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2014年6月17日 (火)

『韃靼疾風録』に見る十七世紀の北東アジア(6月の卓話から)

「第59回司馬遼太郎を語る会」748_2
6月8日(日)、於:東久留米市立「まろにえホール」(生涯学習センター)
卓話者:栗 岡 健 治 氏
テーマ:『韃靼疾風録』に見る十七世紀の北東アジア

「韃靼疾風録」は、『中央公論』の連載をまとめて1987年に刊行された。
この作品以後、司馬遼太郎はエッセイや評論活動に終始し小説は書いていないのでこれは司馬の最後の小説である。(右写真、クリックすると拡大します)

卓話者栗岡氏は、冒頭に「この小説は、文明が衰退した明とそれに挑戦する女真との間に激しい攻防戦がおこり、中国風の清と名乗った女真族が、文明が衰退した明に取って代わり中国本土に政権を打ち立てる歴史を扱う」と時代的背景を語る。(右写真:卓話する栗岡氏)140608_549

そして、「十七世紀の歴史が裂けてゆく時期」に、創作上の人物である平戸武士桂庄助と女真の公主アビアが登場するのであるが、「実在と架空人物のつなぎ目を感じさせないように描かれており、円熟した巨匠作家が最後に残した長編」とした上で、「私の経験では、スルメいかを噛むように読むたびに<虚構の組み立てが堅牢>であることが確認でき感動した」といささか興奮を気味に語った。

「韃靼疾風録」のカバー裏にはこう書かれている。

「なぜか九州平戸島に漂着した韃靼公主を送って、謎多いその故国に赴く平戸武士桂庄助の前途になにが待ちかまえていたか。<17世紀の歴史が裂けてゆく時期>に出会った2人の愛の行方を軸に、東アジアの海陸に展開される雄大なロマン」(上巻)140608_669

「<野蛮の勃興こそ歴史の跳躍台である>。文明が衰退した明とそれに挑戦する女真との間に激しい攻防戦が始まった。世界史を切り開く動乱に翻弄される韃靼公主アビアと平戸武士桂庄助を中心として様々な人間が織りなす壮大な歴史ロマン」(下巻)

小説の柱は、庄助とアビアの目を通して見る中国の覇権争いといってもいいのではないか。

この小説で扱われる時期について概観しておこう。

「中国の東北地方には、農牧・狩猟生活を営む女真が住み、明の支配を受けていたが、この地方でも薬用人参や毛皮の交易が盛んになり、その利益をめぐる女真諸部族相互の争いが激化した。
そのなかで16世紀末、ヌルハチが自立して女真諸部族を従え、1616年に建国して国号をアイシン(満州語で金の意)と定めた。
第2代の太宗ホンタイジは内モンゴルのチャハルを従え、支配下の満州人・漢人・モンゴル人におされて
1636年に皇帝と称し、国号を清と改めた。(右写真:後金・清の首都瀋陽)564
このように
16世紀後半から17世紀の前半には、北虜南倭に続いて、朝鮮半島や東北地方にも戦争がひろがり、明は軍事費の増加のために財政難に陥った。1644年に明は李自成の反乱軍に北京を占領されて滅亡した」
「李自成が明をほろぼすと、長城の東端の山海関で清軍の侵入を防いでいた明の武将呉三桂は清軍に降伏し、清軍は長城内にはいって北京を占領した。北京に遷都した清は中国全土へと支配を広げた」(高校世界史教科書)

栗岡氏は登場人物を創作上の人物(★)と歴史上の人物を区分けして整理している。
これを手元において作品を読むと大いに理解の手助けになる。
以下はその一部である。

★桂庄助

本作品の主人公。中国大陸における明末・清初の激動を読者に代わって体験する仕掛けになっている。
肥前・平戸藩士、祖父とともに、法印松浦鎮信
26世の服喪中に騎乗したとして罰を得、平人におとされ、片鬢を剃られた。
祖父道喜は資格がないのに殉死 アビアの平戸・度島漂着を機に藩に帰り新参、藩主にお目見えも叶う。
アビアを韃靼に送り届けるよう藩命を受けてかの地に渡海する。

