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2019年4月

2019年4月22日 (月)

「街道をゆく 中国・江南のみちⅡ~杭州・紹興散策」(5月例会のご案内)

「司馬遼太郎を語る会」から5月の例会のご案内です。

 今回は中国・江南が舞台です。文化記録映像監督の重森貝崙氏が『中国・江南のみち』から、杭州・紹興の歴史と文化を語ります。
映像「中国の食文化・江南」も楽しみです。じっくり味わっていただきます。

「茶は、中国文明をよく象徴している。古代の鉄および製鉄も蛮族がそれを持っていたように、茶もまた、蛮族から出て、漢民族によって高度に技術化され、普遍的なものになっていくのである」(『街道をゆく~中国・江南のみち』)

《第118回司馬遼太郎を語る会》

日 時:5月24日(金)10:00~12:00

会 場:東久留米市役所「市民プラザホール」(1階)

(西武池袋線東久留米駅西口徒歩8分)

テーマ:「街道をゆく 中国・江南のみちⅡ~杭州・紹興散策」

卓話者:重 森 貝 崙 氏(文化記録映像監督)
180714-958
(昨年の重森氏の卓話)

参加費:400円

🚩
奮ってのご参加をお待ちしています。
問合せ:時空の旅人(0712shibaryo@gmail.com)

2019年4月15日 (月)

「フランス革命と明治維新」(4月の卓話から)

《第117回司馬遼太郎を語る会》

日 時:4月13日(土)10:00~12:00

会 場:東久留米市役所「市民プラザホール」190413-14

テーマ:「フランス革命と明治維新」~その偉大さと悲惨さ

卓話者:斉 藤 弘 昭(司馬遼太郎を語る会代表)                                                                                

🌀
昨年は明治維新150年、今年はフランス革命230年にあたる。
司馬さんは「明治維新は革命だった」と言い切っている。
革命と言えば、その代表はフランス革命だろうと思い調べてみたくなった。
歴史も文化も異なる二つの国、西洋と東洋と遠く離れていて時代も80年ほどの差がある二つの革命、机の上にそっと置いてみていくつかの方向から眺めてみてみようとした。
私にはちょっと重いテーマであることを承知のうえで。

明治維新は革命であった
司馬さんは明治維新について、次のように語っている。
「明治維新は国民国家を成立させて、日本を植民地化の危険から救い出すというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命でした」
「明治維新は<革命ではなく権力が移行しただけだ>という説が一時期おこなわれたが、四民の実情はそういうのんきなものではなかった。封建制が一挙に否定されたために、階級としてとくをしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立したのである」(『この国のかたち(一)』・明治の平等主義)
また、フランス文学者である桑原武夫は、司馬さんとの対談の中で言う。
「ぼくは明治維新は革命だと思っていますが、その革命のあり方は、白人だけが世界を支配しているということに対するもどかしさも働いて、ナショナルな傾向にあった」(『二十世紀末の闇と光』・革命史の最高傑作)

フランス革命を学び直してみた
フランス革命は世界史上代表的な市民革命であり、前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命である。
絶対王権に対する貴族の反抗を機に、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わった。
そして1794年のテルミドールの反動ののち退潮へ向かい、1799年、ナポレオン・ボナパルトによるクーデターにより終結した。
(司馬遼太郎「ミシュレの『フランス革命史』は見事ですね。読みだすと夕方になっても電灯をつけることさへ忘れて読みふけるような興奮を覚える」)
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第一段階:立憲君主制の樹立(フィヤン政府)
1879年5月、三部会が開催される。第三身分は三部会を国民議会と改称して、憲法制定までは解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は武力で国民議会に圧迫を加えるが民衆はこれに対抗して、7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃した(革命の勃発)(写真下)。
この情勢に応じ、国民議会は封建的特権の廃止を決議し、人権宣言を採択した。この宣言は人間の自由平等、主権在民、私有財産の不可侵をうたい、近代市民社会の原理を明らかに表明している。1791年には初めての憲法が公布された。
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第二段階:共和政の成立(ジロンド政府)
憲法制定直前、国王一家は国外逃亡をはかって失敗し(ヴァレンヌ逃亡事件)、国民の信頼を失った。オーストリアとプロイセンの国王が革命に干渉する用意があることを宣言して対外危機が高まった。ジロンド派は反革命の策動を戦争によって封じようとしてオーストリアに宣戦する。
危機を迎えてフランス国民には愛国心が高まり、全国から義勇兵が集まった。このとき義勇兵が歌っていた行進曲が「レ・マルセイエーズ」で後にフランスの国歌になる。
1792年8月、パリの民衆は王宮を襲撃し、王権は停止された。9月には普通選挙による国民公会が招集され、共和政を成立させた。
(1793年1月21日、ルイ16世処刑)
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第三段階:恐怖政治(ジャコバン独裁)
1793年6月、ジャコバン派はジロンド派を追放し、ロベスピエールを中心に公安委員会を拠点にして反対派を多数処刑する恐怖政治をしいて革命防衛体制をつくった。一方で、価格統制や土地改革によって都市民衆や農民との連携を図った。
やがて派内に内紛が起こると、ロベスピエールはダントンなどの政敵を粛清してさらに権力を強化した。
(ロベスピエール:1758~1794年、1794年7月28日処刑、36歳)
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第四段階:総裁政府
国民公会内では独裁への不満が高まり、パリ民衆も改革が不十分としてロベスピエールから離反し、1794年7月、ロベスピエールは政敵によって倒された(テルミドール9日のクーデター)。
公会内では穏健派が勢力を回復し、総裁政府を発足させた。政局は不安定で、強力な政権の出現を期待する空気が高まってくる。
ナポレオンはイタリア遠征で大勝し、対仏大同盟を解体させ名声を高めた。1799年11月、軍事クーデターにより総裁政府を倒し統領政府をつくった。ここにフランス革命は終了する。
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フランス革命の日本への影響
司馬さんは桑原武夫との対談のなかでこのように語っている。
「フランス革命が明治維新に及ぼした影響というものをちょっと考えて見たのですが、これは、直接、具体的なものはないようです。ルソーは間接の間接くらいで影響している。むしろ、ナポレオンの影響が強い。ナポレオンというひとは、明治維新の革命家たちを奮起させていますね」(『二十世紀末の闇と光』・革命史の最高傑作)

