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2018年12月 4日 (火)

陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について(12月の卓話から)

12月2日(日)、東久留米市生涯学習センターで「第112回司馬遼太郎を語る会」を開催しました。181202_737
テーマは、「陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる明石工作について」~『坂の上の雲』「大諜報」に触発されて~
以下の記事は卓話者栗岡健治氏によるものです。

はじめに
いつのことだったか。『坂の上の雲』を読んで文庫巻6「大諜報」に、それまで描かれていた戦闘場面とはうって変って、明石元二郎大佐のスケールの大きい欧州での諜報活動が描かれていることにひどく驚いた。しかも明石元二郎のことを「一種異様な人物」としている。明石大佐の残した『落花流水』や類書も読み、いつか卓話の機会があったら、明石元二郎とその対露工作のことを取り上げようと考えた。(写真左:『落花流水』の表裏表紙)888

明石元二郎の生い立ち
・福岡藩の大組の家系で、父・明石助九郎は勤王派であったが、幕末の政争に巻き込まれ自決する。171
・明石家は、困窮するが母秀子は、子女の嗜みで習った和裁、刺繍の賃仕事で暮らしを建てた。
・元二郎は、旧藩の「黒田奨学会」の世話で上京し、やがて士官学校に学ぶ。
・学業は、フランス語が27人中1番、漢学と算術もほぼ上位と優秀であった。
 図学は、鼻水を啜った手で汚すため劣等の成績だが、実際は彼の才能で最も優れていたのが絵画および用器画で、その構想力とその描法の精緻さは常人の域を脱していた。
・明石は射撃が得意で競点射撃は優秀な成績を修め、特に器械体操が最も得意であり、乗馬も得意としていた。
・服装に鈍感で、明治初年の粗大な気分のなかでこそ、彼はかろうじてゆるされた。(「大諜報」)

陸軍でのキャリア なるべくしてなった情報将校
・明石を見出し育てたのは、インテリジェンスの父といわれた川上操六。台湾、仏印視察に明石を同行させ、米西戦争のマニラに観戦武官として派遣する。
・明石はドイツ留学を命ぜられているから、陸軍の首脳はこの男をよほど買っていたのかもしれない。(「大諜報」)181202_839_2
・明治34年には駐仏公使館付武官を命ぜられているから、陸軍は、どうやら明石の才能 にある種のものがあることを知っていたようでもある。(「大諜報」)
・明治35年、陸軍は明石に駐露公使館付を命じているから、陸軍がかれに期待している ところはどうやら諜報にあったらしいことがわかる。(「大諜報」)
・開戦の直前、東京の児玉源太郎は、ペテルブルグにいる明石元二郎に電報による秘密命 令を発した。この内容がどういうものであるか、いま知るすべもないが、「ロシアにお いて革命指導をせよ」ということであったのはほぼまちがいない。(「大諜報」)
・明石は開戦前、これらの不平党に資金援助をすればおそらくロシアはその内部から崩壊するか、崩壊しないまでも極東において大戦をおこなう余裕をうしなうにちがいないと 意見具申していた形跡がある。(「大諜報」)

4つの明石工作
破壊活動
極東へのロシア派兵を妨害する目的でシベリア鉄道の爆破を画策した。小さな成功を見たが、ロシア側の警戒と対応で、効果少なく中止する。

反乱幇助
司馬遼太郎は、「その後明石の名を高からしめた反乱用の兵器の購入という大仕事」と書いている。のジュネーブ会議の秘密決議に基づくペテルブルクへの武器の搬入のことである。 
武器輸送のため中古汽船「ジョン・グラフトン号」購入。オデッサに銃8500丁、バルト海経由サンクト・ペテルブルグへ16000丁の搬入を画策。
明石、シリアクスらは、大量の武器の購入に手間取り当初の6月から8月中の武装蜂起へと変更を余儀なくされたことから、ポーツマスでの日露講和会議の進行と微妙な時間競争になる。(写真右:シリアクス)
更に、武器受け取り役のエスエルが、3月末に大量逮捕されたり、武装蜂起の主体となるガポン組合も幹部の逮捕や地下潜行により弱体化した。また、武器搬入の航海は、ロシア側に発見されたり座礁したりで武器の一部が没収された。最終的には武器が不平党・反抗党に届いたが日露講和の後になった。

