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2019年4月 8日 (月)

「司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?」 (3月の例会から)

《第116回司馬遼太郎を語る会》

日 時:3月30日(土)10:00~12:00 

会 場:東久留米市役所「市民プラザホール」

テーマ:「司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?」

    ~幕末は高須四兄弟の分断から始まった

卓話者:湯 川 一 平 氏  
      190330-122                                                                         

🌀
湯川氏の卓話は今回で4回目となる。過去2回は西郷隆盛に関わる話であった。
今回は、少し遡り幕末動乱のきっかけとなった安政の大獄から話が始まった。
いろいろなエピソードを紹介しながら分かりやすいスライドを示し語ってくれた。幕末の真実を垣間見た思いである。

司馬遼太郎は井伊直弼公がお嫌い!?

「井伊は政治家と言うには値しない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来固陋な攘夷論者にすぎなかった。だからこの大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の幕史を罷免し、洋式訓練を廃止して軍制を権現様以来の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。この極端な反動家が米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその開国に反対すると狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である」(『幕末~桜田門外の変』より)
なかなか司馬遼太郎は手厳しい。(写真:井伊直弼)
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井伊直弼は1963年の大河ドラマ『花の生涯』(原作:船橋聖一、主演:尾上松緑)で放映された。

井伊直弼の大老就任(安政5年(1856年)4月)

井伊直弼は大老に就任した。最大の課題は条約の調印と将軍継嗣問題である。
6月、日米修好通商条約は勅許のないまま調印された。幕府はアメリカと調印したことを老中が署名した文書で朝廷に届けた。
これには孝明天皇は激怒、譲位するとまで口にしたという。

将軍世子は和歌山藩主徳川慶福と前水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家の養子に入った慶喜に絞られていた。
井伊直弼、松平容保や大奥らは南紀派として慶福を支持していた。
慶喜を押していたのが実父の徳川斉昭はじめ、越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内豊信、宇和島藩主伊達宗城などである。
第14代将軍は慶福(家茂)に決まった。

戊午の密勅(安政5年(1856年)8月)

安政5年8月、天皇は井伊直弼を糾弾する勅書(戊午の密勅)を京都滞在の水戸藩士に下し、諸藩にも勅書の趣旨を伝達するように命じた。
これを知った幕府は水戸藩に勅書を幕府に差し出すことを命じたが、水戸藩の有志が抵抗した。こうして幕府・大老と水戸藩の軋轢が高まっていき、桜田門外の変に帰着していく。  
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安政の大獄(安政5年(1856年)9月)

これは幕府批判勢力に対する根こそぎの取り締まりであった。
<この獄で処刑されたもの>
橋本左内(越前福井藩、斬罪)、梅田雲浜(小浜藩士、獄死)、吉田松陰(長州藩、斬罪)、 頼三樹三郎(京都町儒者、斬罪)、安島帯刀(水戸藩家老、切腹)、鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居役、斬罪)、鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居役、獄門)、茅根伊予之介(水戸藩奥右筆、斬罪)、飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来、斬罪)、日下部伊三治(薩摩藩士、獄死)、藤井尚弼(西園寺家家臣、獄死)、信海(僧侶、月照の弟、獄死)、近藤正慎(清水寺成就院坊、獄死)、中井数馬(与力、獄死)

時代の激動を生きた高須四兄弟

父は松平 義建(よしたつ)、尾張徳川家分家美濃高須藩第10代藩主、正室は水戸徳川家。祖父は松平義和(よしなり)、水戸藩の第6代藩主徳川治保の次男である。
高須四兄弟とは、次男慶勝(尾張藩主)、五男茂栄(高須藩主⇒尾張藩主:茂徳)⇒一橋家当主)、七男容保(会津藩主、京都守護職)、八男定敬(さだあき:桑名藩主、京都所司代)の血を分けた兄弟を言う。
四兄弟は高須家からそれぞれ他家に養子に行き、異なる立場で幕末の激動期を迎えることになる。
水戸家と高須家は極めて深い関係にある。(写真は左から、定敬、容保、茂徳、慶勝。明治11年に撮影されたもの)
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松平容保、動く

万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こった時、老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。
容保は水戸家への直接の密勅の返還についても、家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる。
文久2年(1862年)27歳の時、53日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。
京都守護職の要請があった際、容保は時疫にかかって病の床にあり再三これを固辞した。しかし政治総裁職松平春嶽や幕臣達は日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。
(写真は文久3年(1863年)、孝明天皇より賜った純緋の御衣より作られた陣羽織を着用)

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 桜田門外の変(万延元年(1860年)3月)

安政7年(1860年)3月3日、彦根藩邸を出た大老井伊直弼は桜田濠に沿って進んだ。この日は、春の大雪で藩士は雨合羽を着し刀には柄袋をつけていた。濠端から水戸浪士の森五六郎が訴状を持って近づき、いきなり切りかかった。これを機に大乱闘となり大老の首級が挙げられた。
この時の拳銃所持はリーダーの関鉄之介、直訴状の森五六郎の二名。森五六郎が撃った銃弾が井伊直弼に命中したのかどうか。
蓮田市五郎絵巻では、なぜか森山繁之介が拳銃を構えている。
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有村兄弟のこと