★アビア861

桂庄助の妻になる韃靼公主、平戸・度島に漂着。
平戸藩は彼女を藩主松浦家の連枝として扱う。
桂庄助を道連れに韃靼に帰る。政争のため父母兄は殺されていた。
アビアは、漂流し平戸にいたため難を逃れたが、本来は、帰国時殺されるところを日本差官桂庄助の妻ということで免れる。
帰国した女真の地には自分を容れる場所が無いとして日本に戻ることを希望し“夫”桂庄助にねだる。(右写真:女真服)

睿親王ドルゴン

順治帝の摂政であり義父とされる。清王朝初期の興隆の貢献者。
山海関入関をなし遂げる。
明帝の弔い戦として、呉三桂を使い、李自成を討つ。
漢籍に明るく詩文もよくする。生母をヌルハチに殉死させられた。

順治帝 

清の第3代皇帝、愛新覚羅福臨、ホンタイジの次男。
親政までは、叔父(野史では、実母のドルゴン降嫁によりドルゴンが義父になる)ドルゴンが摂政となる。

★福良弥左衛門

桂庄助と同時期に藩命を受けて蘇州に駐在。蘇州は曾遊の地。Photo
明人は、フーリャン(福良)と呼ぶ。
桂庄助と平戸出港後、3年5年7年後に会う約束の澡塘子へは、鎖国令の出た
1633年に初めて姿を見せる。
祖国に捨てられたとして、中国に骨を埋める気構え。
虚構では、陳円円を育てたことになっている。彼女とともに道士になる。(右写真:蘇州の拙政園)

ホンタイジ 

ヌルハチの第八子。清(後金)の第2代皇帝清、在位期間16261020 - 1643921日。
庄助が女真の地にある間のほとんどの期間約17年間の皇帝、第3代皇帝・順治帝の父。
「後金」の国号を廃し「清」を称する。

李自成 

流民軍の首領 順を建て、北京城に入る。
清・呉三桂軍に敗れ、追われ滅びる。

松浦宗陽 

平戸の松浦氏第28代当主。肥前平戸藩第3代藩主。973
曽祖父(松浦隆信
(道可))と同名を名乗る。
2代藩主松浦久信の長男。母はキリシタン大名大村純忠の娘ソニカ(松東院)。
幼少時に父によって受洗したが、その後江戸幕府の禁教令により棄教している。

庄助に韃靼行きを命じる。
言葉(この作品)「なるほど、明人がいうとおり、庄助には古倭のおもかげがある」「予が、そちのあるじである。以後、従え」「度島でそちが拾った娘、そちがかの国へ送りとどけよ」(右写真:松浦宗陽の墓)

 光啓 

暦数学者。有名なキリスト教徒。
「農政全書」を編む学者であり高官にもなる。
キリスト教布教のために大学者としての評判を得ようとするマテオリッチと交流。
洗礼を受ける。

鄭芝龍 

鄭成功の父親 平戸を根拠にアジアに勢力を張った海獠 

鄭成功 907

鄭福松 鄭芝龍と平戸藩士の娘・田川まつとの間に生まれる。
海獠の貴公子 反清復明の情熱強く、清に降った父とは異なる生き方をする。
日・中・台湾でも人気がある著名な人物。
近松門左衛門「国姓爺合戦」主人公。(右写真:鄭成功廟・平戸)

栗岡氏は日本と中国の思想史にも言及した。

「司馬が評価していたのは合理的な武士の精神(リアリズム)であり、とりもなおさず全編をとおして桂庄助の行状にそれは表われている。
一方で司馬は、日本史に狂気と厄災を齎す外来思想である朱子学(イデオロギー)をマイナス評価していた。
朱子学(イデオロギー)は中国・朝鮮からの舶来思想であり、日本思想史における諸悪の根源とした。
司馬遼太郎の出発点は「鬼胎」である昭和国家が思想的に何処から由来するのかという疑問から発している。
近代日本を発狂させ国家を破滅に導いた思想は超国家主義であり、その実体は朱子学(イデオロギー)と断定している。13世紀に輸入された宋学、その尊皇攘夷思想の空理空論が明治末年の左翼思想に転生し、それに対するカウンターとして右翼思想が現出し、骨肉相食む両者の死闘が明治という国家のリアリズム精神を破壊したという説明をしている」