Photoポーランド兵脱走作戦
ロシア兵の中には多くのポーランド兵が含まれていた。ポーランドにとっては、憎むべきロシアのために戦場で忠誠を尽くさねばならない馬鹿らしさ。何の怨恨も無い日本兵をポーランド人が殺さねばならない理由も義務もない。友愛の対象として感じている日本兵の銃剣によって可憐なポーランド人の若者が殺されているが、このようなことがあってよいであろうか。
ポーランド社会党も同国民同盟も、代表や代理等が来日し、ポーランド兵への投降勧誘文書配布を提案。日本には投降兵の鄭重な扱いを要請。日本はその通りにしポーランド国、人の親日姿勢が今に至るも続いている。ただし、ロシアがポーランド兵を分散させるなどしたため効果は長くは続かなかった。

反帝政ロシア国際会議開催(パリ&ジュネーブ)181202_809
【190410月、パリ連合会議】 
反帝政ロシアを掲げるロシア国内外の政党や団体を糾合し、運動を煽ることで、ロシアの政治体制を転覆させようとした。
パリ会議参加政党(  )内は、特記すべき参加者のみ
1)解放同盟(ストルーヴェ)
2)ポーランド国民同盟(バリツキ、ドモフスキ)
3)フィンランド抵抗派(シリアクス、レオ・メケリーン[オブザーバー]
4)エスエル(アゼーフ)
5)ポーランド社会党(ヨトコ)
6)グルジア革命的社会主義連邦派党(デカノージ)1905_2
7)アルメニア革命連合
8)ラトヴィア社会民主労働党
1)~(3)は、非社会主義派、(4)~(7)は、エスエル系、(8)は、ロシア社会民主労働党系
参加した諸党が将来起こすべき共同行動は決められなかった。個々の政党が、今後の具体的な活動計画を披露した。
1)解放同盟、11月にゼムストヴォ大会を開催して、普通選挙を訴える。
2)エスエル、非常手段(テロ行為や武装蜂起)
3)グルジア党、アルメニア革命連合、テロ行為
4)ポーランド社会党、(武装)デモ
 シリアクスは、消極的抵抗だけを続けるフィンランドの立憲主義抵抗派と袂を分かち、テロや武装蜂起も厭わないフィンランド積極抵抗党を結党し代表になる。

181202_420

190411月~12月 パリ会議以降の専制の動揺】
このパリ会議以来、情勢は一変した。激烈な革命運動が各地でおこりはじめたが、最初に矢を放ったのは、マルキシズムを奉ずるポーランド社会党であった。主要都市でゼネ・ストを指導し、そのはげしさは、鎮圧のために軍隊も出モスクワ、キエフ、オデッサなどで学生や労働者によるデモが頻発、言論による行動を担当する自由党は、その地盤とする州会、郡会、あるいは弁護士会や医師会において頻度高く政府攻撃大会を催した。
19051月~革命の始まり】
明治381月からのロシアの社会不安はそれ以前に対してあきらかに画期的段階に入っている。
19051月ネヴァ河の河祭事件は、偶発事故ながら、「血の日曜日」の惨劇につながる。 神父ガポンに率いられたデモ参加者は、聖像と皇帝の画像を抱えて請願のため行進。
コサック騎兵のサーベルと近衛連隊の歩兵部隊の一斉射撃を受ける。

1905 4月、第2回連合会議(ジュネーブ)】
「血の日曜日」後ロシアを離れ亡命したガポンの名前で諸党に招待状を送る。
ジュネーブ会議参加政党(  )内は、特記すべき参加者のみ
1)エスエル(ブレコシフスカヤ)
2)ポーランド社会党(ヨトコ=ナルキェーヴィチ)
3)フィンランド積極抵抗党(ヒュールイェルム)
4)ラトヴィア社会民主同盟
5)白ロシア社会主義フラマーダ
6)グルジア革命的社会主義連邦派党(デカノージ)
7)アルメニア革命連合
8)ボリシェヴィキ(レーニン)
9)ブント
10)ラトヴィア社会民主労働党
11)アルメニア社会民主労働者組織
1)~(7)の党派がエスエル系、(8)~(11)の党派がボリシェヴィキ系である。
ボリシェヴィキ系4党は、意見の相違によって退席する。
残ったエスエル系7党は、極秘決議として、まず6月にエスエルを中心としてペテルブルクで武装蜂起を起こすことが採択される。労働者たちに武器を与え、蜂起させるというもの。エスエルが武器を入手して、蜂起を指導することによって、反乱の火ぶたを切る。即ちこれは、明石工作反乱幇助に直接結び付く決議である。

人間明石元二郎195_2
奇跡的で大きな仕事を成し遂げたといわれる明石であるが、やはり軍人。戦後、従軍軍人たちの武功談を耳にすると不快な表情をしたという。何しろ明石の戦友はロシア人でありフィンランド人であり、ポーランド人であった。そして後方攪乱の仕事を痛快とは思わず、野戦攻城の人であることを望んでいたのだ。また、人間臭いところは、晩年に、かつて一緒に反露運動をやった多くの志士たちが非業に斃れ、あるいは捕縛されてシベリアに送られ、生死の消息も分からなくなったことどもを思い、元来詩人気質の明石は悵然として「自分はよほど罪深いことをしたようにおもう」と言ったりした由。

