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2019年1月18日 (金)

私の『アメリカ素描』(1月の卓話から)

《第114回司馬遼太郎を語る会》
日 時:1月14日(月・祝)10:00~12:00
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会 場:東久留米市役所「市民プラザホール」

テーマ:私の『アメリカ素描』~ポーツマスを中心に

卓話者:大 家 憲 司 氏

司馬さんは昭和60年、文明という人工で出来上がったという国アメリカを訪れた。
今回の卓話者大家氏は司馬遼太郎記念館主催の『アメリカ素描』と『ニューヨーク散歩』の舞台を訪ねるツアーに参加した。
大家氏の案内で司馬さんが辿った足跡を追体験させてもらった。
以下は卓話者大家氏が記した卓話レポートである。(jikuu)

はじめに
私は司馬遼太郎がアメリカ合衆国を「the  Steats」という言葉に興味を魅かれて、アメリカの原点であるピューリタン102人がメイフラワー号で上陸したプリマスを訪れた。
ケネディ大統領の曾祖父もアイルランドからの移民した人物だった。676
プリマスにはこの地を初めて踏んだプリマスロックという記念の花崗岩が残されていた。
私は日米衛星放送のテレビ実験の日にケネディ大統領がダラス遊説中に暗殺された第一報を鮮明に覚えている。「日米の重要な記念の日に、こんな悲しい報道をしなければなりません」と報道された。

私の身体のどこかにアメリカという世界が蓄積されているように思う。
旅の起点はボストン、この地はケネディ大統領が育った街でもある。ハーバード大学を卒業して43歳で大統領になった。
その名言「アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのでなく、あなたがアメリカのために何ができるかを問うべきである」という演説は中学生だった私の脳裏に焼きついている。
この思いが、初期の移民者の思い全てだった。これが司馬遼太郎のいうアメリカ合衆国「the  Steats」だろう。

小村寿太郎
小村寿太郎は小柄で約143センチ、小さい身体に黒いフロットコートを着ると頭が大きく口の両端に下がった貧相な髭を生やして精彩のない姿だが、それでも行動力があるので、「ネズミ公司」と呼ばれた。Photo
父親は飫肥藩に勤務し6人兄弟の長男として育った。東京帝国大学に入学、第1回文部省留学生に選出されてハーバード大学に留学した。
帰国後、公私ともに不遇な生活を送ったあと、外務大臣陸奥宗光に認められて清国駐在公使、駐米特命全権公使、駐露特命全権公使、駐清特命全権公使を歴任、明治34年に桂太郎内閣の外務大臣に任命され日英同盟を締結した。
日露戦争終了時に講和会議の全権大使に任命され講和条約の成立に力を注いだ。(写真左:小村寿太郎が座っていた椅子)
「自分は国家に属していて、いかなる派閥に属さない」という態度をつらぬき、藩閥と党閥が私利私欲によって国家を滅亡させると常に警告していた。 519
明治時代の日本外交は小村という天才的な努力の外交官により成り立ったようである。私は現在の政治家には小村のような清廉潔白な性格が不可欠だと感じている。

日露戦争
日露戦争において国民は戦争で負けると日本国は消滅してロシアに支配される危機感で臨んだ。そのため、国民は肉親を戦場にとられ戦費調達のため重税に苦しみながらも耐えていた。
陸軍が奉天を陥落させ、海軍も日本海海戦で海戦史上ない圧勝でロシア艦隊を壊滅させた。国民は心から熱狂して万歳を叫ぶ騒ぎだった。190114_855
しかし、武器、弾薬のストックがほとんどなく8億円と見込んでいた戦費も18億円以上に達していた。兵隊の損失も激しく、経済的にも軍事的にも戦争の継続は難しい状況だった。日本の戦力がすでに限界状態だった。このことを国民は知らなかった。
一方、ロシアも低賃金や住宅難を強いる国王ニコライ2世や貴族の独裁政治に対して、民衆の反乱が相次ぎ、革命運動の高揚で戦争継続が困難な状況にあり、士気も落ちて一刻も早い戦争の終結を望んでいた。
両国に戦争終結の講和条約を斡旋したのが、当時の第26代アメリカ大統領ルーズベルトだった。
日本は開戦を決定した御前会議で金子堅太郎の渡米を決ねた。金子の任務はアメリカ事情に詳しくルーズベルトとも面識もあるので和平斡旋を仕向けることだった。金子はルーズベルトと面会して条約締結の斡旋を受けて、日本の戦況が有利の中、日露会議の開催地をポーツマスに決定した。