栗岡氏は卓話に先立って、平戸を訪ねたと言う。平戸は司馬さんが好んだ土地柄のようでもあり『街道をゆく~肥前の諸街道』に記している。
写真はいずれも栗岡氏の提供によるもの)

614_2

「ポルトガル人につづいてスペイン船も来たことがあり、英国船も一時期ながら商館を持った。しかし、英国人より四年前にやってきたオランダ人がもっとも熱心にこの島との貿易に執着した」(肥前の諸街道:平戸の蘭館)
(右写真:オランダ商館倉庫跡)

「往時の蘭館の名残は、かれらが屋内で使用した大きな井戸、館長の公舎への石段、それにその石段から他を目隠しするためのぶあつい石とシックイの塀ぐらいが残っているのすぎない。他に埠頭の一部が残っている。海へ張り出した埠頭の石垣も、当時のままであるに違いない」(肥前の諸街道:平戸の蘭館)(右写真:オランダ埠頭、左写真:オランダ塀)463 859

「明末の海賊である王直については、被害を受けた中国側に文献が多い。『閩書』に、<王直・毛烈は亡命して海に入り、倭の嚮導となる>とある。王直、明の徽州(今の安徽省)の人である。年少の頃は科挙を受験すべく勉強したのか多少の教養があった」

「日本にポルトガル船をひっぱってきたのは、王直であった。……彼は傭船したポルトガル船に乗り、日本を目指してやってきたが、日本海の名物である暴風雨に逢い、種子島に漂着した。ポルトガル人が持っていた鉄砲二挺が種子島に伝わるのはこの時で、……」(肥前の諸街道:印山寺屋敷)(右写真:王直居宅跡)672

 

卓話のあとの昼食会でも話題は尽きなかった。

(左写真:昼食時の様子、左から二人目が栗岡氏)

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コメント

これで最後とする。

“卓話者の良心”をもって、K氏へ最後の親切のつもりで書くが、K氏は、自分がこんな質問をしたことも、すべて忘却の彼方ではないか。K氏は、私より長く「司馬遼太郎を語る会」に関わっていながら、不思議なことに、司馬作品を読まない人なのだ。聴いた卓話と配布された資料だけで、その場限りなのだ。

以下は、我が卓話資料から、K氏の質問の対象になったパラグラフ全貌を再現した。K氏は、苛立ちをもって、ここを説明してくれと来た。ここというのは、一部でなく、全部なのだ。自分の考えや、どこまで分かったとも、ここが分からないという特定もしない。むろん『この国のかたち』は読んではいまい。だから、全く理解不能なので、苛立つのだ。K氏のような人は珍しいが、こんなことを質問する参加者につかまると、卓話者は無防備で困惑極まりない。

Blog上で、既に解説したところを除き、『この国のかたち』から司馬の重要な主張を抜き書きする。(①~③はK氏が理解できないところ。パラレルの➊~❸はその解説とする)また、『この国のかたち』には、通しの項番が1から121まである)

「7.司馬遼太郎が語る 明・朝鮮・女真、華夷論、宋学(朱子学)」
司馬遼太郎が日本思想史に関して多く書いていたことに照らして『韃靼疾風禄』のこのあたりを考えてみる。司馬が評価していたのは合理的な武士の精神(リアリズム)であり、とりもなおさず全編をとおして桂庄助の行状にそれは表われている。一方で司馬は、

① 日本史に狂気と厄災を齎す外来思想である朱子学(イデオロギー)をマイナス評価していた。朱子学(イデオロギー)は中国・朝鮮からの舶来思想であり、日本思想史における諸悪の根源とした。