 最後に
明石工作とは何であったか?神話と化した評価もあれば、結局対ロシア戦の帰趨には影響なかったという考えまであるようだ。私としては後者のことは無いと考える。すなわちニコライ2世が、講和会議を受け容れた背景には、国内で著しく増加した社会不安・政情不安があると考える。そしてそれらには明石や盟友シリアクスの工作が与っていると考える。
明石復命書『落花流水』から明石の考えを引用する。『とにかく、スパイ勤務は軍隊を持つ国であれば最も重要な事務に属するが、何分にも方法、手段、経験が少なすぎる。また洋の東西を問わず、将校にとってこの任務は至難といえる。どうかすれば卑しくも恥ずかしい、後ろめたさがあるなどの理由から、任務を嫌がる傾向さえあるのだ。将来においてこうした問題や課題をいかに克服すべきか、今こそ必要であると信ずるものである。』836
(写真左:NHKドラマで塚本晋也が明石元二郎を演じる)

◎卓話後の昼食会でも、栗岡氏を囲んで明石元二郎の豪傑談やインテリジェンス(知性・情報)にも話題が拡がった。島田謹二氏は、広瀬武夫と明石元二郎を対比してみて、どちらも明治人としての一典型とみているようだ。(写真右:卓話後の昼食会にて)181202_970

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コメント

Facebookでやり取りしました。
幾つかの主催団体があるのでしょうが、これがあったそうです。

https://ritouki-aichi.com/kyoei/%e7%a6%8f%e5%b2%a1%e5%8f%b0%e6%8f%b4%e9%9a%8a%e3%81%8c8%e6%9c%884%e6%97%a5%e3%81%ab%e3%80%8c%e7%ac%ac7%e4%bb%a3%e5%8f%b0%e6%b9%be%e7%b7%8f%e7%9d%a3%e3%83%bb%e9%99%b8%e8%bb%8d%e5%a4%a7%e5%b0%86/20190717

明石元二郎に関係してここまで色々あるとは思わなんだ。

大佛次郎のことは、私より年長の諸兄はよく御存じであろう。戦前戦中戦後を通じて活躍。何と幅広い作品を残したことだろう!!『赤穂浪士』『霧笛』『帰郷』『鞍馬天狗』『天皇の世紀』

私は、1984年春にフランス赴任を控え、築地の朝日新聞社まで大佛次郎ノンフィクション文庫(全9冊)『パリ燃ゆ』を買いに行った。“パリ”に惹かれたミーハーだった。
フランスまで行って読まずに戻った。文庫『パリ燃ゆ』の1~6を新装版3冊にまとめて出版されたとき、新たに購入して文庫1~6を処分した。文庫の7~9は、7.ドレフュス事件・詩人・地霊、8.ブゥランジェ将軍の悲劇、9.
パナマ事件なので、そのままとっておいた。

この度何気なく巻7を手に取ると『地霊』という作品を知って驚いた。大佛次郎は、ロシアの内相プレーヴェの暗殺、下手人を指揮したのが革命勢力エス・エルの戦闘集団の長であるアゼーフという男で、彼は、オフラーナにも通じていた。こんなことも書いていたのだ。すなわち内務省管轄下なので、上司を殺戮したことになる。エス・エルの顔としては、明石元二郎らにも接触したが、明石も、シリヤクスもアゼフの二重スパイは見抜けなかった。

大佛次郎は、こんなことも書いていたのだ。戦中は、検閲の制約の中で作家活動をした。大佛次郎は、アゼーフのことを怪物といい、『アゼフは、実際に、驚いた人間である』と書いている。

司馬遼太郎「大諜報」は、内相暗殺についてこう書いている。「プレーヴェは革命勢力への弾圧を熱狂的にやったため、開戦後五ヵ月目の夏、ペテルブルグの路上で殺された。 殺したのは社会革命党員であった。 下手人は爆弾を投げてプレーヴェの五体を吹っ飛ばした。」
即ち、司馬はアゼーフの正体に触れていない。

またまた栗岡です。

先般ジョージアの映画『葡萄畑に帰ろう』を観たが、公開記念として【ジョージア文化講座】(全3回)を関係者が設けた。第3回の「ジョージアってどんな国?おもてなしの心と国民性」を聴講した。