また、フランスにも留学しルソーを日本に紹介したことでも知られる中江兆民は次のように書いている。
「普通、民権とよばれているものにも二種類あります。イギリスやフランスの民権は回復の民権です。下からすすんで取ったものです。ところがまた、別に恩賜の民権とでも言うべきものがあります。上から恵み与えられるものです」 (中江兆民『三酔人経綸問答』)
中江兆民自身は、欽定憲法のように恩賜の民権は本物ではないと思っていた。
(中江兆民:1847~1901年)
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フランス革命と明治維新
革命の担い手は誰か
革命の担い手は、深刻な危機感を抱いていた者たちである。
フランス革命の担い手はブルジョワと大衆である。この二つは利害が対立し激しい葛藤が革命を右に左に揺さぶった。
日本の場合は、武士たちが中心になって明治維新の変革を成し遂げた。自らの手で幕藩体制を葬り去った。日本には豪商や豪農はいても革命を担う層としてのブルジョワはいなかった。

革命のきっかけは何か
フランスでは旧体制の矛盾が顕在化した。まず貴族が王権に対して反抗し王権が麻痺する。ブルジョワは旧体制では経済活動が行き詰ると危機感を抱いていた。平民は貧しいままの暮らしにあえいでいた。こういったことが重なり、どちらかと言うと内発的要因によって革命が起こった。啓蒙思想でブルジョワが目覚めたと言うことも大きかったに違いない。
日本は西洋による侵略からの防衛のために立ち上がった。「明治維新は国民国家を成立させて、日本を植民地化の危険から救い出すというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命でした」ということだろう。
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革命前の政治構造の違いが大きかった
フランスは絶対王政を敷いていた。国王中心の強力な政治体制である。日本は封建制度の下にあり、大名が領国を治めている連いわば連邦国家みたいなものと言える。しかも、天皇と将軍という頭が二つある国家である。国家防衛の期待を将軍に求めても頼りにならないから、もう一つの頭である天皇に集中しようとした。これはうまく受け皿があったからソフトランディングが出来た。
また、フランスでは旧体制は徹底的に壊したが、日本では封建制度、江戸時代からの遺産を引き継いだ、ということは大きな違いと思う。
司馬遼太郎は次のように語る。
「(江戸日本の)多様さは、明治初期国家が、江戸日本から引き継いだ最大の財産だったと言えるでしょう。」(『明治という国家』・江戸日本の無形遺産<多様性>)
(晩年のマリーアントワネット)
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国民国家の成立
どちらも革命によって国民国家が成立した。
「国民はフランス革命によって成立した概念で、この革命以後、フランスは世界最初の国民国家になった」
「江戸期には四つの階級がありました。その四つの階級がひとつになるには時間がかかります。実際のところ、明治期の学問あるいは政治、行政を支えていたのは旧士族でした。それ以外の階級だった民衆を加えて、国民がだいたいひとつになったのが、日露戦争だろうと思います」(『明治という国家』・国民の成立とオランダ)