ポーツマス
ポーツマスはボストンから北に91キロメートル離れた古い港町である。清教徒が開いた街並みだけに小さなエリアに白い教会が落ち着いた雰囲気を感じさせる。
日本が東アジアで勢力を得ると満州からロシアの繊維工業を排除して、アメリカの繊維工業界が市場を独占できるので大統領に東アジア政策の積極化を要望していた。
しかし、満州の脅威がロシアから日本に替ることで大統領自身の態度も変わり、その後の日本移民排斥や米国艦隊の太平洋巡回による日本威嚇につながった。アメリカの親日的な態度はロシアの巨大化を恐れた政治的事情だった。

日露講和会議
ロシア全権代表はセルゲイ・ウィッテ(元蔵相)。ウイッテは56歳で身長180センチを超す大男だった。皇帝からは「一握りの土も、一ルーブルの金も日本に渡すな」と厳命された。小村はシアトルに到着後、ワシントンでルーズベルト大統領を表敬訪問した。
その際、小村は「大統領はなぜ日本に好意をお持ちですか」という問いに対して、ルーズベルトは英訳の「忠臣蔵」を示したという。また、新渡戸稲造の「武士道」も愛読してその精神はアメリカの「カウボーイ」に通じると理解していた。 853
講和会議の舞台は、海軍造船所第86号ビル3階を改造して会場とした。入口の壁には「この建屋で日露講和条約が締結された」と伝える、階段を上がると、日露講和条約締結の会場であり、部屋には展示棚が並んで、代表団の記念写真や講和会議に尽力したルーズベルト大統領の肖像画やノーベル賞のレプリカの金杯なども飾られていた。(写真右:講和会議場、右下:海軍造船所第86号ビル)
また、小村が使用した回転椅子も鎮座していて、背には「THE CHAIR WAS OCCUPIED BY BARON KOMURA IN HIS PRIVATE ROOM」と真鍮板が刻まれて、司馬さんが訪ねた際に腰をかけた椅子だった。この会議に使用されたテーブルはニューヨーク州トロイ市のレンセラー工科大学から寄贈されて、日本の明治村に保存されている。86610
会議は賠償金、領土割譲問題が難航し、講和条約の締結が決裂寸前になったが、両国代表団は粘り強く予備会議2回、本会議10回を重ねて約1ケ月後の明治38年(1905)9月5日午後3時47分に調印された。

ウェントワース・バイ・ザ・シー
日露会談の期間中は、日露両国の代表団はホテル「ウェントワース・バイ・ザ・シー」を利用した。ホテルはポーツマスの隣町にあり、富裕な避暑客用で地方都市には不釣り合いな壮麗だが、宿泊客は両国代表団をはじめ、新聞記者や避暑の一般客で超満室だった。
玄関をエレベータで2階に上がり、日本側代表団は左側別館、ロシアは右側別館を利用した。2階は廊下で左右の別館が連絡できるので、両国代表団は極秘会談をホテル内で開催して条約成立に有効だった。
日露講和条約の締結後、ホテルの庭には日本から移植した桜や木蓮が植えられたという。現在も講和会議を偲ばせるように木蓮の花は満開だった。ポーツマス条約100年後に建立された「平和の碑」も草に囲まれている。 848

ポーツマス歴史協会
ポーツマス歴史協会には「平和への誓い」が展示されている。ポーツマス市民は両国の全権大使たちを郊外の晩餐会や庭園パーティなどに誘い、交渉が決裂しないように励ましたという。市民の行動と両国が辛抱強く議論した結果、講和条約が締結された経過を展示している。975
日露両国代表団が市内をパレードした様子を繰り返し放映して、日露会議の関心を物語るように沿道を市民が鈴なりに歓迎している姿が印象的だった。
小村はポーツマス会議締結後に、支援して頂いた感謝を込めてニューハンプシャー州に1万ドル(当時額)を寄付した。これは、現在も日本慈善基金として続いている。