トークゲストは、ダヴィド・ゴギナシュヴィリ氏(名→姓の順だそうだ。)慶応義塾大学政策・メディア研究科博士課程修了で博士号を持つ。慶応大学SFC研究所上席所員で、駐日ジョージア大使館の専門分析員でもある。
話しは、世界遺産、グルジア正教会の多声聖歌ポリフォニー (polyphony)を含むが、一般的概括的ながら面白かった。

長い歴史を誇る国だが、近代・現代を通して反ロシア(ソ連)が一貫している。ゴギナシュヴィリ氏 も、ジョージア人は、ロシアを怖れる気持ちが強いという。

反ロシア帝政ということでは、グルジア革命的社会主義者連邦派党デカノージ(講師によれば、グルジアらしい名前~~ヴィリがあるらしいが聴き取れなかった)などいわば明石元二郎の同志であった。

ようやく、ロシア革命の翌年1918年にグルジア民主共和国として独立するが、それも、1921年には、皮肉にもグルジア人で、ボリシェヴィキのヨシフ・スターリンによるグルジア侵攻で独立を失う。
現在の独立国の地位は1991年3月31日、国民投票で独立を承認、4月9日独立宣言。
ソヴィエト連邦が解体し、旧ソ連を構成する11カ国が参加する独立国家共同体(CIS)が発足したが、グルジアはそのなかでただ1つ加盟を拒否した。
講演後、個別に質問というか意見を聞いた。
私の卓話「陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について」について、当時のジョージアの不平党を、明石元二郎大佐が支援したことを言うと、かなりの支援を受けたことを知っていた。修士課程は政治学専攻であり、当然自国の歴史としてよくご存知であった。ちょっと失礼であったかもしれない。
もひとつ尋ねたが、あの不思議な文字のジョージア(グルジア)語には、系統ある語族、ファミリーがないそうだ。まるで、バスク語のようだ。

栗岡です。

偶然に、明石についての記述を見つけてしまったので・・・

2001年刊と古いが、読売新聞20世紀取材班編『大日本帝国』に「勝利の謀略」があり、(以下引用)

「外なる天業(てんぎょう)恢弘(かいこう)の範を明石大佐にとる」とある。「明石工作」の成果は、情報員を養成した旧陸軍中野学校のテキスト・錬成要綱の中の一節でうかがい知ることができる。天業恢弘は、帝王の事業を押し広めるという意味で、当時の最大級の賛辞だ。明石の縦横無尽の活躍に対し、参謀本部も「ロシア革命煽動は、奉天会戦および日本海海戦の大勝とともに、日露戦争勝利の三本柱だ」と激賞した。(以上、引用終わる)

卓話で申し上げたが、まさに“明石神話”の実態であろう。

ところで、文中の「旧陸軍中野学校」である。司馬遼太郎に「服従について―小野田寛郎氏の帰還」という文章がある。「司馬遼太郎を語る会」に集う人たちは、皆この帰還のこと強く記憶に残っていよう。

司馬は小野田氏の出現を理解できないとしつつ、当時一般には、小野田氏が「旧陸軍中野学校」で受けた教育を以て理解しようとする向きがあったのではないか?

これに対して司馬は「この人をもって、戦前の教育やわずか一年の中野学校教育の結果だというのは、ばかげている。教育というのはそれほど効果のあるものではない。その証人として戦前の教育をうけた人は無数にいるし、私はほぼかれと同世代に属し、似た時期に軍隊にいたが、たれひとりかれのような人を見なかった。」と自らをも歴史の証人にしている。

栗岡です。

卓話に取り上げると、不思議なことに、関連事項にしばしば遭遇する。それは驚くばかりだ。

近く早稲田松竹で、ロシア帝国領のリガに生まれたソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による革命3部作などの上映がある。

①「ストライキ」処女作 エイゼンシュテイン監督は、これで脚光を浴びる。

②「戦艦ポチョムキン」(1905年の事件)は、2作目。制作は1925年
黒海で反乱を起こした戦艦ポチョムキンとその船員たちを描いた映画史上屈指の名作

③「10月(世界をゆるがした10日間)」(1927年)

「戦艦ポチョムキン」は、とりわけ有名で、私より上の年齢の方は、青春時代に観た人もいるに違いない。必ずしも政治信条ではなく映画ファンとしてであっても。私は映画開眼が遅くこれまで観ていない。

昨年12月に『陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について』を卓話したが、黒海はオデッサでの「戦艦ポチョムキン」事件は、明石工作が神話なので何とも言えないが、明石およびエスエルのアゼーフ(デカンスキー)などが与っているという見方もある。明石の復命書「落花流水」にはこう書いてある。 戦艦ポチョムキンの事件は、アゼーフの門下の「オメルチューグ」と「フェルドマン」が起こしたものであると。