2「朱子学の作用」
『朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって、弊害をよんだ。とくに李氏朝鮮の末期などは、官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値論に固執して、見様によっては朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほどに凄惨な政治事態が連続した。

68「宋学」
『「宋学(たとえば朱子学)が、国をほろぼした」と、敗戦直後、病床の中国学者の君山狩野直喜博士が、旧主筋の細川護貞氏に言ったそうである。』
『君山の昭和イメージをあえて我流に解説すると、まず朱子学(宋学)は空論だという。また、日本人の空論好きは宋学からきているという。その空論好きは明治人にはあまり見られず、昭和初年ごろから濃厚になった。昭和軍閥が、脾弱な国力を激情的な空論でごまかし、空論で他を論じ、空論で自己を肥大させたのは異常としか言いようがないが、江戸期以来の朱子学的思考法の本卦がえりといわれれば、そうとも思える。狩野君山は、そのことを言いたかったのである。』

② 司馬遼太郎の出発点は「鬼胎」である昭和国家が思想的に何処から由来するのかという疑問から発している。近代日本を発狂させ国家を破滅に導いた思想は超国家主義であり、その実体は朱子学(イデオロギー)と断定している。


2「朱子学の作用」   
『が、日本でも一ヵ所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈殿して行った土地がある。水戸だった。』
『ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆすぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)。』

3「“雑貨屋”の帝国主義」
『君はなにかね、ときいてみると、驚いたことにその異胎は、声を発した。「日本の近代だ」というのである。』
『参謀本部については、つぎに譲りたいが、ともかく明治憲法下の法体系が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じがある。といえば、不正解になる。』

81「別国」
『ただ、昭和5、6年ごろから敗戦までの10数年間の“日本”は、別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。』

③13世紀に輸入された宋学、その尊皇攘夷思想の空理空論が明治末年の左翼思想に転生し、それに対するカウンターとして右翼思想が現出し、骨肉相食む両者の死闘が明治という国家のリアリズム精神を破壊したという説明をしている。


2「朱子学の作用」
『しかも、明治後、教育の面では、江戸期の日本的な、“諸子百家”の思想までが教えられることがなく、ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた。』

5「正成と諭吉」
『とくに維新後、尊王が拡大され、イデオロギーの常として、善玉と悪玉が設けられた。マルキシズムもふくめて、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり、論断したりするときには、幼児のようにあどけなく、残忍になる。』

68「宋学」
『12世紀末の中国の朱子学が、意外なことに、19世紀の日本の近代革命に功を示したといえる。むろん、半面の罪は、昭和期の軍や左翼勢力の空論好みを生んだことといえるのではないか。』

(以下は、既に詳しく説明した)
そうした朱子学(イデオロギー)の“狂気”の一端は、この小説では皮島の沈倫承や天祥先生の行状に出ていると考える。(ここは詳しく説明した)
(以上)

「諸悪の根源とした。」「断定している。」「という説明をしている。」いずれも主語は、司馬遼太郎である。だから質問を受けて説明しようがない。こんなことを質問する参加者に卓話者は無防備で困惑すること極まりない。
繰り返しになるが、(栗岡)「一方こちらは司馬の考えにどっぷり浸かってしまっている。ただしどっぷり浸かるまでには、理解して司馬の考えに肯じたということだが。」何度も噛みしめて読んだ。K氏には、この辺りのことを真面目に学習して欲しい。

この項で、もう一つ、昭和国家=「鬼胎」論の前に、基本的な、〈朱子学の空理空論性〉のことがある。

『韃靼疾風録』では、司馬が華夷論、宋学(朱子学)をいきいきと語ったのではないだろうか。
言い換えれば、朱子学の空理空論性の具体例、卑近な例をこの作品で示したものだというのが私の持論である。

