2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト

鎌倉・室町

2019年5月30日 (木曜日)

≪大澤有信の談話室Ⅲ≫「国家はいかに楠木正成を作ったのか」

『国家はいかに楠木正成を作ったのか』(谷田博幸著)
明治・大正・今大戦まで、楠木正成は「忠臣」と崇められていた。その反面、形勢不利を蒙ったのが足利尊氏である。
第二次大戦中、軍隊で上官から出身地を問われ、「栃木県足利市」と答えたら鉄拳制裁を食らったという、笑うに笑えない話がある。
近頃、楠木正成の遺跡がある市町村が連合し、文化庁に日本遺産として申請するなど、楠公再評価・崇拝の動きが見られる。
本書はそれらの現象を含め、楠公父子の事績を冷静に実証・分析している。
Photo_42 Photo_47

『太平記』の中の楠木正成
『太平記』は、後醍醐天皇挙兵から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政とその崩壊、南北朝分裂時期を中心した軍記物語であるが、その卷十一に「楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。…主上御簾を高く捲かせて、正成を近く被召、<大義早速の功、偏に汝が忠戦にあり>と感じ被仰ければ、正成畏(かしこ)まりて<是君の聖文神武の徳に不依(よらずん)ば、微清争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎>と功を辞して謙下す」と、まさに正成、面目躍如、栄誉の輝きの場面が書かれている。
楠木正成はその後半生を後醍醐天皇庇護に捧げた。しかし、南北朝の争いは、北朝側の勝利となり、正成は朝敵となった。その後江戸時代、徳川光圀の命で書かれた「大日本史」では中心として復活している。
Photo_43   Photo_41   Photo_44

臣民の鑑とされた楠公父子
明治以降、教科書において臣民の鑑として最大限に利用された。楠公父子という教材が「修身」や「国史」にとどまらず、「国語」、「唱歌」、「習字」まで教科横断的に組み込まれ、臣民教育の大きな柱となっていたことは、つとに指摘されていることである。
しかし、第一期の国史教科書(明治36年頃)には、楠公父子の忠義振りを讃える文言は一切なく、素っ気ない記述に留まっている。
第二期国史教科書(明治44年頃)になると、両朝併記は甚だ曖昧・不穏当とされ、南朝を正当とする修正版が使用されるようになった。その中での大きな変化は、楠木正成に関する記述である。
いわゆる「七生滅賊」( 七度生まれ変わっても朝敵を我が手で滅ぼさん…太平洋戦争末期に日本の敗戦が濃厚になると “七生報国“ に変えられて戦意高揚に利用された)の大忠臣として、称揚されるに至った。
第三期(大正9年)にいたって、子・正行を勇仁兼備・忠孝両全のヒーローとした。つまり、正行の如く滅私皇恩に報いることが、父母に孝行を尽くすことになると、ここに至って、児童に臣民としての理想を垂範することが国史教育の主目的となり、歴史認識の涵養など二の次、三の次となってしまった。
第一期から第六期に至る国定国史教科書は、第二期の修正版以降、改訂の度に楠公父子への依存度を高め、天皇のため、お国のため身命を捧げることを、臣民の至上命令として徹底させていく方向へと深化を遂げていった。とりわけ、第六期の『初等科国史』は、国史を通した臣民教育というものが、最終的に楠公父子に頼る以外、何の手だても持たなかったことを示していた。
明治以後の歴史教育の行き着いたところは、天皇のため、お国の為と念じ、戦地であたら若き命を散らしていったという状況であり、その目標は、こうなっても不平一つ言わない国民を教育することにあった。

徳富蘇峰は……
徳富蘇峰曰く、日本歴史の根底に流れる皇室中心の思想が、建武の中興となって表れたのであり、「天皇親政こそが我が国の本来の面目」である。その理想は明治維新によって実現されたのであるから、中興は「小さく見れば失敗であるが、大きく見れば大成功であった」  
Photo_46

永井路子は……
大正・昭和初期に於ける軍人・御用学者の記述にうんざりしていたが、永井路子の『太平記紀行』に安慮させられる。
「実を言うと、後醍醐天皇は好きになれない人物だった。これは多分、私たちが育ったころ叩き込まれた吉野朝史観へのアレルギーによるものだと思う。忠臣楠木正成、逆賊足利尊氏、勤王の精神、七生報国…この歴史教育を受けた覚えのある方はおわかりのはず。その声高な主張は、敗戦を機にピタリとなりをひそめてしまった。正直のところ、私はほっとした」
また永井は、楠木正成についてこうも書いている。「戦争中までは、日本史上これほど有名な人物はいなかった。無二の大忠臣・尊敬する人物はと聞かれたとき、彼の名前を挙げておけばまず間違いなし、という極めつきの人物だった。が、その代わり、戦争が終わった時点で、これほど見事に霞んでしまった人物もないであろう。<忠義>というような言葉が消えてしまったとき、その魂のように思われた彼は、途端に影が薄くなった」
Photo_39

菊池寛と直樹三十五
菊池寛「尊氏が、どうして百世の下、なお憎まれものになっているか。それは純忠無比な楠公父子を向こうに廻したからである」(日本合戦譚)
直木三十五「尊氏は成功した西郷隆盛である」と評しているが、「人物としては相当なものである。純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかったところに、彼の最大の不幸があると思う」
Photo_40   Photo_45

最後に司馬遼太郎は……
『街道をゆく 陸奥のみち・肥薩のみち』から 
「河内のイメージというのは時代によってひどく変遷している。戦前の教育では河内はほとんど抽象化されたほどに高貴な山河であった。戦前の河内イメージは水戸史観が神聖英雄としてかつぎあげて、その体系を作り上げる根拠とされた南朝の将、楠木正成の生地ということで出来上がっており、正成がそこに拠って板東の大軍と戦った金剛山、赤坂、千早城といった地名群はもはや単に地名というより、国家論的な抽象性すら帯びていた。(中略) 彼のイデオロギーは、敵であった室町幕府においては悪思想であったが、ずっと降って徳川初期に水戸光圀が主導した水戸史観によって、彼は強烈な正義の座にすえられ、幕末、幕府を倒そうとする志士たちにとって、たとえばマルクスのような存在になり、時には日本における革命の神というべき戦慄的な名前になった。維新後、国史教育は水戸史観を継承したから、正成は日本史上最大の神聖英雄についたが、しかしその寿命は八十年で尽き、太平洋戦争の終了とともに、彼を称揚した宋学的な観念論史観は、戦犯的なものとして追いやられ、それと同時に正成の名は教科書から消えた。あるいは消えたのも同然になった。称揚も無視も、正成の死後、はるか後生に行われた現象で、……」 やれやれ  (擱筆)
Photo_48