その点でも私は観に行かねばならない。

しかし『社会主義の20世紀』といわれ、社会主義革命勃発も、その終焉も同じ20世紀なのだ。そして革命に至る前夜に、ロシア帝政の不満分子・不平党を支援したのが日本帝国陸軍の明石大佐だ。なんとも感慨深いものがある。

ジョージア(グルジア)映画を観ました。コーカサスには、明石工作に協力した不平党の人たちもいました。そんなジョージアの映画です。面白いです。

岩波ホール 『葡萄畑に帰ろう』

この映画の予告を見て、必ず観ようと思った。ジョージアへの関心は幾つかあった。
①大相撲の栃ノ心 剛史(とちのしん つよし)は、ジョージア・ムツヘタ出身
岩波ホールロビーの資料では、ジョージアの東部地域がワインの産地だという。
ムツヘタは首都トビリシ北方だが、両市ともにどちらかというと国内東部にあり、栃の心の実家もワイナリーだということはよく知られている。つまり私の関心①はワインだ。なにしろタイトルが「葡萄畑に帰ろう」だ。
②今月私は「陸軍情報将校・明石元二郎の対ロシア諜報活動いわゆる“明石工作”について」を語ったが、明石大佐とともにロシア帝政を揺るがす活動に「ゲオルギー党」総務委員デカノージなども活躍した。ジョージアとは、いったいどんなところなのだろう。またスターリンが出たり、ソ連末期にはシュヴァルナゼも出た。もちろん時代が大きく変わり、ロシア、ソ連の軛から離れ1999年から欧州評議会のメンバーである。
「葡萄畑に帰ろう」は、チェコの劇作家だったハベル大統領が書いた戯曲を脚色したということをはじめて知った。
主役はジョージア政府で大臣を務めるギオルギ(ニカ・タバゼ)。政界の権力争いに巻き込まれ突然要職を失う。地位や財産が奪われるなかで下した決断は、母親の暮らす「葡萄畑に帰ろう」だ。
映画の冒頭で、主人公ギオルギは、なんとまあ!“国内避難民追い出し省”大臣だが、ボタンひとつでどこにでも(上空でさえ!)移動できる椅子を注文して、それくらいに大臣ポストにご満悦だった。しかし首相からの指令で難民を追い出すために強硬手段に出たところ大混乱になり、政権が崩壊。ギオルギは職を追われてしまう。

彼はちゃっかりと、難民追い出しで行く場所のない女性ドナラに出会って恋に落ち、彼女と結婚(お互い再婚、最初の妻とは死別)する。しかし陰謀によって住んでいた家からも追い出されてしまう。

本作は、ジョージア国会副議長も務めた監督が自身の政界での経験を盛り込んで描いた人間ドラマということだ。ユーモラスな描写や、過激な風刺が混じる。嘘や駆け引きにまみれた暮らしから抜け出した一家が未来を見つけようと右往左往する物語が描かれる。
そして結局権力から離れて家族、友人たちがいて、ブドウ畑が広がる故郷の愛に気づき、そこへ帰っていく。それが人間としてあるべき姿だとする。
これはまるで、陶淵明の漢詩「帰去来の辞」や「園田の居に帰る」みたいで、ストーリーには満足したが、ギオルギは、中央政界で元政敵が首相の座に就いたニュースに複雑な思いを持ったり、未練がましいところをみせ、人間の弱さか、陶淵明の詩とは異なり中途半端さが残る。
葡萄畑の暮らしによる人生賛歌についてはもう少し描いて欲しかったが、でもかなり面白い映画だ。

陶淵明:帰りなんいざ 田園まさに蕪なんとす 胡ぞ帰らざる 既に自ら心を以て形の役と為す 奚ぞ惆悵として独り悲しまん 已往の諫められざるを悟り 来者の追うべきを知る
実に途に迷うこと其れ未だ遠からず 今の是にして昨の非なるを覚る~~

栗岡です。

石光真清のことを司馬遼太郎が書いていました。『司馬遼太郎が考えたこと』4 に見つけました。「策士と暗号」のタイトルで書いています。

≪日露戦争前、石光真清の「曠野の花」をよむと、このアレクセーエフ総督が出てくる。石光真清は日本陸軍の正規将校で、満州にわたり、軍事探偵としてハルビンその他で写真館を経営して在満ロシア軍の実情をさぐったひとだが、とくに旅順要塞やその軍港のことがさぐりにくく、このため「大して要りもしない広大な土地を大連市外の星ヶ浦に買い求めたり、旅順で雑貨屋や写真館などの開業準備にかかってみたりした」が、この写真館をやっていたある日、「アレクセーエフ極東太守(総督)が写真を撮りに見えるそうです」と、仲間がしらせた。~~アレクセーエフは、石光に「有難う日本人、部下が日頃から世話になっているそうだ。」といって石光真清に握手をしたという。≫

