとさえいわれた。私はこのまちに生まれた者として、かつてこのまちに懐徳堂があったことを思うとき、自然に微笑がうかぶほど誇らしいのである。」
このことも時代は異なるが、市民の手による四天王寺の雅楽の継承と保存とともに司馬が「日本におけるもっとも市民的な都市」という副題を付けた所以ではないかと思う。
司馬が、もう体力が尽きてしまったとして名前だけ挙げたのが、近松門左衛門、井原西鶴である。演劇における創作者近松門左衛門、散文文学における井原西鶴をもし徳川時代の大坂がうむことがなければ、明治以前の日本文学の伝統はずいぶんさびしいものになったにちがいない。(と、このエッセイの筆をおいている)

司馬遼太郎による「大阪八景」
前記のものとは別に、司馬遼太郎の大阪案内としてごく短いエッセイ「大阪八景」がある。昭和369月だから古い。『司馬遼太郎が考えたこと 第1巻』にある。
「婦人生活」のグラビア頁だからか、こんな書き出しに読者を意識しているように思える。「ここは、どや」(栗岡注【どや顔】のもとになる大阪弁か?)とほこれるほどの景色が、いったい大阪にあるだろうか。ずいぶん思案をかさねてえらんでみた。ところがあとで気がついてみると、女房と婚前に散歩したあたりが多かった。のろけているわけではなく、十分に手ざわりがあるから、自信をもって推せる。
挙げている八景は
①「中之島の堂島川にボートをうかべて大江橋、渡辺橋のあたりをのぞんだ川ぞいの風景」と注釈が長い。「日本一の都市美かもしれない。」
②「法善寺横丁」「説明の要はなかろう。」
③「葦」として、細かいが、「淀川の十三大橋シタの水ぎわの風景である。」と。
④出ました!「源聖寺坂」
 司馬は余程好きなのだろう。コメントが良い。「奈良の町はずれに似ている。この物さびた風景が、大阪の中央にあるとは、これまた知るひとがすくないだろう。坂の上からのぞむと、つい足もとにミナミの雑踏がみえるのだが、この一角だけは、ヒグラシの声がきこえる。松屋町筋から上町台へのぼる下寺町のかたすみにあり、ひるも人通りがすくない。江戸時代、船場の商家の若い手代たちが、人目をしのぶ恋をとげるために、この坂をのぼり、生玉の出逢い茶屋へしのびやかに入った。とすれば、恋の坂といえぬことはない。」司馬は『燃えよ剣』で土方歳三と、お雪さんの逢引の場所をここにしている。
⑤「枚岡の夕景」社会人初年に、私は生駒・鶴橋間を近鉄奈良線で通勤していたので何となくわかる。
⑥「石切からみた大阪の灯」これも前記のように私にはわかります。
⑦「尻無川(しりなしがわ)の渡船場」大阪を卑下したおかしい付け足しがある。「どうも、名がよくない。大阪の地名は、詩的でない。京や江戸と違って古来インテリの住む町ではなかったから地名がいかにも即物的である。」
⑧「夜の大阪城」
更に、司馬遼太郎の大阪案内はもう一つあります。『街道をゆく』の原形とも言われる『歴史を紀行する』には、高知、会津若松、滋賀、佐賀、金沢など12の都市があり、最後の大阪は「政権を亡ぼす宿命の都」となっています。重なる話も多いが面白い。一読をお勧めします。

最後に
私事だが、これまで大阪にはちょっと素直になれないわだかまりがあった。
昭和50年、社会人としてスタートし、大阪の奥座敷といわれた生駒市と吹田市に3年間住んだ。その後も仕事で大阪に行く機会は多くあった。だから大阪に旅をするというのはあまり考えられなかった。
銀行勤務の初任店が梅田という大阪の玄関口で、ビジネス街としての表情は東京と少しも変わらず、カルチャーショックを受けなくてもよさそうなものだが、全く地縁血縁もないので あるにはあった。大阪弁にも違和感が全く無くなった今は、そんなことが信じられない。
実は職場の関東・東京圏出身者が、いつも口を開けば、東京に戻りたいと繰り言を言っていた。
また、梅田支店と独身寮のある生駒間を往復するばかりで、梅田以外の繁華街に行くこともなかった。ほぼ大阪を知らずに3年間を過ごした。
このことは後悔であり、あの時分に大阪探訪をすべきであった。だから上町台地などという情報と関連した話は実に新鮮なのだ。大阪を正しく理解するうえで外せないと思った。司馬遼太郎に感謝している。
結局ここまで書いてきたことは大阪賛歌になっている。
実は、地下鉄で、谷町筋、松屋町筋など公路で、実に親切に声を掛けてくれる人が多くいた。このことも与っている。

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コメント

住吉大社に詣でて、「遣唐使進発の地」碑の在ることに気づいて写真を撮ったが、慌ただしくそそくさと大社を辞した。

4艘の遣唐使船が、住吉(すみのえ)の津(=港)から出航する様子を描いたカラーの絵で美しい。白砂青松もきれいだ。
ネットで、この碑の序幕が2019年4月28日と新しいものであることを知った。
そして、万葉集 第19巻 4245番歌が刻まれていたのだが覚えていない。
訓読と訳を書いておこう。

そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 任けらゆる 我が背の君を かけまくの ゆゆし畏き 住吉の 我が大御神 船の舳に 領きいまし 船艫に み立たしまして さし寄らむ 礒の崎々 漕ぎ泊てむ 泊り泊りに 荒き風 波にあはせず 平けく 率て帰りませ もとの朝廷に

大和の国奈良の都から難波に下って、住吉の御津で船に乗る。そしてまっすぐ海を渡り、日の入る国唐に赴くよう任ぜられた、遣唐使の君よ。口にするのも恐れ多い住吉大社の我らが大御神、船の舳先(へさき)を支配なさるべく艫(とも)にお立ちになって、船の立ち寄る磯の崎々へ安全にお泊め下さいませ。停泊する崎々で暴風や荒波に遇わせることなく、どうか平穏に帰ってきて、もとの都に戻れるよう、お導き下さい。

JR東海の「やまとみちの会」に入っていると機関誌を送ってくるのだが、「そらみつやまと」というタイトルになっている。恥ずかしながら変わった名だと思いつつ調べなかった。「そらみつ」が「やまと」にかかる枕詞であることを初めて知った。

大阪で乗った路面電車とNHK FM ラジオ・ドラマ

旅行をするといろいろなことを知る。先般の大阪旅行で、住吉大社詣でを終えて、大阪市内に戻る交通をスマホで検索すると、住吉駅から阪堺電軌上町線で天王寺駅前駅に行けることが分かった。
更に住吉駅を地図検索すると大社前の目抜き通りにあることになっている。駅舎も無いし、あれっどうなっているのだ?
目を凝らすと向こうから車両がこちらに向かって走ってくる。なんだ路面電車なのか!「電軌」に気が付かなかったのだ。

趣きのある路面電車と界隈の雰囲気が気に入った。

このたびNHKの面白いラジオ番組を見つけた。放送の翌日の正午~1週間配信される聴き逃しサービスがあるのがいい。

阪堺電車177号の追憶(全10回)

昭和から令和、86年大阪を走り続けた路面電車が語る人情物語
【NHK FM】
2020年4月6日(月)~4月10日(金) 午後9時15分~午後9時30分(1-5回)
2020年4月13日(月)~4月17日(金) 午後9時15分~午後9時30分(6-10回)
【主な出演者】
徳井優 谷村美月 久保史緒里 マキタスポーツ
永沼伊久也 柊子 中山義紘 宮田圭子
田中孝史 野田晋市 杉森大祐 木内義一
竹下眞 榎田貴斗 松岡亜美 小松健悦
【原作】山本巧次
【脚色】
山本雄史
【音楽】
小林洋平
【スタッフ】
制作統括:出水有三
技術:白尾涼子 深田次郎
音響効果:水谷明男
演出:渡邊良雄 松本仁志
(大阪局制作)
【あらすじ】
大阪南部と堺を結ぶ阪堺電車は、今では全国的でも珍しい路面電車。しかも昭和8年(1933年)から86年にわたって活躍している車両がまだ現役で、市民たちの大事な足として親しまれている。
177号もそんなベテラン車両で、歴代の乗務員からは縁起のいい車両として慕われている。だが、寄る年波には勝てず、近いうちの引退が決まった。177号はこれまでさまざまな人々を運んできた。若い車掌と強盗犯、戦争で引き裂かれた絆、若いコックと泥棒小学生、万博が呼び寄せた奇跡の再会、バブルが壊した地域の人情などなど。引退を前に177号の脳裏には、よくも悪くも必死に生きていた彼らの顔がよみがえる。
86年間走り続けた177号、戦前、戦中、戦後、高度成長期、バブル、そして今――、この177号の目線から、大阪の街の変遷、そして市井の人々の生き様を描く、連作ハートフル・ストーリ-。

「大阪料理と真昆布」

二宮 由紀子という大阪出身の童話作家が、朝日新聞3月21日(土)be on Saturdayという付録紙面に書いている。『作家の口福』という魅力的な題だが、これはコーナーで、いろんな作家が入れ替わり書くのだろうか?この日彼女は「大阪料理と真昆布」と題して書いている。

『上方の料理と言えば京料理と思われがちですが、元来、京は着倒れで大坂こそがれっきとした食い倒れの町だ、と大阪生まれの人間としては一応、主張しておきたいところであります。』
『京料理と大阪料理の味の違いは、私のような素人にでもくっきりわかる範囲だけでいうなら、京料理が素材を生かす利尻昆布を使うのに対し、大阪料理は旨味の強い真昆布を使う。』
『使う魚も京都はグジに代表される日本海の魚、大阪は鯛に代表される瀬戸内海の魚というのは有名な話ですが、最近は漁場も流通も変化したし、イクラを料理の彩に使われたって私としては何の文句もありませぬ。しかし、だからこそ、真昆布だけは変わらぬ大阪料理の神髄・・・なのですが、』