革命の青写真
司馬さんは、明治維新を「青写真なしの新国家」だったと言う。
フランスには人権宣言がある。フランス革命はこれの実現を目指したものだった。
司馬さんは青写真はなかったというが、明治初年には五か条の御誓文が示されている。(1868年3月14日)
明治維新もこれの実現を目指す過程だったと思う。

おわりに~革命について
「いつの日にか、太陽が、この地球の上で、自由な人間だけを、つまり自分の理性以外には主人を持たない自由な人間だけを、照らすときがきっと来るだろう」(ロベスピエールの側近サン・ジェスト)
「革命のリーダーたちはいつの日にか、理性と幸福が地上を支配するに違いないという、高い理想のともしびを掲げ続けたのです」
「フランス革命というのは、偉大と悲惨をともにそなえた人間の情念の巨大な噴出であった、と思うのです」(東大教授・西洋史学:遅塚忠躬)
(岩波ジュニア新書『フランス革命』遅塚忠躬、1997年刊)
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<フランス革命を担った人々>
ミラボー(1749~1791、42歳)、革命初期の指導者、立憲派
ラファイエット(1757~1834、77歳)、フィヤン派、両世界の英雄
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シエース(1745~1836、88歳)、中間派、革命の教師、
バルナーヴ(1761~1793、処刑32歳)、三頭派
ダントン(1759~1794、処刑43歳)、ジャコバン派(コンドリエクラブ)、大革命の享楽児
マラー(1743~1793、暗殺50歳)、ジャコバン派(エベール派)、人民の友発刊
ロベスピエール(1758~1794、処刑36歳)、ジャコバン派の領袖、革命の殉教者、
サン・ジェスト(1767~1794、処刑27歳)、ジャコバン派、恐怖政治の大天使
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参加していただいた皆様、ありがとうございました。
提起された質問や感想などはよくよく考えてみたいと思います。
昼食会も楽しいひとときでした。
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2019年4月 8日 (月)

「司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?」 (3月の例会から)

《第116回司馬遼太郎を語る会》

日 時:3月30日(土)10:00~12:00 

会 場:東久留米市役所「市民プラザホール」

テーマ:「司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?」

    ~幕末は高須四兄弟の分断から始まった

卓話者:湯 川 一 平 氏  
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湯川氏の卓話は今回で4回目となる。過去2回は西郷隆盛に関わる話であった。
今回は、少し遡り幕末動乱のきっかけとなった安政の大獄から話が始まった。
いろいろなエピソードを紹介しながら分かりやすいスライドを示し語ってくれた。幕末の真実を垣間見た思いである。

司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?

「井伊は政治家と言うには値しない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来固陋な攘夷論者にすぎなかった。だからこの大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の幕史を罷免し、洋式訓練を廃止して軍制を権現様以来の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。この極端な反動家が米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその開国に反対すると狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である」(『幕末~桜田門外の変』より)
なかなか司馬遼太郎は手厳しい。(写真:井伊直弼)
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井伊直弼は1963年の大河ドラマ『花の生涯』(原作:船橋聖一、主演:尾上松緑)で放映された。

井伊直弼の大老就任(安政5年(1856年)4月)

井伊直弼は大老に就任した。最大の課題は条約の調印と将軍継嗣問題である。
6月、日米修好通商条約は勅許のないまま調印された。幕府はアメリカと調印したことを老中が署名した文書で朝廷に届けた。
これには孝明天皇は激怒、譲位するとまで口にしたという。

将軍世子は和歌山藩主徳川慶福と前水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家の養子に入った慶喜に絞られていた。
井伊直弼、松平容保や大奥らは南紀派として慶福を支持していた。
慶喜を押していたのが実父の徳川斉昭はじめ、越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内豊信、宇和島藩主伊達宗城などである。
第14代将軍は慶福(家茂)に決まった。

戊午の密勅(安政5年(1856年)8月)

安政5年8月、天皇は井伊直弼を糾弾する勅書(戊午の密勅)を京都滞在の水戸藩士に下し、諸藩にも勅書の趣旨を伝達するように命じた。
これを知った幕府は水戸藩に勅書を幕府に差し出すことを命じたが、水戸藩の有志が抵抗した。こうして幕府・大老と水戸藩の軋轢が高まっていき、桜田門外の変に帰着していく。  
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安政の大獄(安政5年(1856年)9月)

これは幕府批判勢力に対する根こそぎの取り締まりであった。
<この獄で処刑されたもの>
橋本左内(越前福井藩、斬罪)、梅田雲浜(小浜藩士、獄死)、吉田松陰(長州藩、斬罪)、 頼三樹三郎(京都町儒者、斬罪)、安島帯刀(水戸藩家老、切腹)、鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居役、斬罪)、鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居役、獄門)、茅根伊予之介(水戸藩奥右筆、斬罪)、飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来、斬罪)、日下部伊三治(薩摩藩士、獄死)、藤井尚弼(西園寺家家臣、獄死)、信海(僧侶、月照の弟、獄死)、近藤正慎(清水寺成就院坊、獄死)、中井数馬(与力、獄死)