ペテルブルグの公使栗野のことなどもあって、開戦前のエピソードが面白い。

また栗岡です。

落穂ひろいのようにして明石の人物評を書く。

明石元二郎に接した側近がエピソードを語り残しているのだが、その側近というのがひとかどの人物だが、子供も著名人である。

まず森鴎外の後任で陸軍軍医総監になった藤田嗣章氏、そう今年話題になった画家藤田嗣治(Foujitaの方がいいか?)の父親である。彼が明石の強みを、白人への引け目の無いことだったとしている。
朝鮮在任時代の伊藤博文と明石を比較して「伊藤さんはあれでいてなにかと外人をおそれた。だから伊藤時代は外人の鼻息は荒く無理難題を言った。しかし明石さんは一向頓着なく、外人など眼中にない。無理を言う人間がいると、直接出向いて一喝して、引っ込ませたものだ」と語っている。

外国人を平然として手足の如く使う明石は、山県にとって頼もしい男である。45万円に続いて山県は明石に惜しみなく資金を送り続け、その合計は先に述べたように今の金額にして少なく見積もっても70億円に達した。男たちがしたたかに生きた時代の、思い切った決定である。『動乱はわが掌中にあり』

つぎに、石井光次郎氏。

石井光次郎氏は、警視庁、台湾総督府秘書官などを経て、衆議院議員。運輸大臣、衆議院議長を歴任。次女はシャンソン歌手の石井好子である。

「私が仕えた明石元二郎」であるが、短い記事だが、それでも長くなるのでポイントだけにする。対人関係では、細かいことにも神経をつかう。
・書と達磨の絵をよく書いた。
・夫人が朝「あなた、顔を洗っていらっしゃい」「さっき、便所に行った時、手水鉢で、ついでに洗って来た」
・ぺっと痰を吐き出し、それを軍服のポケットに突っ込んで平然と拭き取った。
・シベリア鉄道で便所の中で、百ルーブル紙幣でお尻を拭いたという話しは嘘で、用を足して服を整えている時、下から吹き上げた風で、ポケットの中の札が飛び出し、窓から外へ出て行ってしまったのだと、真相を話した。

・もう一つ面白いのは、明石は豪傑だが、一度だけ人に負けたことがある。
ドイツにいた若いころのこと。秋山好古将軍と二人でビールを飲んでいたら、二人のジョッキに蠅が飛び込んでしまった。明石さんはその蠅をフッと横に吹き寄せてそのビールを飲んだ。すると秋山さんは蠅ごと平気な顔で飲んでしまったという。(石井光次郎談)

栗岡:秋山好古も服装には構わない人だと『坂の上の雲』で読んでいたが、ビールと蠅では、好古にはこんなこともあったのを思い出した。日露戦前にロシアに招かれて好古がウラジオストックでロシアの将官と交歓した。
フランスの話が出た。
ミルスキー大尉「閣下は、フランスで騎兵をお学びになりましたのでございますね」
「騎兵」好古はつぶやきながら、ぴしゃと、首筋のハエをたたきつぶした。つぶれたハエが、掌に汁をながしてくっついている。好古はそのままの手で、ジョッキの柄をつかんだ。
ミルスキーはあきれ顔をした。
「いや、遊びにいっただけです」

栗岡です。
石光真清(いしみつまきよ)のことも書いておきます。
質問者に答える中で(質問そのものは覚えていないが・・・)石光真清のことを話した。
明石元二郎は、風采があがらなかったとか、スパイらしくなかったとかいわれるが、留学、駐在武官として、独、仏、露国を経験し、活躍のスケールも、使った機密費の額も大きい。その点なんとも格好いい。私なんぞは憧れてしまう。その一方で、石光真清を明石とは別の種類の対露諜報の≪特別任務≫を帯びてシベリア・満州で活躍した軍人として話したわけだ。れっきとした19年陸軍士官学校卒の職業軍人だ。
明治初年の国軍建設当時から昭和の敗戦解体まで≪特別任務≫というものがあり現役の軍人ばかりでなく広い分野の人々がこの陰の仕事に活躍した。軍人も、商人になり、写真師、になり、ペンキ屋また僧侶になった。石光真清もハルピンで洗濯屋や写真館を経営、ロシア軍の御用写真師にもなった。
真清の子息の石光真人(まひと)が、父親の生涯を評して「栄光の陰に生きた父」といっているが、正鵠を射ている。
明石元二郎を知る以前だったと思うが、八重洲ブックセンターの文庫コーナーで、不思議なタイトルに引きつけられた4冊の中公文庫があった。それらは『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』であるが、少しページを繰って内容にそそられたのだろう。買って読んだ。熊本の人で城下とは熊本の街をいう。これらは、石光真清が残した大量の文書類を、子息の石光真人がまとめたものである。それでも戦時中に防空壕に埋めていて残ったものだけである。
今は4冊が容易に見つからないのと読み返す気力もないが、数奇といえる軍人生活の描写にとても興奮して一気に読んだ記憶が甦る。
例会に来られた人で、私に『城下の人』が教科書にあった(あるいは知人の話しとしてか)といわれた人がいる。どう扱われたのか興味ある。