桜田門外の変が起こる前年、有村兄弟は水戸と連携して井伊直弼を討つことを決意。紆余曲折あり四男の次左衛門のみが参加し見事に本懐を遂げる。次兄の雄助は、幕府を恐れた藩の意向で鹿児島にて母や精忠組の立ち会いの下、自害。
長兄の俊斎は日下部の娘を娶り海江田性を名乗り海江田信義となる。
実は、戊午の密勅を江戸水戸屋敷に運んだのが、水戸から薩摩に帰藩した日下部(旧性、海江田)伊三次である。日下部は息子とともに安政の大獄で獄死した。
俊斎が日下部の娘を娶ったのは、日下部親子の無念を果たした次左衛門の覚悟を分かっていた日下部家からの依頼であった。この話は司馬遼太郎『幕末』に「桜田門外の変」として所収されている。
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徳川慶喜とその側用人

徳川慶喜は一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任、江戸幕府最後の将軍である。
徳川(一橋)慶喜の側用人はいずれも水戸家から出ている。
武田耕雲斎:戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と言われる。
平岡円四郎:藤田東湖や川路聖謨からその才能を認められ、徳川慶喜が一橋家に入ったとき一橋家に推薦された。
原市之進:昌平坂学問所出身。弘道館の訓導(教師)奥右筆頭取。
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天狗党の悲劇

水戸藩は「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しかった。
元治元年(1864年)3月、藤田小四郎(東湖の子)を中心とする急進グループは攘夷の実行を幕府に迫るとして、筑波山(茨城県)で兵を挙げる。天狗党は朝廷に尊王攘夷を訴える為に京都にいた一橋慶喜を頼り、元家老の武田耕雲斎を総大将とし西をめざして出発する。しかし、頼みにしていた慶喜が追討軍の指揮を執っていることを知り、先に進むことをあきらめ、加賀藩に降伏する。
結果、残酷な大量処刑が行われる。(死罪352人、島流し137人、水戸藩渡し130人)
大久保利通日記には、「実に聞くに堪えざる次第なり。これをもって幕府滅亡の表れと察せられ候」とある。薩摩が慶喜を見限った日になった。
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水戸家の血を引く高須藩出身の容保はなぜ南紀派だったのか。なぜ一橋家を推すさなかったのか、今も疑問である。

🍺☕

卓話後の昼食会も、幕末論議に花が咲きました。

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コメント

湯川です
大澤さんのアシストで、幕末の複雑さの根本を主張できたと思います。
幕末維新に関して、単純に公武合体佐幕派と尊王攘夷討幕派に分かれて争ったかのように説明している解説本とか見ると悲しくなりますね。
井伊直弼が本当に最大の難局を背負う宰相として相応しかったかどうかは疑問に思っておりますが、あそこでは誰がやっても同じような混乱になったのでしょう。
ただし井伊が大獄を起こしたのは結果的に徳川を割ってしまったのですから、新政府側の功労者に他ならず、皮肉としか言いようがありません。
会津に関する私の疑問は、今後の卓話者に期待したいと思います。
大澤さん、ありがとうございました。

大澤です

湯川さん、卓話お疲れ様でした。

いつもながら、エピソードを交えながらの分かり易いお話でした。

騒然とした「安政」の時世。新時代幕開け時の混沌とした世相。

教科書的におさらいしますと、ペリー率いる黒船来航は嘉永6年(1853)です。
その時の幕政責任者は「阿部正弘」。阿部はその10年前25歳の若さで老中となりました。
その後「天保の改革」失敗で失脚した「水野忠邦」の後を受け、老中首座に抜擢されるなど、異例の出世を遂げる譜代大名のホープでした。
しかしペリー来航・開鎖問題という外患だけではなく、将軍継嗣問題、いわゆる「一橋派」と「南紀派」の対立という内憂を抱えていました。

阿部は「言路洞開」(対話で道を開く)の方針をとり、大名・朝廷・はたまた武士以外の人々まで広く意見を求めました。
しかし議論百出。結局消極的開国論・日米和親条約締結を決意しました。
そして阿部は幕府の政権基盤・海防の強化など「安政の改革」を進めました。
しかし39歳の若さで急逝してしまいました。

続いて立った「蘭癖・堀田正睦」は日米通商条約の手続きを進めようとしましたが、孝明天皇・水戸徳川斉昭等の強硬な反対にあい、頓挫・老中罷免の憂き目にあいます。

そしてわが「井伊直弼」の登場。…その後の経過はご承知の通りです。

興味深いのは「言路洞開」…阿部のみならず、直弼亡き後の彦根藩でも佐幕・倒幕の是非。
「松平容保」も京都守護職受け入れにあたり、尊皇攘夷派に対し「内外・大小問わず何でも申し出よ」という布告を出しました。
江戸時代も意外と開かれていたのですかね。

湯川さんありがとうございました。

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