時代の激動を生きた高須四兄弟

父は松平 義建(よしたつ)、尾張徳川家分家美濃高須藩第10代藩主、正室は水戸徳川家。祖父は松平義和(よしなり)、水戸藩の第6代藩主徳川治保の次男である。
高須四兄弟とは、次男慶勝(尾張藩主)、五男茂栄(高須藩主⇒尾張藩主:茂徳)⇒一橋家当主)、七男容保(会津藩主、京都守護職)、八男定敬(さだあき:桑名藩主、京都所司代)の血を分けた兄弟を言う。
四兄弟は高須家からそれぞれ他家に養子に行き、異なる立場で幕末の激動期を迎えることになる。
水戸家と高須家は極めて深い関係にある。(写真は左から、定敬、容保、茂徳、慶勝。明治11年に撮影されたもの)
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松平容保、動く

万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こった時、老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。
容保は水戸家への直接の密勅の返還についても、家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる。
文久2年(1862年)27歳の時、53日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。
京都守護職の要請があった際、容保は時疫にかかって病の床にあり再三これを固辞した。しかし政治総裁職松平春嶽や幕臣達は日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。
(写真は文久3年(1863年)、孝明天皇より賜った純緋の御衣より作られた陣羽織を着用)

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 桜田門外の変(万延元年(1860年)3月)

安政7年(1860年)3月3日、彦根藩邸を出た大老井伊直弼は桜田濠に沿って進んだ。この日は、春の大雪で藩士は雨合羽を着し刀には柄袋をつけていた。濠端から水戸浪士の森五六郎が訴状を持って近づき、いきなり切りかかった。これを機に大乱闘となり大老の首級が挙げられた。
この時の拳銃所持はリーダーの関鉄之介、直訴状の森五六郎の二名。森五六郎が撃った銃弾が井伊直弼に命中したのかどうか。
蓮田市五郎絵巻では、なぜか森山繁之介が拳銃を構えている。
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有村兄弟のこと

桜田門外の変が起こる前年、有村兄弟は水戸と連携して井伊直弼を討つことを決意。紆余曲折あり四男の次左衛門のみが参加し見事に本懐を遂げる。次兄の雄助は、幕府を恐れた藩の意向で鹿児島にて母や精忠組の立ち会いの下、自害。
長兄の俊斎は日下部の娘を娶り海江田性を名乗り海江田信義となる。
実は、戊午の密勅を江戸水戸屋敷に運んだのが、水戸から薩摩に帰藩した日下部(旧性、海江田)伊三次である。日下部は息子とともに安政の大獄で獄死した。
俊斎が日下部の娘を娶ったのは、日下部親子の無念を果たした次左衛門の覚悟を分かっていた日下部家からの依頼であった。この話は司馬遼太郎『幕末』に「桜田門外の変」として所収されている。
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徳川慶喜とその側用人

徳川慶喜は一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任、江戸幕府最後の将軍である。
徳川(一橋)慶喜の側用人はいずれも水戸家から出ている。
武田耕雲斎:戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と言われる。
平岡円四郎:藤田東湖や川路聖謨からその才能を認められ、徳川慶喜が一橋家に入ったとき一橋家に推薦された。
原市之進:昌平坂学問所出身。弘道館の訓導(教師)奥右筆頭取。
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天狗党の悲劇

水戸藩は「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しかった。
元治元年(1864年)3月、藤田小四郎(東湖の子)を中心とする急進グループは攘夷の実行を幕府に迫るとして、筑波山(茨城県)で兵を挙げる。天狗党は朝廷に尊王攘夷を訴える為に京都にいた一橋慶喜を頼り、元家老の武田耕雲斎を総大将とし西をめざして出発する。しかし、頼みにしていた慶喜が追討軍の指揮を執っていることを知り、先に進むことをあきらめ、加賀藩に降伏する。
結果、残酷な大量処刑が行われる。(死罪352人、島流し137人、水戸藩渡し130人)
大久保利通日記には、「実に聞くに堪えざる次第なり。これをもって幕府滅亡の表れと察せられ候」とある。薩摩が慶喜を見限った日になった。
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水戸家の血を引く高須藩出身の容保はなぜ南紀派だったのか。なぜ一橋家を推すさなかったのか、今も疑問である。

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卓話後の昼食会も、幕末論議に花が咲きました。

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