このこと姉妹Blogの『歴史に好奇心』の「司馬遼太郎を語る会」の卓話を聞いて(28年4月~6月)に、2016年5月29日付けでコメントつけています。

ついでながら、K氏が発した訳のわからぬ質問『「韃靼疾風録」は「韃靼漂流記」を“下敷きにしている”ということだが、「韃靼漂流記」はどんな内容か?についてもそこに解明しておきました。

【ある思い出】

私が卓話を終えると待ってましたとばかりに『ここのところを説明してくれ!』と苛立ちを交えてK氏が質問した。本文中の「栗岡氏は日本と中国の思想史にも言及した。」の部分だ。

こんなことを質問するK氏に驚愕した。普通の人はこうした場合、分からずとも質問しないだろう。恥をかくのが怖くて、後で自分で調べるだろう。卓話者も困る。司馬の持論であり、あちこちで書いている。説明するもなにもない。司馬が考えていたことなのだ。

『この国のかたち』には、この朱子学(宋学)と統帥権論が何度も出てくる。K氏は司馬作品をまともに読んだことがない人。このあたり彼の眼に触れることはなかったろう。一方こちらは司馬の考えにどっぷり浸かってしまっている。ただしどっぷり浸かるまでには、理解して司馬の考えに肯じたということだが。

K氏には、こんな脇道に立ち入らず『韃靼疾風録』をそのまま味わって欲しかったが、彼は生涯これを読むことはないだろう。先の歴史シンポジウムで、パネリストの私は「司馬の3作品を選ぶ」にも『韃靼疾風録』その一つに挙げ、推薦する作品にも挙げた。シンポジウムに参加しないK氏のこの事が頭をよぎった。

「司馬遼太郎を語る会」の会報「たいまつ」は、会員が司馬作品についてのこと、随想、短歌・俳句・川柳などを投稿し年に一度この時期に発行される。本日、第五号が発行された。

和田惠理子さんが《「韃靼」にさそわれて」》と題して一文を寄せておられる。「ダッタン」の小気味よい響き「韃靼」の力強いイメージに魅かれて関係テレビドラマで異郷への想像を掻き立てられた、安西冬樹の詩の一節「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡っていった」がその極め付きであったとも。

司馬遼太郎「韃靼疾風録」は刊行時に真っ先に買って読まれた由。月日が流れ、私の卓話予告のポスターで、韃靼に再会し司馬作品の魅力を再び喚起させられたと書いておられる。

卓話者冥利に尽きることでまことにありがたい。私も、別の関心もあったとはいえ中国東北部を旅し、平戸を訪ねこの作品の魅力に浸った。辺境好きの司馬遼太郎のこの作品、鄭成功まで登場させたスケールの大きい作品でありまた読み直して味わってみる気になった。ありがとうございました。

北村 様
『韃靼疾風録』に関心をもたれ、ブログへのコメントありがとうございました。
栗岡氏は卓話の冒頭で、「世界史を切り開く動乱に翻弄される主人公を中心として、様々な人間が織りなす壮大な歴史ロマンだ」と語りました。
お二人のやりとりを拝見しながら、その時の卓話のことを思い出しています。

774北村様

私のコメントは、前回で終わりの筈でしたが、『大変なお願いをした』とか、『ご迷惑をおかけした』とか、『こころからお詫び・・・』とか繰り返し書かれていますので、こうして本当の最後のコメントを書いています。かえって恐縮します。そんなことは全く気にしないようにお願いします。しばらく以前の卓話でしたが、こうして掘り起こしていただいて、年の初めに、図らずも思い出したり、俳句の鑑賞をさせていただきました。また「韃靼疾風録」が、病床の北村様を楽しませ励ましたこといいお話です。この作品は、1987年の暮れに、書店に平置きされて売り出されたので、北村様が読まれたのは、発売後1年-2年と比較的新しいうちだと思います。実はわたくしこの年ロンドンより年末年始に一時帰国し「韃靼疾風録」上下2巻を任地に持ち帰ったものの全く読まずに、その2年半後の帰国時の引っ越し荷物となり、更に積んどく状態であったので、北村様のほうが先に読まれたことでしょう。
このコメントは以上ですが、お住まいにもよりますが、当会の毎月開催される例会に、もし参加いただけるのあれば幸甚です。案内はこのサイトで予告されますので是非。

