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2013年3月26日 (火)

「廣瀬淡窓と咸宜園」(3月の卓話から)

 

平成25317日(日)、第44回「司馬遼太郎を語る会」が東久留米市「まろにえホール」で開催された。130317_302

この日の卓話者は土谷高稔氏である。

司馬さんは、「街道をゆく8」の豊後・日田街道の中で、「日田は高原をなしていわば僻地というに近いが、江戸時代は漢学が盛んで廣瀬淡窓の咸宜園などは全国からこの遠国のそのまた不便な高原の町に子弟が集まり、門人三千人と言われた」と書いている。

土谷氏は、卓話の冒頭で、「九州の一地方にこのような私塾が存在しえたことは、当に当時の我が国の文化水準の高さを表わす証左であり、このような基盤の上に日本の近代化が実現したと言えるが、同時に淡窓自身の教育者としての非凡な才能を見ることが出来る。廣瀬の自律自省の精神を忘れない真摯な生き様と、江戸時代の町人文化の一端に触れてみたい」と口を開いた。906

以下、土谷氏の卓話資料をもとに例会を振り返ってみよう。

右写真は質問者に耳を傾ける土谷氏、クリックすると拡大します)

咸宜園への道のり

「淡窓は、日田の富商の家に生まれ、年少の頃福岡で学んだだけで、そのあとは多病なために江戸に留学せず、日田に帰って私塾を開いた」(街道をゆく8)

(右写真:淡窓の生家跡、現在は資料館)
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養生生活を送っていた淡窓は進路をどうするか大いに悩み、相談を受けた倉重医師は「君には儒者の道に進むしかないではないか!何を迷うことがあろうか!」と叱咤しまた励ました。

倉重医師の忠言で迷いから吹っ切れた淡窓は、24歳の時、「成章舎」と名付けた塾を立ち上げた。

入門者が増えてきたため「桂林荘」を新築、当に咸宜園への揺籃期であり、有名な「桂林荘雑詠示諸生」はこのような中で詠まれ、その「休道の詩」は特によく知られている。(右写真)

   道うを休めよ他郷苦辛多しと

   同袍友有り自ずから相親しむ

   柴扉暁に出れば霜雪の如し   

   君は川流を汲め我は薪を拾わん


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9歳で結婚し念願の独立を果たしたが、35歳時には病状が悪化したことから「五事の工夫」で養生に努めた。{飲食を減ず、情欲を絶つ、薬餌に励む、読誦を省く、陰徳を行う}

桂林荘開設から10年が経ち、場所も狭隘なことや方向が悪いことなどから、秋風庵の隣接地に咸宜園を開いた。咸宜園は明治30年までこの地で80年の長きに渡り存続する。(右写真:復元された咸宜園の中の秋風庵)987

隆盛を誇った咸宜園

「三奪の法」と言われる自由で隔てのない平等主義を貫く。即ち、

①年齢を奪い入門の後先を長幼の序とする、

②身分・出自を奪い平等にする、

③前歴を奪い、塾での履修の多寡や成績を重視する

これは画期的なもので、天領と言う比較的自由な地域特性があったとは言え、淡窓の信念があったからこそできたと言える。130317_525_2

成績は「月旦評」と言われる月々の評価表によって公表され、塾内の上下関係はこの序列によった。言わば実力主義の徹底である。

授業は上位者が下位者を教え、上位者間ではリーダーを中心とする討論方式をとる等工夫に満ちていた。

また詩作を奨励し情操教育にも意を注いた。

「詩は情を述べるものであるから、詩を作ることは人情を解し、文雅で温順な人格形成に役立つ」との考えに基づくものであり、後に塾生の詩を「宜園百家詩」として出版もしている。(右写真は、休道の詩を吟ずるメンバー)


敬天思想と万善簿

淡窓は幼少のころから詩才に富み、長じて菅茶山や頼山陽と並んで江戸後期の三大漢詩人と評されるようになった。

頼山陽とは古くから交流があり、山陽39歳の時、西海旅行の途次日田を訪れ、数10日間滞在して淡窓とも深く交わっている。

淡窓の中心思想は「敬天」であり、主著「約言」の中で「六経(詩経、書経,礼記,楽経,易経、春秋)の旨、一言に尽くすべし、敬天これなり」と述べ、「宇宙の主宰者たる天を敬い、畏れることこそ人の道」と述べている。

更に敬天の究極は「天命を楽しむを以ってこれなり」と述べ、生命あるものは皆、天より命を受けており、その命を安んじて受け入れ、楽しみながら善行を積む姿勢(禍福応報論)を説いている。