《なのですが、》の続きは実につまらなく、下手な文章です。前記のことだけにしておき確かめてみました。

先般、昆布の老舗、淀屋橋の神宗に寄って買い物をしたが、この店のHPを覗くとやはり ありました。

《利尻昆布》は、香り高く透明で澄んだだしがとれ、京都を中心とした関西地方で好まれています。

《真昆布》は澄んだ上品な甘みのあるだしがとれる高級昆布で、関西の特に大阪で流通しています。

《羅臼昆布》は、濃厚でしっかりしたコクがあるだしがとれ、煮物や鍋物、炊き合わせに適しています。

なお、神宗の歩みは、天明元年(1781年)、初代・神嵜屋宗兵衛が大坂・靭(うつぼ)に海産物問屋(三町問屋)を構えたことから始まりましたとある。

靭(うつぼ)というのは住吉大社の石灯籠1890年寄進にその名がありました。海産物の問屋が集まっていたところです。

そして、大阪が食い倒れの町であることは分かります。何しろB級から高級まである。こういうと『大阪の料理はB級とちゃいますよ』 という土居善晴氏に叱られそうだが。

美食の都 大阪

有栖川有栖 本名 上原 正英(うえはら まさひで)
1959年4月26日生まれ60歳 大阪市生まれで
天王寺七坂を遊び場として育ったらしく
ここに詳しい。

そして文学賞をいくつか受賞しているが、大阪市が大阪から世界に文化人を発信し、また大阪文化の振興・発展を目指すために設けている賞である《咲くやこの花賞(さくやこのはなしょう)》を受賞している。

有栖川有栖の短編集『幻坂(まぼろしざか)』
「天神坂」の架空の料亭「安居」のことなど

有栖川有栖の『幻坂(まぼろしざか)』は、天王寺七坂のそれぞれに寄せて書いた短編小説集である。このこと先日書いた。

特徴は、各篇とも、登場人物に死者が出てくるが不思議に湿っぽくはない。この「天神坂」では、妻子ある男に惚れて裏切られて死んだ女性の幽霊。

この女性を騙した男が、心霊を専門とする探偵を雇い、この幽霊の女性をアテンドさせるという設定。そう鎮魂と自分に対する怨みを残さないように。探偵がアテンドする場所が天神坂の料亭「安居」

季節は晩秋 暮れてからは肌寒さが増す冬がそこまで来ている。

店の前で逡巡する女の背を探偵が押して入れる。

店外の様子は、近くに浄土宗の天暁院。安居天満宮。近くに真田幸村の終焉の地がある。数年前にNHK歴史大河【真田丸】があった。

また昔は名水で有名な幾つかの井戸があったところ。幽邃(ゆうすい)などと司馬遼太郎も使った語彙を有栖川有栖も使っている。[名・形動]景色などが奥深く静かなことだ。

間口の狭い二階家は、白い提灯「安居」が無ければ料理屋に見えない。門も前庭もなく路地に面した格子戸を開くと忽ち店内。木製のカウンターに背凭れの高い椅子が五脚。

おいしい料理が出てくる。この女性は、酒も入り少し饒舌に、たいそう満足そう。

女性の思い出話。この女性が20歳になった時、一人親だった父親がお祝いにこの近くにあった「上野」という小さい料亭に連れて来てくれた。奮発したものだが、昼の利用だ。

ここ「安居」でも美味しいものが次々出てくるのだが・・・女性の回顧談
『そして、和紙に一枚ずつ毛筆で書いてあるお品書きをずっと大事にしもてました。』
『どんなもんを食べたのか、今でも覚えてますよ。』といちいち挙げる。『最初がすっきりとした柚子香酒。箸初が、衿掛芋の子と枝豆(ずんだ)餡。菱筥で出てきたんは、クリームソースがかかった帆立貝酒炒りやら鞘巻海老やらアンデス芋やら・・・』
『お汁は露って書いてありました。朝露の露。鱧を擂りつぶして蒲鉾みたいにしたの・・・真丈ですか?あれやら蓴菜やらが入っていました。海老の真丈は食べたことがありましたけど、鱧はあの時だけ』
さらに、スモークサーモンと玉目鯛の胡瓜巻だの鮴の時雨煮だの、梅肉をつけた明石の蛸の子やら門真の新蓮根やら、楽盛の中身を歌うごとく並べる。最後の茶菓は、熨斗梅と煎茶。それを言うまで止まらない。

ここの亭主が「よう覚えておいでで。ええもんをお召しあがりになりました。」と応じる。

もうやめよう。馬鹿ですね!白状すれば、私は、こんな「安居」にすっかり憧れてしまって、今度の旅で、大阪天王寺近くの七坂でこんなところにぜひ行きたかった。天王殿もよかったのだが、こんな小ぶりな料亭のカウンター席で旅情・旅愁も味わいながら美食したかった、ということである。

あほや。

地方に旅行して宿泊が旅館でなくホテルの場合よく夕食を居酒屋で楽しんできたので今度もと願ったのだ・・・

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