栗岡様

それは26年も前のこと入院中の私を楽しませてくれた一冊の本それが韃靼疾風録でした。
記憶に間違いなければ訳ありの孤児で、けれど愛されて育ち夢と希望と恋と愛と羨望と裏切り絶望と思考等等 主人公が持つべきそれらを疾風という青春の耀ける時に載せて小説は進み
ラストは自ら欲する新たな希望に身を投じていくのではなかったかと思います

そんな思い出が私を揺すり、“馬肥ゆる”ですと告げられた時、書こうと思ったのでした。
思考の果てに詠みましたのは風を駆るだったのですが、いずれにしてもその句会で没になってしまったのですから溝に捨てられたのと同じ拾い上げてどうしようと構わないのです。

トキヲカル ダッタンノコウヤ アキノコマ です。

司馬遼太郎記念館を検索、電話対応の人は割と横柄で、個人の投稿コラム欄は設けていないとのこと、 疑問でした。買って呼んだのは国家でも企業でもない私的或いは公的団体でもない、
私が個人がお金を出して買った物なのに…
その句を聞いてあげても良いですけど、と言われましたが遠慮致しました。

きっと他にもいる、そう思って検索しておりましたら、御会のコラムを読み載せて見ようかと
悩みながらも送信いたしました。
大変なお願いをしてしまいました申し訳ありませんでした。
心からお詫び申し上げます。本当にごめんなさい
満ち足りた感想鑑賞に深々と感動しております。

ご迷惑をお掛けしましたが“嗚呼これを詠んで本当によかった”と思っております。

     774  北村

謹賀新年
 
 栗岡様ありがとうございました。
 本当に心から感謝しております。
 
 この句を詠んでよかったと思っていますが
 同時に大変なご迷惑を掛けてしまいました。
 申し訳ございませんでした。

 改めてお詫びと、その経緯を明記致します。

 774 北村と申します。
 

栗岡です。最後のコメントとします。
774様は、句を「詠む」と韃靼疾風録を「読む」とを使い分けられていますね。

『感想句というのは、読んだ人にしか分からないものですね』 であれば「韃靼疾風録」を読んで卓話をした私は分からないといけない。

そこで読みを《ときをかける だったんのこうや あきのこま》としましたが、よろしいでしょうか?
この読み方で、
蒼天(蒼穹?)の下、騎馬の集団が荒野を疾駆していく。そうgallopでしょう。必ずしも征戦ではなくあるいは狩猟や矯める目的の調練かもしれません。この風景、悠久の時の流れの一瞬をとらえて切り取ったもの。いい情景ですね。そして「韃靼疾風録」には『女真馬は日本の馬にくらべて脚が太く、馬格はわずかに小型ながら、人を乗せるために天が生んだような動物で、長時間はげしく乗っても休息を必要とせず、坂路も坦路もかわりなく駈けまわる。』とありました。若き頃から辺境に憧れた司馬遼太郎らしい作品ですね。最後の小説にとって置いたのでしょうか?

774様

再び栗岡です。『感想句というものは、読んだ人にしか分からないものですね。』
と書かれているので、「韃靼疾風録」と《刻を駆る韃靼の荒野秋の駒》についてじっくり考えてみました。季題の「馬肥ゆる」ですが、昔、中国では北方の騎馬民族の匈奴が収穫の秋になると大挙して略奪にやってきたので、前漢の趙充国はそれを見抜き、「馬が肥ゆる秋には必ず事変が起きる、今年もその季節がやってきた」と警戒の言葉として使ったということを知りました。匈奴が滅びた後は現在の意味「天高く馬肥ゆる秋」で使われるようになった由です。
匈奴は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族。紀元前209年 - 93年は遊牧国家を建てました。歴代の中華王朝と攻防がありました。