ポーツマス会議終了後
「戦争は完全な勝利だ。だからロシアから樺太および沿海州まで領地を獲得して、賠償金は30億円もらえる」 これを発言したのは東京帝国大学法学部の教授ら7人だった。
これらの扇動者は戦況を知らずにロシアが拒否するなら、戦争を継続せよという決議案まで政府に提出した。
政府は苦境に立たされたが、「日本政府は金が欲しくて戦争した訳ではない」と賠償金を放棄して講和条約を結んだことは、各国には好意的に迎えられた。
日露戦争は大勝利の軍事的成果に、なぜ賠償金を放棄したのかと、国民は激怒して、ポーツマス講和条約締結の日、日比谷公園で河野広中ら政治家が小村外交を弾劾する国民大会が開催された。Photo_2
この集会を解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系の国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちする暴動が発生した。
しかし、戦争継続は軍事面と財政面で国の負担が限界を超えていることを発表すると、ロシアの戦争強硬派が長期化を促し、講和会談が決裂する怖れがあり、政府は実情を公表できなかった。
日露講和条約の反対運動は全国化して、第一次桂内閣は退陣した。
小村は第2次桂内閣で再び外務大臣に就任して、幕末以来の不平等条約を撤廃する交渉を行い、日米修好通商条約を調印して関税自主権の回復を果たした。
政府は日露講和条約時から、国民との会話は崩壊した状態で、40年後の太平洋戦争の幕開けにつながった。
このポーツマス会議は皮肉にも条約締結を分岐点として軍隊が強くなり、国民に神秘的な強さを信仰させる感情だけ残した。
反面、ポーツマス市民は条約の締結後、1世紀以上も経過した現在も調印の日に、ポーツマス市民は自分たちが戦争の継続を止めたという、誇りをもって教会の鐘を鳴らして世界の平和を祈っている。 190114_959

大家氏は昨年5月のツアーではポーツマスの他、ボストン、ニューヨークなどを訪問している。ニューヨークの訪問記は、本年4月に発行を予定している会報「たいまつ」(第8号)に、「アメリカ文明の神殿・ブルックリン橋」と題して寄稿してくれている。ご期待ください。(jikuu)

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コメント

大澤です

大家さん、卓話お疲れ様でした。

大家さんは冒頭、宗教弾圧回避のため、ピューリタン102人がメイフラワー号でイギリス・プリマスを出発、新大陸アメリカ・マサチューセッツに上陸した次第を物静かに切り出されました。

ケネディの「国家があなたに何をしてくれるのではなく、あなたが国家に…」は懐かしかったです。

大半はポーツマス条約、「小村寿太郎」について話されました。
質実・儒教的正直という士風の飫肥藩で18石取りの下級武士出身。
「安井息軒」「小倉処平」等、良き師に恵まれその才能は磨かれました。

「小村」について「坂の上の雲(2)」から引用・紹介します。

『一国の外交は天才的な経綸家のみがなし得る仕事だが、明治の日本はその種の天才を持つことで多少の幸運を得た。
日清戦争では「陸奥宗光」日露戦争では「小村寿太郎」

小村寿太郎の政党論
日本のいわゆる政党なるものは、私利私欲のために集まった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間も、そんな家も、そんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷想から出来上がった一種のフィクション(虚構)である。

藩閥論
藩閥はすでにシャドウであり、実体がない。
ところが、フィクションである政党とシャドウである藩閥とが、つかみ合いの喧嘩をし続けているのが日本の政界の現実であり、虚構と影の争いだけに日本の運命をどう転ばせてしまうか分からない。
将来このうつろな二つの争いのために、とんでもない淵に落ち込むだろう』

なんとも小気味よい論法ですね。

大家さんありがとうございました。

聴講した湯川です。
大家さんの「アメリカ素描」は小村寿太郎を中心に日露戦争の背景から、高橋是清、金子堅太郎らの努力も細かく解説していただいた。
ポーツマスの旗(吉村昭著)さながらに日露講和会議の緊迫感も写真を交えての解説は現地を踏んだ大家さんならではの迫力であった。
「講和条件に不満な民衆による日比谷焼討ち事件→これが40年後の戦争に繋がったのでは」という解説は司馬遼太郎先生も時折テーマにしており、同意するものでありますが、このテーマの総括こそ現在の日本国が明確に答を国民に見せなければならない。だから情報開示だとテレビで解説する人はいうが、当時の日本には弾薬なく戦争継続能力がなかったので情報開示するとロシアが戦争継続して日本が植民地化した可能性も考慮しなければならなかった。
司馬遼太郎も結論を出せなかったが我々が議論し続けなければならない国民に投げかけたテーマであろう。

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