「万善簿」は善行と悪行を日々○●に分けて記し、差し引き○が万に達するまで続けるもので、54歳から67歳の12年7カ月でこれを達成している。

経国の書「迂言」「論語三言解」

「迂言」は59歳の時に脱稿しているが、内容は国本,君道、禄位、兵農、学制、雑論の六編からなり、武士階級の無駄の多い事大主義を排し、農兵一体化による合理的な武備のあり方や、学制改革による人材育成を主張する斬新的なものである。

3年前に大塩平八郎の乱があったことから、公表には著者名は伏せる等慎重を期しているが、大村藩、府内藩などを中心にかなり読まれていた。130317_689

28年後に始まる明治新政府の施策の中で、これらの改革が陽の目を見たと言うことは、以って冥すべきことであろう。

ペリー来航等で騒然とした世相の時、府内藩主から海防策を求められて纏めた「論語三言解」では、国内を7,8ヶ所に分け、各地域の雄藩が中心になり国防に当たるべきと提言しているが、これは道州制の奔りであろうか。

 

卓話者土谷氏は、卓話の終わりに次のように締めくくった。

(右写真は例会後の昼食懇談会にて)

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「儒者広瀬淡窓は、文人で権力からも遠い存在だけに華やかさはないが、彼の教育者としての真摯な生き方を見た時に、味わいを越えた畏怖の念すら覚える。「アジア的停頓」は儒教と深く関係すると言われるが、儒教の影響を強く受けてきた日本が何故停頓を免れたのか、更に興味深い課題を考えさせられた。今の時代、いろいろ複雑な社会問題や教育問題が発生しているが、時として歴史を振り返り、原点を見直すことが必要であろう」と。

 

卓話後の、相互の意見交換の時間でも活発な質疑が出された。その余韻は昼食懇親会にまで持ち越された。


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コメント

―広瀬淡窓の生涯と私塾「咸宜園」―と題した土谷さんの卓話は、大変素晴らしかった。私は、昨年7月の北部九州豪雨の直後に日田を訪れ、咸宜園跡や広瀬資料館を見学した。以来この漢詩人も江戸期きっての最大私塾もさらに日田の町そのものも身近に感じられ、卓話を楽しみに待った。私が、「豊後の大先生」たる淡窓を知ったのはやはり休道の詩
で、よく聴いていたNHK「漢詩への誘い」石川忠久先生講義である。
土谷さんが詳しく紹介された広瀬淡窓は、用意された卓話資料の4ページにある≪官府の難≫では、彼自身、旭荘それに家業博多屋を切り盛りした久兵衛もが苦しんだ。塩谷郡代による咸宜園の塾政への容喙であり、旭荘の塾政を辞めさせ、淡窓が再び執れ!と命じられたり、代官所役人の子弟で出来の悪い通い塾生の成績表に手心を加えさせられ、かの有名な月旦評もが壟断された。
この≪官府の難≫を中心テーマに据えて、直木賞受賞作家で九州に住む葉室麟が小説にしている。「霖雨」(長く降り続ける雨の意)である。(2012年5月 PHP研究所刊)
フィクション部分ではあろうが、元広島藩士臼井佳一郎とその義姉・千世の咸宜園入門や、いろいろあって咸宜園を退塾した臼井が大坂で大塩平八郎の洗心洞に入門する。やがて大塩の乱に関わって、乱後はお尋ね者となって日田に戻って淡窓に匿ってもらおうとする。読む楽しみを奪ってはいけない。この辺でやめるが、人間・広瀬淡窓のみならず、兄を敬い一緒になって苦労する久兵衛の人間性あふれる姿が描かれている。
塩谷代官の失脚で≪官府の難≫も終焉し、晴れをみる関係者であるが、読後感の良い作品である。一読をお勧めしたい。

「休道の詩」について、参考までに、意味するところを深野浩一郎著『廣瀬淡窓』から引用させていただく。
   道(い)うを休(や)めよ他郷(たきょう)苦(く)辛(しん)多しと
   同袍(どうほう)友有り自(おの)ずから相(あい)親(した)しむ
   柴(さい)扉(ひ)暁(あかつき)に出(いず)れば霜雪(しもゆき)の如し
   君は川流(せんりゅう)を汲(く)め我は薪(たきぎ)を拾わん

他郷での勉学は辛いことが多いと弱音をはくのはやめにしよう。
一枚の綿入れを共有するほどの仲の良い友達もできて、自然と親しくなってくるものだ。
朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、真っ白に降りた霜はまるで雪のようである。
その寒さの中、朝の炊事の為君は小川の流れに水を汲んで来たまえ、僕は山の中で薪を拾ってこよう。

司馬さんは、「私どもが旧制中学のときに、たいていの漢文教科書に廣瀬淡窓が、その塾生の気分を詠じた詩が載っていたように思う」(街道をゆく8)として、この詩を紹介している。

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