一方、「韃靼疾風録」は、舞台は満洲の地で女真族です。この民族は、歴史上、1115年に遼から自立して金を建国。同じ民族が1616年には後金を建てましたが、これこそ「韃靼疾風録」の背景です。女真族は、遊牧ではなく狩猟プラス副業の(主に流入してきた中国人を使った)農耕ですが、狩猟に馬は欠かせません。この「感想句」(というのでしょうか?)一読時よりずっと理解できるようになりました。

774様
卓話をした栗岡です。
コメントをありがとうございました。私はできませんので、短歌にしろ俳句にしろこの日本の短詩型を難なくこなせる才能に憧憬があります。この卓話は私がやった5本の卓話の3番目で、もうだいぶ経過しましたが、卓話の直前に行った桂庄助の生まれた平戸のことは今も鮮やかな思い出となっています。さらに貴方(貴女?)が句に詠み込んだ「駆る」「荒野」「駒」では、卓話の頃読んだ「韃靼の馬」と平戸に続いて行った対馬を思い起こしました。鑑賞にも自信があるわけではありませんが、懐旧の機会を与えていただきました。

 初めまして、

 俳句を初めてまだ半年の私ですが、去る10月に”馬肥ゆる”を兼題に句を詠むに参加しました。

  
  
 感想句というものは、読んだ人にしか分からないものですね。

 わたしは韃靼疾風録を読んだので、こんな風に描いてみました。


 
        刻を駆る韃靼の荒野秋の駒

774
   

平戸の余韻がまだ残っている。
・平戸の代表的景観は、ザビエル記念教会と光明寺、瑞雲寺が交差して見える“寺院と教会の見える風景”であるが、このあたり勝尾岳の中腹を歩いていると松浦宗陽の墓があった。ここに眠る人が庄助に『度島でそちが拾った娘、そちがかの国へ送りとどけよ』と言ったのかと本気で考えてしまった。思えば庄助は架空人物であった。
・鄭成功の生家あとに、昨年25年7月14日(成功の誕生日)に開館した真新しい鄭成功記念館がある。記念館の横には鄭成功が手植えしたとされるナギの木があった。
また、近くの千里ヶ浜には、母親田川マツが産気づいて鄭成功を産んだという児誕石もあった。
・鄭成功は、反清復明に力をつくすが、1645年には母マツが日本から泉州に移り住む。1646年には清の攻撃により泉州城が陥落し城内にいた母は自害するというように歴史が展開する。
・ときに平戸で、宿の大浴場は「倭寇の湯」という名であった。

追伸のつもりの3点
その① 司馬の「私は片鬢庄助の数奇な半生について書こうとしているのだが、庄助という小さないのちを載せているこの島の来歴について触れねば、罪によって片鬢を剃られているこの若者の身辺にまで至りにくい。」に誘われ、卓話をする直前に平戸に行った。
その② 福井県坂井市の「みくに龍翔館」に行ったことがあるが、『異国物語』(「韃靼漂流記)とも)に関してメール照会したところ学芸員の角さんから返信があった。
さて寛永21年の三国新保村の竹内藤右衛門らの韃靼漂流についてですが、
弊館常設展2階に、漂流から帰って幕府から事情聴取を受けて、その見聞をもとに書かれた『異国物語』が展示してあります。
また直接、寛永期の韃靼漂流に関係するものではありませんが、
新保春日神社に奉納された船絵馬で、嵐の中、遭難しかかっている船を描いた船絵馬も同じコーナーに展示してあります。これは、危うく海難をまぬがれた船乗りたちが奉納したと思われます。今と違って、当時の船乗りたちの航海は、いつ難破・沈没・漂流するともわからない、命がけのものだったようです。
その③ この小説には英訳本がある。
The Tatar Whirlwind 訳者Joshua Fogel うまく訳してあり感心したが、それもそのはず、訳者として適任者で、経歴は
コロンビア大学Ph.D 教鞭は、ハーバード大、カリフォルニア大サンタ・バーバラ、カナダYork大で、比較東洋史が専門で京都大留学、この方面の日本人の友人知己も多いようだ。

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