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街道をゆく

2018年6月 6日 (水曜日)

≪栗岡健治の談話室Ⅷ≫「湖西のみち」をたどり『街道をゆく』を考えてみた

私にとっても「湖西のみち」は格別だ

『街道をゆく』の記念すべき最初の街道は「湖西のみち」であった。最初にこれを読んだ時の印象は深い。
歴史的、文化的、言語学的、人類学的な考察をずいぶん織り込んでいるなあと驚いた。この面の話が発展して、同行の編集部のH氏に「これでも紀行文でしょうか」と苦情をいわれそうだとも書いている。

司馬遼太郎らが訪ねたのは、まず琵琶湖の漁港「北小松」だが、私には琵琶湖に漁港があるのか?と新鮮な驚きであった。「白鬚神社」も変わった名前で、きっと何か珍しい縁起があるのだろうとは思った。「安曇川」も“あど”とはなかなか読めない。「湖西」ですら、“こせい”なのか“こさい”なのか分からなかった。これについても司馬は、小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないかと想像をめぐらしている。古代の種族「安曇人」にも思いを寄せている。

「朽木渓谷」は、歴史的に興味深いところだ。織田信長が越前金ヶ崎城に朝倉氏を攻めた時、義弟の浅井長政に背かれ、浅井・朝倉に挟まれて袋のネズミとなった。朽木は、信長が急遽逃れた先として有名で、朽木氏に助けられる。これを手配したのが、後年には織田信長に反旗を翻す松永弾正だ。901

朽木には、将軍足利義晴も隠れて住んだところで、「興聖寺」には「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」を残している。司馬遼太郎は、当会の重森貝崙氏のお父上である重森三玲のことを書いている。(写真右:興聖寺)

(興聖寺の老婦人)「このお庭はそのころからのもので、木の根で石がすこし傾いたぐらいで、なにもかももとのままやそうでございます。―京都の重森三玲先生も」と、高名な造庭家の名がでた。

「このお庭ばかりは飽きがこないとおっしゃいまして、毎年一度はお見えになっておりましたが、このごろはお齢を召されて、もうそんなにお気楽にはお見えになりません」

 こんな次第で『街道をゆく』の記念すべき第一回「湖西のみち」にはかねてから行きたいと考えていた。

滋賀県の諸“街道”

最近、滋賀県の“街道s”を旅した。

司馬遼太郎が、「近江というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである」と書いているように、滋賀県には“街道”が多い。「近江散歩」「北国街道とその脇街道」「湖西のみち」「叡山の諸道」「甲賀と伊賀のみち」がある。そして「甲賀と伊賀のみち」をはじめとして隣県に跨る“街道”が多い。932

また1街道にはなっていないが「蒲生野みち」とでもいうべきミニ街道がある。近江の蒲生郡、神崎郡には、百済の渡来人文化ゆかりの遺産が残っている。

「韓のくに紀行」の最終数章では、百済からの亡命者・鬼室集斯の墓を祭ったといわれる鬼室神社や古代扶余の「百済塔(ぺくちぇたぶ)」に酷似した石塔三重塔(写真右)をもつ石塔寺を司馬が訪ねたと書かれている。白洲正子もこの塔のことを「日本一の石造」と絶賛したという。私も、今回石塔寺を訪ねた。

なお、「近江散歩」は以前訪ねたことがある。柏原宿のもぐさ屋や国友村の天文13年創業の鉄砲火薬商≪国友源重郎商店≫を訪ねたのが懐かしい。

今回、気象等の理由で、当初の旅程を変更したが、加除のうちの「除」で大きいのは、「北国街道とその脇街道」である。この街道の滋賀県内部分かあるいは福井県に入ってすぐのところまで旅する予定であったが断念した。

なお、「湖西のみち」以外の街道旅のことは、いずれ「司馬遼太郎を語る会」の機関誌『たいまつ』にでも書く機会があると思う。

実見した様子

北小松

小集落があり、湖心側は短い突堤に囲われて小さな港になっている。(写真右)876

「湖西のみち」に漁師と稼働舟の数についてのやりとりがあって、問うた司馬に漁師が「戦前は38ハイも動いていたがなあ」という。「それが去年は7ハイや」と、さびしげである。

「ことしは?」 

 「それがあんた」憎むような目差しで司馬をみて、「5ハイになってしもうた」といった。

わたしには、漁港としての業況・現況は、見当も付かない。

釣り人が数人いた。漁網を洗う機械が据え付けてあった。

白鬚神社

全国にある白鬚神社のおおもとという。

琵琶湖水中に立つ大鳥居の写真を見て以前から魅かれて、訪ねてみたかった。(写真右)750

安曇川

この川に沿って、山中車を走らせて朽木に至った。きらきら水が光って、川の中には大きい石がゴロゴロ見えた。旧秀隣寺庭園の話にあるのはこのことかと思った。すなわち「室町貴族のぜいたくというのは、庭石を諸国から曳いてくることだったそうだが、流寓の将軍としては寺の前の川から石をひきあげさせるのが精いっぱい、この世でやれる贅沢だったのであろう。」

朽木渓谷

その「興聖寺」を訪ねる。

興聖寺は、曹洞宗の開祖、道元禅師がこのあたりを訪れたとき、風光明媚な様子が宇治の興聖寺に似ていると感激して、領主の朽木氏にこの地に寺を創建することを勧めたのが始まりといわれる。(写真右:興聖寺から前の川を望む)997

興聖寺

足利将軍の第12代、義晴(151150)が、ほとんど身一つで京を逃げだしてこの朽木谷に身をひそめたというが、その潜居の場所がこの寺だった。

受付けもなく、本尊も拝めず庭(足利庭園)だけを見させてもらった。

旧秀隣寺庭園(足利庭園)

初回に司馬が訪ねたとき、村の人が、くぼう様のお庭です、と教えてくれたとある。(写真右:足利義晴の庭園)943

『街道をゆく』の考察―私なりに考えた

・第一回の街道たる「湖西のみち」は、日帰の取材旅であったように私には思えるのだがどうであろうか。この時、司馬も先々25年も続くとは思っていなかったであろう。中断の危機もあったと聞く。

・取材のスタイルは、第一回から司馬のペースで固まったのではないだろうか?

前記の通り、歴史的、文化的、言語学的、人類学的な考察を織り込むスタイルはその後もずっと続く。

・同行の挿絵画家は3代変わったが、須田剋太氏が20年と最も長く司馬と旅をした。「湖西のみち」は、二人にとって最初の共同作業だ。この旅以降も、須田剋太氏は、よく司馬の姿を描いている。いっぽう司馬も、折に触れ須田剋太氏のことを文中で書いている。多くは、須田のユニークさの描写だが・・・

・同行者の数も、街道にもよるのだろうが、徐々に人数が増え大デレゲーションもあったように聞く。だから、夜は司馬を囲んで酒席が連夜あったようだ。3代目の挿絵担当画家の安野光雅氏にとって、これが、というのは酒ということではなく、座談のうまい司馬ワールド―安野氏いわく司馬曼荼羅―がとても楽しかったようだ。Photo

・また、集大成は、4372街道だが、巻1には、「湖西のみち」、「甲州街道」、「葛城みち」「長州路」の街道が収まる。比較的短い時間の取材旅で各作品も短いからだろう。先々にもこうした複数の街道が収録される巻がある。いっぽう海外の街道に多いが国内でも、「本郷界隈」「オホーツク街道」「北のまほろば」「三浦半島記」などは、単一街道にして大部なものとなっている。