栗岡です。

後発事象など。これを書かないと締めくくれないので・・・

①質問があった。『明石はレーニンと会っていたか?』私は答えた。「分かりません。何とも言えない。レーニンが明石と会ったという確たる資料・記録がないからということにしておきます。」素人の手に余る質問だが、学者の著作として紹介した稲葉千晴氏『明石工作 謀略の日露戦争』を読んでいた。

司馬の「大諜報」にはこんな場面がある。いかにも明石・レーニンは会っていたみたいだが・・・
ロンドンであるとき、ポーランド社会党の常務委員が明石を訪ねてきた。明石は葉巻をすすめる。常務委員はその贅沢そうな葉巻をみて、多少ひるんだような顔をした。明石はすかさず、「私は、独立運動や革命運動につよい同情をもっている。しかしこの葉巻だけはやめられない。かつてレーニンが、労働者とつきあおうとすれば葉巻だけはやめよ、という意味の忠告を私にした」『君は、レーニンの友人か』と、反問した。明石はたしかにレーニンの友人であったといっていいが、しかし謙虚に、「理解者のつもりでいる」とのみいった。

稲葉千晴氏『明石工作 謀略の日露戦争』から引用する。
レーニンは、日露戦争でのロシアの敗北がロシア革命を前進させるという、敗戦主義をうたっていた。敗戦が日本帝国主義を利することになろうとも、ヨーロッパにおいてプロレタリアートが勝利すればレーニンの目的は達成される。

一方で明石には、日本の戦勝のために資金の続く限りあらゆる手段を講じる用意があった。ロシア極東での戦争継続能力を低下できれば、革命勢力への援助さえ一切いとわない。こうした考えを持つ両者が、戦争中ヨーロッパのどこかで出会ったとしても不思議ではなかろう。

ここまで理解した上で、上記の司馬の記述や、もっと直接的な両者の会見場面そのものを含む『明石元二郎』という伝記を知れば、研究者でも飛びつきたくなる。

こうして、めでたく明石がレーニンに資金を提供し、レーニンはこれをもとに革命を起こすことになった。レーニンはロシア1905年革命の混乱を拡大させることによって、日露戦争での日本の勝利に寄与した。もうひとつの“神話”の誕生である。

日本側、ロシア側でも、この“神話”の打破のための決め手となる資料が発掘されていず、基本資料も少ない。歴史的事情による。――(日本は)戦後、日露の関係改善で明石の工作を極秘にしたり、(ロシアは)同じく関係改善にあって、オフラーナを使って明石を調査していたことは最低限しか公開しなかった。

②明石工作劇の助演男優は、ロシア皇帝ニコライ2世だ。ロシア革命後、皇帝一家がエカテリンブルク(=先般、万博誘致の決選投票で大阪に敗れた都市)で殺害されてから今年で100年になる。現在、朝日新聞夕刊に「ニコライ2世をたどって」が連載されている。
ロシアは、20世紀に社会主義国家となり、同じ世紀に、社会主義ソ連邦が崩壊した。ニコライ2世と家族はロシア正教会により2000年聖人に加えられている。

③今週8日(土)から新宿武蔵野館ほかで公開される「マチルダ」は、ニコライ2世の皇太子時代の恋を描いたもの。ニコライ2世はバレリーナの恋人と裸で抱き合い、皇帝が負う権力の重責に悩む。人間性や弱さが目立つ描き方だそうだ。観る予定でいる。

大澤です

栗岡さん、卓話お疲れ様でした。

相変わらずの分厚い知識。
さりげない説明一節・一節の中にも、豊富な識見が感じ取れます。
そして、改めてレジメを読み返すと、その奥深さに気付かされます。

「山は枯れている。火をつければ山火事ぐらい起こせそうだ」
怪傑「明石元二郎」
周りに不気味がられながらも、自らの任務にジレンマを感じつつも、忌避せず遂行した。

しかし、司馬さんは持て余したのか、明石をどこか他の本で論じた「松永久秀」と同じく「煮ても焼いても食えない…」と評しています。

ここで「歴史シンポ」の余波を加味させて頂きたく「大諜報」の一端を筆写させてもらいます。

『当時の士官学校の生徒といえば、地方の貧乏士族の子弟であり、逃亡者であった。窮迫のあまり生活費・学費まで無料という、士官学校や海軍兵学校に逃げ込んだ秀才少年がほとんどだったが、果たして彼らが軍人になりたかったのか。更に本当に秀才であったかどうかは疑問である。そして、入学した者の中には、学力だけではなく、人交わりの適合性を欠いた者も多かった。「明石元二郎」もその一人かもしれない…』

私達は秋山兄弟の秀才像を、司馬さんからたたき込まれているので、つい秀才ばかりと思ってしまいますね。

本筋と興味ある逸話がほどよく按配され、レジメを行き来し、いつの間にか語り尽くしている。
こういった栗岡さんの話法を私は規範としたいと思います。

栗岡さん、ありがとうございました。

聴講できなかった湯川です。
腰痛悪化で楽しみにしていた栗岡さんの卓話に参加できなかった。まさに痛恨事だ。
明石元二郎が「坂の上の雲」に登場した修猷館の卒業生だと知り、さぞかし頭のいい男なんだろうと想像を巡らせた。我々が幼少の頃は未だ公立高校が優位で、九州で一番は福岡の修猷館だと教わっていたからだ。
小学生の時、川上操六という名の同級生がいた。この同性同名の人が明治時代に期待された戦の達人(名参謀)だということも「坂の上の雲」で習った。司馬遼太郎は川上の死を悲痛に描くことにより、その代わりを務めた児玉源太郎の天才ぶりを際立たせた。
その川上操六が明石を見出したとは知らなかった。死せる孔明生ける仲達を走らすではないが、川上が日本の危機を明石を育てることによって救ったのであろうか?!這ってでも東久留米に行って、栗岡さんの話を聴かなければならなかった。

卓話をした栗岡です。

中高校時代の同窓生S氏、Y氏そして元同僚F氏が、忙しい中そして遠路を厭わず聴きに来てくれた。初めて参加の感想とお褒めの言葉を頂き感謝に絶えない。

また、笑いのとれない卓話を写真のように熱心に聴いてくださった方々にも感謝します。『こんなことを日露戦争の中でやった軍人がいたのか!』と驚いて聴いてくださったものと勝手に解釈させてもらいます。

さて、本文中に掲示した欧州の地図は1905年現在である。ポーランドやフィンランドはロシアの属領だが、実際は亡国の状態である。ポーランドは史上有名な何度かの周辺強国による分割により消滅状態だ。

ロシアに対して、文化的にも誇り高いポーランド人であるが、1830年のワルシャワの反乱が潰され、以後自治を剥奪された。

フィンランドも1902年、ニコライ2世が、自治権を停止し、フィンランド憲法を停止、ロシア人の総督に無限の独裁権をもたせた。これ以前にフィンランドの公用語としてロシア語を押し付けている。

日露開戦も契機になりこれらロシアの属邦で民族独立の気分が高まる。明石大佐がこれら属邦を煽動対象にしたの当然であった。

しかし両国の反抗党は、過激で行くか穏健でいくか、似たように方針が分かれていた。ロシアを恐れるあまり穏健・慎重・消極的対応を選好する勢力があった。

ロシア国内の反抗党も、2大勢力のエスエル、社会民主労働者党は運動方針に相違があり更に後者はメンシェヴィキ、ボリシェヴィキに分かれてしまう。

こうした諸勢力を糾合する会議の開催は如何に困難が伴ったことか。でも曲がりなりにもパリで、ジュネーブで開催し、ジュネーブでは露都ペテルブルクでの武装蜂起を秘密決議した。明石元二郎も、何とか日露講和が調印されるまえに露都での武装蜂起を成功させたかった。

日本に帰朝して、滞在わずか2ヵ月で再びドイツへ赴任した。本人の希望であったらしい。
長蛇を逸したと漢詩に詠んだ長蛇すなわちロシア帝政と革命の行く末を見届けたかったのだろう。しかし先の滞在中の工作が『革命の裏面史―日本の資金によるロシアの武装蜂起』に暴露され、駐在武官の任に堪えず、帰国を余儀なくされる。無念であったろう。

余り触れなかったが、明石もロシアの秘密警察オフラーナに追われたり、日本の暗号がすべて読まれていたり、ロシアと同盟していたフランスがこの面でもロシアに全面協力していたなどスリリングな話しもある。機会があれば・・・

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